君さえ


かすみ草の願いごと(ジェイド/悲恋)


 生き物の身体とは存外強かで、そして存外脆いものだ。

 たとえ話をしよう。ここに一匹の淡水魚がいる。淡水魚はその名の通り、川や湖など塩分を含まない水の中に生息する魚だ。そして淡水魚は、決して海水の中では生きられない。それは何故か? 海水には塩分が含まれているためだ。生まれた時から塩分のない淡水で生きてきた淡水魚は、突然塩分のある世界に放り込まれてしまうと浸透圧などの要因で体内から水分を失い、そうして死に至ってしまう。
 繰り返そう、『淡水魚は、決して塩分に満ちた海水の中では生きられない』。

 ──ここで、塩分を『魔力』に、海を『この世界』に、川や湖を『あちらの世界』に、そして、淡水魚を『監督生』に置きかえてみよう。もう分かるだろう、分かってしまうだろう。

 ある日突然他の世界からやって来た監督生は、魔力のない世界で魔力を持たない存在として生きてきた。そんな彼女がやって来たこの場所は、魔力に満ちた魔法の世界。さらにはその中でも魔法と強く結びついた、魔法士養成学校の中。先にあげたたとえ話と照らし合わせれば、その末路などすぐに検討がつく。
 勿論この世界にも魔力を持たず魔法を使えないひとが一定数存在する。けれど、問題はそこではない。『魔法が使えるかどうか』ではなく、『魔力に慣れているかどうか』が重要なのだ。
 魔力は目には見えない。それでも、確かにそこに存在する。そして、世界のありとあらゆる事象に干渉しうる程の力を持ったものだ。……高濃度の塩分に晒され続けた淡水魚は、衰弱して死んでいく。

 そして、今この腕の中に眠る彼女もまた。

 由緒正しき名門魔法士養成学校、ナイトレイブンカレッジ。大きなその後者の片隅、けが人や病人が運び込まれる保健室。ベッドの並ぶその部屋の中、ひとりの男子生徒の腕の中に、ひとりの少女が眠っていた。
 その表情は穏やか。しかし、呼吸は浅く、肌は白く、誰もが一目で重体だと判断できるような状態だった。固く閉ざされた瞼が開くことがもう無かったとしても、おかしくはないほどに。
 氷のように冷たいその身体を抱きしめて、ジェイド・リーチはその瞼にひとつ唇を落とした。お姫様は魔法のキスで長い眠りから目覚めました、だなんて、そんな都合のいいお伽話が現実になる訳もない。

 ──このままこの世界に居続ければ、彼女は徐々に衰弱し、いつか眠るように死んでしまうのだという。

 彼女の命を長らえさせる方法はただ一つ、彼女を在るべき場所へ帰すことだけ。
 その二択は、ジェイドにとって何よりも胸を裂く究極の選択肢だった。何故なら彼は彼女を心から深く愛して、愛されていたから。
 彼女とずっと一緒に居たいと願った。ずっと一緒に居られると信じていた。けれど現実とはあまりにも残酷で、幸せな時間は糸が切れるようにはたりと終わってしまった。
 固く閉ざされた瞼の向こうにあの丸く輝く瞳は隠されて、紫に染まった唇があの鈴のような声でジェイドの名前を呼ぶことはもうない。小さな手のひらがジェイドに触れて抱きしめてくれることも、抱きしめた身体に温かな体温を感じることも、もう。

 死なせたくない。強くそう願った。
 離れ離れになんてなりたくはない。強くそう祈った。
 彼女の未来には自分がいて欲しかった。自分の未来には彼女がいて欲しかった。
 自分のいない世界で幸せになんてなって欲しくはなかった。
 自分のいない世界でも、ただただ彼女には生きていて欲しかった。

 保健室の扉がノックされ、そしてゆっくりと開かれる。
 その音にジェイドが視線を向ければ、そこにはこの学園を取り仕切る学園長の姿。どこか重い雰囲気を纏いながら、彼は監督生を抱きしめて離さないジェイドへ言葉を投げた。

