君さえ


結局、惚れたが負けなのだ。(ジェイド)


 日曜日。授業は休みで、天気は良好。だからといって、試験も遠くイベント事も用意されてはいない今日、私の予定は『暇』のただ一文字で表される退屈なもの。
 布団と洗濯物を干して、部屋の掃除を軽くして、窓の外に広がる昼前の晴れた空を見上げた。
 陽だまりになった応接室のソファに転がっていびきをかいている我が相棒グリムの姿を横目に、私はひとつため息を吐く。やはり暇だ。
 一先ず購買へ行って買い物を済ませ、昼食をどこかで食べて図書館にでも行こう。
 そう決めた私は、服を着替えてグリムに書き置きを残し、オンボロ寮を出る。空に向けてひとつ伸びをし吸い込んだ空気が酷く澄んでいて、何となく気分が軽くなった。

 購買で必要なものを注文し、ついでに昼食用のパンと飲み物を買い込んで中庭に出た。休日だからか、そこに人の気配はない。どこで昼食をとろうかと考えながらふらふらと歩き、あえてベンチではなく木陰になった芝生の上に腰を下ろすことに決めた。
 ぼんやりと空を仰ぎ、校庭の方から聞こえる運動部のものと思しき声を聞く。食んだ購買の菓子パンは、相変わらず絶妙な美味しさだった。
 そして食べ終わったパンのごみを袋に纏めている最中、ふと視界の隅に動く人影が映った。反射的にそちらへ視線の全てを向けた刹那、それまで酷く穏やかに脈打っていた心臓がどくんと異常なほどに泣き叫ぶ、
 木陰から見える、二階の廊下。そこを三人の生徒が歩いていた。凛と背筋を伸ばし真っ直ぐに前を見据えて歩く眼鏡の男と、彼を挟むように佇む、背の高い二人の男。視界を彩った浅瀬色の片方に、意識の全てが奪われて行く。
 浅くなった呼吸で何とか酸素を肺に取り込むけれど、息苦しさはどうしても解消されない。どくどくと煩い心臓を叱りつけて、私は視線を彼らから、彼から引き剥がそうとする。

 けれど、──黄金色が、黄みを帯びた灰色が、こちらを見た。

 一瞬にして体中から温度が消え去り、呼吸が止まる。すぐさま視線を逸らしたのは、ほとんど反射的な行動だった。鼓動が鼓膜のすぐ傍に聞こえる。地面に転がしていた荷物全てをかき集めて、私はその場所から逃げるように駆け出した。

 ──彼の名はジェイド・リーチ。私の先輩で、そして、

 逃げ込んだ図書館の片隅で、荒れた呼吸を治めようと必死に息をする。試験もない休日の図書館に人気はまばらで、私の姿を見咎める人もいない。それが今はとても有難かった。
 本棚に背中を預けて、ずるずるとその場所に座り込む。冷たい床の感触に頭が冷静さを取り戻していくようだった。
 ……何故、私が彼から逃げたのか。その理由となる感情を、私は未だに明確な言語へと変換することが出来ない。いや、したくない。それをしてしまえば、理解してしまえば、認めてしまえば、全てが足元から崩れ落ちていってしまうような、そんな予感があった。
 震える両手を握りしめて、脳裏に浮かぶあの色彩を必死に意識の外へ追いやろうとする。
 全ては全て、自分を守るための行動だった。

「──……床に座り込んでは、身体が冷えてしまいますよ?」

 けれど、この世界というものはあまりにも残酷で、いつもこうして私の全てを壊してやろうと無情にも牙を向けてくる。ちっぽけなひとりの人間でしかない私がそれから逃げることなんて、きっと一生出来はしないのだろう。

「……っ、」
「逃げないで」

 咄嗟に後ずさった私の身体を、彼の声が引き留めた。どちらにせよ逃げ道は彼の後にしかないため、袋小路以外を味方に持たない私が彼から逃げられる訳がないのだけれど。
 逃げる素振りをしぶしぶ収めた私に、彼はにっこりと微笑んだ。

