君さえ


Hello, my sweetie.(ジェイド)


「──嫌いですよ、貴女のことなんて」

 4月1日、午前11時23分。ジェイドがその言葉を吐いたのは、もうじき昼食だろうかというそんな曖昧な時間のことだった。
 場所は学園の図書館。勉強が出来るようにと配置された机と椅子の群れの中。近く小テストがあるのだと嘆いていた、後輩でもある恋人の勉強指南をしていた最中。他愛のない会話の中にふと転がしたのはそんな言葉。向けた先は勿論、目の前に座ってノートと教科書にかじりついていた小さな恋人ただひとり。
 にこりと微笑んだ彼の表情は、その言葉に対する彼女の反応を楽しみにわくわくとしていた。
 エイプリルフールの嘘かと呆れるだろうか、面白がって「私もですよ」と乗ってくれるだろうか、それとも冗談を怒ってくれるだろうか。何でもよかった。歴史の暗記ばかりに必死な彼女の思考を、少しでも自分という存在で塗り替えることが出来れば、それで。
 ぱちぱちと彼女の丸い瞳が瞬いた。そして彼女は何か考えるように視線を下へ、下へと下げていく。その様子に、ジェイドはおや、と意外さを感じる。いつもの彼女ならば、今のようなジェイドの言葉にはすぐさま辛辣な言葉を返してくるというのに。言葉の回転が速い彼女にしては、珍しい反応だ。
 机の上のノートを見つめる瞳を飾る睫毛が揺れた。

 ──そして、次の瞬間、その瞳がじわりと滲む。息を呑んだ。

「……そ、ですか」

 じわじわと濡れていった瞳からぽとりと雫が一粒こぼれ落ち、ノートに水跡を残した。それは空から落とされた最初の雨粒だったらしい。ほろほろと、彼女の瞳からは次から次へと涙があふれては世界を濡らしていく。
 予想外の彼女の反応に、ジェイドは自分らしさも忘れて焦った。それはそれは焦った。

「嘘です、嘘ですから……! すみません、エイプリルフールだからと調子に乗りました。謝罪します」

 慌てて椅子から立ち上がり、机を回って彼女の隣へと駆け寄る。元来ジェイドという男は他人の涙に何の感情も抱かない性格をしているのだが、そこは惚れた弱み。この恋人たったひとりだけの涙に対しては、どうしてもいつものような冷静な判断をすることが出来なくなる。
 彼女の座る椅子の隣で床に膝をついて、ジェイドは彼女の顔を覗き込む。涙に濡れて僅かに赤くなった瞳がじろりとこちらを睨んでいた。それに苦笑いを浮かべて、ジェイドはその頬へ手袋を外した手を伸ばした。その指先が拒絶されなかったことに、一先ずの安堵を覚える。

「すみません、まさか泣いてしまうとは……」
「……あはは、残念でした。ウソ泣きです」

 涙を拭ってやりながらジェイドが何度目かになる謝罪を繰り返せば、それを受けた彼女が突然くすくすと笑ってそんな言葉を紡ぐ。してやったり、というその表情に、ジェイドは虚を突かれて目を丸くする。
 ──なるほど、そういうことか。全てを理解したジェイドは、そんな彼女の姿に柔く微笑みを浮かべた。

「おや、これは一本とられましたね。……ウソ泣きなんて器用な真似、貴女にはできないでしょう」

 全く、本当に愛らしい嘘を吐かれたものだ。
 ジェイドの言葉に笑みを消して不機嫌そうにむくれた彼女へ、さてどう機嫌をとろうかと考える。こうやってたった1人に振り回される現状を、ジェイドは嫌いになれないのだ。

「お詫びといってはなんですが、何かお願いを聞きましょう」
「……この間食堂のメニューに追加された、特大パンケーキ」
「それぐらいでいいんですか?」
「を、一緒に食べて。ひとりじゃ食べきれないから」
「……かしこまりました、では今日のおやつはそれにしましょう」

 シロップとホイップクリームのたくさん盛られたそれは、きっと胸が焼けるほどに甘ったるい砂糖の塊なのだろう。まあ、ジェイドにとって彼女以上に甘い存在まなんて、世界のどこにもありはしないのだけれど。



2020/4/1

- 10 -

*前次#


ページ: