君さえ


そして人魚は笑った(ジェイド)


「──人魚はこの世界でも不老不死だったりするんですか?」

 窓の外には燃えるような夕焼けが広がっていた。その光に照らされた教室の中には、私と彼のふたりだけ。吐息も、鼓動も、声も、存在するのはふたつ分。
 私の目の前に開かれた教材は、珊瑚の海の地理や歴史についてまとめたもの。
 海の中に沈むその国は、目の前の彼の生まれ故郷でもある場所だ。
 この世界について知りたいと言った私と、ならばまずは自らの生まれ故郷について解説しようと提案してくれた彼。その願ってもない申し出に考える間もなくお願いしますと声を張ったのが、今日の昼休みのことだった。
 そんなこんなで始まった即席勉強会と、その最中に私がこぼした純粋な疑問。
 どうやら彼にとってそれは酷く突飛な言葉だったらしい。珍しく驚きに目を見開いた彼の姿が観測できた。これはラッキーだ。

「……不老不死、ですか」

 内容を噛み砕くように反芻した彼へ、私は頷きを返す。

「はい。……ああ、いや、ちょっと違うか。正確には『人魚の肉を食べると不老不死、または不老長寿になれるのか』、ですね。人魚が不老不死かどうかまでは言及されてなかったかな……まあでも、そんな肉を持っているなら不老長寿ではありそうですよね」
「随分とぞっとしない話ですね……貴女の元々いらっしゃった世界での話ですか?」
「はい。私の生きていた世界の、住んでいた国に伝わっていた伝承ですね」

 昔々、人魚の肉を食べた女性がいました。彼女は十七、八歳の見た目のまま、八百年もの時間を生きたと謂われています。そんな少しホラーチックな話。あの世界のあの国では、それなりに有名な昔話だった。
 珊瑚の海には人魚が住んでいる。そして、目の前の彼もその一人。今でこそその足は陸を歩くための二本足だが、きっと海の中ではそれは美しい魚のそれになるのだろう。想像するだけで、あまりの美しさに心が震えた。

「……あ。安心してくださいね、別にそうだからといって人魚を食べに行ったりしませんから。ただの興味本位です」

 不老不死にも不老長寿にも、今は特に大した魅力を感じない。そうまでして長い時間を生きる意味を、私は持っていないから。
 一応にとそんな注釈を付け加えた私の目の前で、彼はその不思議な色彩のオッドアイを伏せ、何かを考えるような様子を見せていた。聡明な彼のことだ、きっと私には計り知れない何かを考えているのだろう。声をかけるのも憚られて、私は口を噤み彼の姿を伺う。

「……不老長寿、ですか」

 彼の声が、ぽつりと世界に落とされる。赤い、赤い夕焼けの色が、世界の全てを焼いていた。まるで炎の中にでもいるような錯覚に陥ったのは、彼のその瞳にまっすぐ射抜かれたからかもしれない。
 左右で色の違う一対の瞳が、私を見つめている。
 そこに瞬いた光の温度に、どうしてか心臓が警鐘を鳴らし始めた。
 息を呑んで、私はただその瞳を見つめ返す。

 にこりと彼の唇が弧を描いた。


「──もしも本当にそうだったなら、僕はとっくに貴女に自分の肉を食べさせていますよ」


 カアカアと、遠くに烏の鳴く声が聞こえる。
 二人だけの教室に、その音は酷く反響した。

「なんて、冗談ですよ」
「……すっっっごいぞわっときた……先輩怪談話の才能有りますよ。夏場に絶対怪談話集会開くんで、その時はよろしくお願いしますね?」
「おや、それは楽しそうですね。是非お誘いください」
「これは被害者続出だなぁ」

 どくどくと不吉に泣き喚く心臓を抑え付けながら、私は必死に笑った。
 冗談なら、もっと冗談らしい表情で言って貰いたいものだ。
 そんな抗議の声も、背筋を流れる冷や汗と共にいつしか儚く消えていった。



2020/4/1

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