「こうやって貴女とお話するのは、なんだか久しぶりな気がしますね。……どうも最近、貴女とは不思議なくらいにお会いできませんでしたから」

 含みのあるその口ぶり。きっと彼が言及したいのは、私がここ最近彼を避けて続けているという事実なのだろう。

「……偶然、じゃないですかね」
「偶然、ですか。……その割には今も、僕から逃げようとしていらっしゃったようですが」

 何をどう取り繕ったところで、私が彼を顕著に避け続けていたのは事実。口の達者な彼に対して私の勝算はゼロ。すぐさま口を噤んだ私に、彼の笑みが深まった。

「ああ、決して貴女を責めている訳ではありませんよ? ただ僕が貴女とお話しできない日々に少し寂しさを覚えていただけで……だから、そんなに怯えないでください」

 優しい声に、優しい言葉。優しい表情。彼という存在を構成する、全ての要素。私へ向けられた、『彼』という存在。それがただただ優しいだけのものだったなら、どれ程良かっただろう。けれど、私を見下ろすその双眸に宿った光は、いつも、どうしようもなく私の背筋を震わせる。今この瞬間も、その例外に漏れはしない。
 形容するならばそれは、捕食者の瞳だ。自らの腹を満たすための獲物を見つけた、酷く冷酷で獰猛な瞳。それに見据えられる度に、私の心は恐怖と、──悲哀に、包まれる。
 彼という存在にとって私はただの利用価値がある駒に過ぎなくて、そこにあるのは損得勘定による優しさだけ。この優しさも、結局は見かけだけのそれでしかなくて。

「先ほども随分走ったようですね。髪が随分乱れてしまっている」
 
 だから。だから、私の髪に触れるこの指先の優しさも、全部、全部、『私』というひとつの存在に与えられたものではないのだ。勘違いするな。馬鹿な私を戒める誰かの声が脳内に鳴り響く。胸がぎしぎしと痛みを訴えた。その痛みは全ての感覚を麻痺させてしまう程に強く、強く私を飲み込んで、そして私をころしていく。視界がじわりと無様に歪んでいった。

「……やめてください、」

 唇からこぼれた震え声は、彼への拒絶の言葉を必死に取り繕う。

「もう、やめてください。……もう、私に優しくしないで、」

 彼が私に微笑みかけてくれる度に、私に触れてくれる度に、私の名前を呼んでくれる度に、胸がどうしようもなく喜んだ。それがいつからなのかなんて、もう分からない。気づけば私はそれを抱きしめていて、そして同時にそれを殺してしまわなければと躍起になっていた。
 だって、こんな感情、報われる訳がないのだから。
 彼の性格ぐらい、これだけの時間を過ごせば嫌でも理解してしまう。
 物腰柔らかな愉快犯。行動原理は自らの損得勘定と愉悦感情それだけ。優しさはひとつの手段でしかなくて、感情は利用するための道具に過ぎない。そんな男に愛だの恋だのを求めるなんて、お門違いにも程がある。どうせ利用されて遊ばれて、最後は遊び飽きた玩具のように捨てられるだけだ。

 ──だから。だから、こんな感情、早く泡になって消えてしまえ。

 一体、何度そう願っただろう。祈っただろう。けれど、やっぱりこの世界には神様なんて都合のいい存在はいないから、どれだけ空を仰いだところで願いなど決して叶わない。消えろと念じる度に、死んでしまえとナイフを突き立てる度に、死んで消えて行くのはその感情を殺したがる私ばかり。彼への想いは消えるどころか募るばかり。
 ぼろぼろになった心の傷口からこぼれ落ちたそれはいつしか化け物となり、私を苛み苦しめるようになった。自らが生み出した感情に食い殺されるなんて、何と皮肉なことだろう。
 私が彼を避け続けたのは、それが理由だった。
 こんな化け物を飼ってしまった私は、声を持つこの喉で、一体彼に何を言ってしまうのだろう。両の足を持つ私は、この身体で一体彼に何をしてしまうのだろう。怖かった。この感情を表にしてしまうことが。この感情を彼に知られてしまうことが。
 この感情を、彼に拒絶されてしまうことが。

「……僕のことが、嫌いになってしまったのですか?」

 眉を下げて、哀しそうな表情。きっとそれも作り物。そう分かっているのに、ずきずきと痛む胸が、赤子のように泣いていた。

「……嫌い、」

 嘘吐き。

「……嫌いです、貴方のことなんて。大嫌い」

 嘘吐き。


「本当に?」


 静かな彼の問いかけに、息が詰まった。滲んだ視界をそのままに、私は彼を睨みつける。そうしていないと、今にも全てがこぼれ落ちてしまいそうだった。

「気になるなら、ご自慢のユニーク魔法でも使ってみればどうですか?」

 そう言い捨てて、私は立ち上がる。そして彼の言葉も聞かずにその場所から逃げ出そうと、足を前へ踏み出した。彼の隣を抜けて、出入口の方へ。──けれど、それは許されない。
 後ろから強い力で腕が引かれ、背中が壁に叩きつけられる。痛みは無かったけれど、その突然の衝撃に呼吸が止まった。咄嗟に閉じた瞼を、恐る恐る開く。
 視界を埋めたのは、彼の姿だった。私の両隣には彼の手のひら。逃げ出すことはもう許されない。至近距離から私を見下ろすその二色の双眸に、ぞわりと背筋が波立った。静かなその表情に感情は宿されていない。与えられる威圧感に、恐怖感に、情けなくも腰が抜けそうになった。
 一体自分は今から何を言われるのだろう。彼のユニーク魔法に全てを暴かれてしまうのだろうか。あんなにも嫌がっていたはずなのに、諦めを宿し始めた思考回路はそれでもいいかもしれない、なんて投げやりなことを言う。
 彼の瞳を見つめていることが出来なくて、私は視線を爪先へと落とした。そのせいで涙が一粒こぼれ落ちたけれど、もうそれに構っている余裕もない。