「──準備が、出来ました。いつでも彼女を元の世界へ戻すことが出来ます」

 静かな声だ。けれど、その音は雨音のようにどうしようもなくジェイドの鼓膜を突き刺して、突き刺して、そしてこれが現実なのだと知らしめる。息苦しさを感じてようやく、自分の呼吸が随分と浅くなっていたことに気が付いた。
 監督生の身体を抱きしめたまま、ジェイドはおもむろに立ち上がる。腕に感じる重さがあまりにも軽くて、思わず足元が僅かにふらついた。

「……いいのですか?」

 学園長の問いかけは、ジェイドの感情へ向けての僅かな恩情。きっとここでジェイドがいいえと応えても、彼は監督生を奪っていくのだろう。それぐらいは分かった。それでも、彼女のたった一人の恋人であったジェイドに、少しの同情を与えてくれたのだ。
 それに小さく笑って、ジェイドは頷く。

「──せめて、見送りだけはさせてください」

 世界と世界を繋ぐための魔法は強大で、そのための特別な部屋を必要とする程だった。
 保健室から、その部屋まで。ジェイドに抱かれて歩く監督生に、沢山の生徒たちが別れを告げにやって来た。皆が皆、眠り続ける監督生の姿に涙を流し、別れを惜しみ、せめてその未来に幸あれと言葉を紡いでいった。彼女はこんなにもこの世界のひとたちに愛されているというのに、この世界には愛されることが出来なかった。そのあまりの理不尽に、自分は何度呪詛の言葉を吐いただろうか。
 人気がまばらになり、学園の奥の奥、地下室へとたどり着く。
 廊下の突き当りに存在する、小さくも頑強な扉。その前に、監督生の相棒でもあった一匹のモンスターが佇んでいた。大きな瞳はうるうると涙に揺れ、ジェイドの腕の中に眠る監督生の名を呼んだその声は酷く震えていた。

「……それでは、中へ」

 学園長の言葉に従い、開かれた扉の奥へ足を踏み入れる。
 正方形のその部屋には、床を埋め尽くすほどの大きな魔方陣がひとつ。その周囲にちりばめられた宝石や魔法具たちは、魔法を展開するうえで必要なものなのだろう。
 魔方陣の中央に彼女の身体を横たえなさいと、指示される。それに従って、ジェイドは魔法陣の中へと彼女を運んだ。ゆらゆらと力の無い彼女の足が、揺れている。浅い呼吸は、弱い拍動は、彼女の命はもう長くはないと必死にジェイドへ伝えてくる。
 
 ああ、そうか、お別れなのか。

 もうずっと前から、監督生が衰弱に倒れたあの日からずっと分かっていたことなのに。今更すとんと胸に落ちてきたその事実が、どうしようもなくジェイドの心を振動させた。
 後悔に意味はない。この結末を退けることなど、誰にもできはしなかった。最初から自分たちの間には、この無情な別れしか残されていなかったのだ。それでも。それでも、

「──僕は、貴女を心から愛しています」

 彼女の身体を強く、強く抱きしめた。抱きしめ返してくれる腕はなくとも、応えてくれる声はなくとも、最後の告白を彼女に伝えなければいけないと、心が叫んでいたから。
 もっと名前を呼べばよかった。
 もっと手を繋げばよかった。
 もっと抱きしめて、もっとちゃんと愛を言葉にすればよかった。
 貴女が好きだと、貴女を愛していると、もっと言えばよかった。

 学園長の紡ぐ呪文に魔方陣が輝き、光が彼女の身体を包み込んでいく。
 そのあまりの眩さに網膜が強く刺激されるけれど、瞳を逸らすことは出来なかった。
 光が縮まり、そして小さく消えていく。
 全てが終わったその場所に、彼女の姿はもうなかった。
 成功ですねと、安堵に悲しみを混ぜた学園長の声が聞こえる。
 喜びながらも泣きわめくグリムの声が聞こえる。

 心にぽっかりと穴が開いたかのようだった。
 それでも、どこかの世界で彼女が生き続けるということだけは確かだった。
 きっとこれは、最善だった。彼女にとって、自分たちにとって。

 じわりじわりと血を滲ませる心を隠して、ジェイドは笑った。
 愛する人の未来を願って、その幸せを祈って。その命に、精一杯の祝福を。


「──……どうか、お幸せに」


 さようなら。さようなら、僕の惜愛。

 そして世界は、また今日も回り続ける。



2020/4/1

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