「……顔を上げてください」

 彼の声が頭上から落とされる。それに従うことも応えることも、私はしない。
 動かない私に痺れを切らしたのだろう、彼の手が伸ばされ、私の顎を奪う。ぐいと強制的に上を向かされた私の世界は、やはり彼に埋められて、そして、

 そして、

「──え、」

 ゼロになった距離と、頬をくすぐっていった柔らかな髪先。近すぎてぼやけた視界に瞬いた色彩、唇に触れた温度。自分の身に何が起きたのかを理解するまでに、長い時間を要した。
 一秒、二秒。十秒ほどが過ぎただろうか。ようやく状況に追いついた思考回路が答えを弾き出して、そして間もなくキャパシティーオーバーにショートする。心臓が叩き出した血液が、あっという間に身体中の体温を上昇させていった。
 燃えるように熱い頬はきっと、林檎のように真っ赤に染まってそれは情けない有様なのだろう。
 あまりの衝撃に固まった私の姿を見下ろして、彼がくすくすと酷く楽しそうに笑っていた。

「──その様子では、僕のユニーク魔法を使うまでもなさそうですね?」

 はくはくと金魚のように唇を開閉させる。彼に何か言葉を放ちたいのに、文字が頭の中をぐるぐると巡って意味のある文字列になってはくれない。あんなにも面倒くさく拗れていた感情も全て、彼の行動ひとつであっけなく吹き飛ばされてしまった。
 最初からきっと全ては決められていたのだ。
 そもそも、私が彼に勝てたことなんて、今までたったの一度もありはしなかった。

「もう一度聞きましょう、僕のことが嫌いですか?」

 それはただただ単純な質問。ユニーク魔法も何も使われてはいない、ただの彼の言葉。
 全部理解しているくせに、態と問いかけてくる彼の何と意地の悪いことか。それも今に始まったことではないけれど、むくむくと胸に湧き上がった反発心が私の言葉を喉元にせき止める。
 唇を引き結んだ私に、おや、と彼が困ったような声をあげた。けれどその表情は相変わらず食えない笑みを浮かべたまま。この状況をただただ楽しんでいる肉食魚の佇まいだ。

「困りましたね。……では、正直に全てを打ち明けて頂ければ、僕もちゃんと全てを言葉にすると約束します。これでどうですか?」

 いつものような、契約を前提とした口ぶり。何故だろう、怒りからか、悔しさからか、彼を睨みつける私の瞳からまた涙がこぼれ落ちた。私の言葉を塞ぐのは、今となってはもう『意地』のただひとつだけ。
 けれど、次の瞬間彼が見せた表情に、その意地もまた泡のように弾けて消えてしまうのだ。

「ああ、泣かないでください。……どうしたものでしょうか。今まで他人の涙になんて何の感情も抱きはしなかったというのに、貴女の涙にはそうも言っていられないようだ」

 その瞳に宿った僅かな焦燥の色に、ぱちりと私は瞳を瞬かせる。それは始めて見た色だった。ほろほろと雨粒のように降り続ける私の涙を指先で優しく拭って、彼が困ったように笑う。いつもと同じ表情なのに、どうしてかいつもとは違って見えた。

「……流石の僕でも、利益のためだけに好きでもない人にキスをしたりはしませんよ」

 彼の言葉に、ぱちんと何かが弾けた。胸を焼くこの感情は、一体なんだろう。
 喉がひきつって、目頭が熱くなって、また涙が溢れた。そんな私に、また目の前の彼が狼狽え始める。その姿がおかしくて、おかしくて、そして酷く愛おしくて。

「──好きです、ジェイド先輩」

 ああ、全く。あんなにも思い悩んで苦しんでいた私の時間は一体何だったのか。
 声にすればたった四音のその言葉で、全ては丸く収まる話だったようだ。

「……はい。僕も貴女を愛していますよ」

 涙顔に笑ってみせれば、彼もまた微笑みを返してくれる。
 その微笑みに宿る優しさは、確かに私に向けられたものだった。



2020/3/31

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