君さえ


愛し愛し君の愛(ジェイド)


『一分間二人で手を繋いで見つめ合わなければこの部屋からは出られません』

 壁に書かれたその文字列を順に視線でなぞっていくこと、早数回目。短い文章かつその内容自体そう難しくはないというのに、何故かその意味はするすると私の頭を駆け抜けて、理解の中に収まってくれない。
 困り果てた私は、助けを求めるように隣に立つ彼へと視線を向けた。見上げた視界の先で、彼は顎に手を当て何かを考え込んでいる。私のような困惑や狼狽えが見えないあたり、やはり彼は冷静だ。

 ──さて、状況を整理しよう。

 今、私と彼、ジェイド・リーチ先輩がいる場所はは白い壁に囲まれた正方形の部屋。大きさはざっと十畳ほどだろうか。窓はなく、扉は私たちが真正面に望んでいる壁にひとつだけ。ついでに言うとその扉の真上に冒頭の怪文章が記されている。そんな部屋の中にあるのは、これもまた真っ白な椅子が二脚だけ。向かい合わせに配置されたそれは、まるで誰かがそこに座るのを待って居るかのようだった。
 そんな部屋の壁に寄りかかって眠っていた私を彼が呼び覚ましてくれたのが、つい数分前のこと。聞けば彼も私と同じように部屋の中で眠らされていたらしい。
 眠る前の記憶を辿ってみたが、私に思い出せるのは図書館で彼と一緒に勉強に勤しんでいた時の記憶まで。それは彼も同様らしく、二人この不可解な現象に首を傾げた。一体だれが何のためにこんなことをしたのか、考えてもその確からしい推測には至れない。
 一先ず部屋を探索してみた結果、唯一ある出入り口らしき扉には鍵がかかって固く閉ざされ、さらには四方の壁も魔法が織り込まれた造りをしており、そう簡単には壊すことが出来ないものだということが分かった。万策尽きた私達に残された最後のヒントが、この文章。
 私の視線に気付いたのだろう、彼がふとこちらへ瞳を揺らし、そして私を見つめて優しく穏やかに微笑んだ。まるで私を安心させようとするみたいに。彼は相変わらず私を甘やかすのが得意だ。恋心を預けて預けられた彼という人から与えられるその愛に、私はただただ溺れることしか出来ない。

「この文章に従う以外の方法も見つかりませんし、騙されたと思って一先ずは試してみましょうか。内容自体は至極簡単なものですし」
「……はい」

 ごもっともな彼の言葉に私は同意し頷くも、やはりその表情と声に不安がこぼれていたのだろう。柔く眉を下げた彼が私に視線を合わせるように身体を屈め、そして私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。

「そんなに不安そうな顔をしないで。大丈夫ですよ、貴女のことは僕が絶対に守り通してみせますから」

 その声に、眼差しに、温かさに、不安で固まっていた心がほろほろと柔らかく溶けては解けていく。吸い込んだ酸素で肺を満たして、私は今度こそ力強く彼の言葉に頷く。そうすれば彼はにっこりと笑って、そのまま私の手を引き部屋の中央に配置されていた二脚の椅子へと導いてくれた。
 それぞれに二人腰を掛け、向かい合う。これで手を繋ぎ合い、一分間見つめ合えばいいと壁の文字は語っているが。……予想以上に、距離が近い。
 触れ合ってしまいそうな彼と私の膝と膝。どちらかというと彼の座高に合わせて作られているらしい椅子は私には少し大きくて、地面に届かない足裏が私を酷く覚束ない気持ちにさせた。なんとなく居心地が悪くて、椅子の上で小さく身体を身じろがせる。

「では、失礼しますね」

 そう言って、彼が私の両手を彼の両の手のひらそれぞれで奪っていった。私のものよりも関節ふたつ分近く大きな彼の手のひらに、どきりと心臓が跳ねる。いつの間にか緊張で冷えてしまっていたらしい指先では彼の体温が酷く鮮明に感じられて、その温度差に心がざわざわと波立った。すっぽりと包み込まれた自分の手のひらに、彼の大きくて繊細で、それでもやはり男性らしくどこか筋張った手のひらに、私はどうしようもない感覚に陥っていく。
 そんな手のひらにばかり視線を向けていた私は、はっと思い出す。脱出の条件として提示されていたのは、これだけではない。手を繋いで、──一分間、見つめ合う。また心臓がひとつ大きく鳴いた。
 視線を上げて彼を見なければ、そう分かってはいるのに身体が言うことを聞いてくれない。目と目を合わせるだけのことが、どうしてかあんまりにも恥ずかしいことのように感じられた。彼と手を繋ぐことも、見つめ合うことも、初めてではないのに。口づけを交わしたことも数えきれない程にあるというのに。どうしてかこうやって改めて「しなさい」と言われると、身体がじわりじわりとどうしようもない熱を溜めていく。

「……こちらを向いてください」

 そんな私の様子に彼も焦れたのだろう、突然、彼の右親指が私の左手の甲をなぞるように撫でていった。それと同時に耳元で囁かれた彼の声に、ぴくりと指先が跳ねる。ぞくぞくと脳髄が痺れるようだった。
 浅くなっていた呼吸を意識して深く、一度、二度と繰り返す。
 そうして意を決し、私は恐る恐る視線を上へと持ち上げた。

 彼の瞳と、視線が交わる。

 左右で異なる色彩を孕んだ一対が、私の視線を捕らえてそうしてゆるりと柔らかな弧を描いた。心臓が一段と煩く跳ねて、呼吸が止まる。どこかとろりとした彼のその色に、どうしてか身体が熱くなってじわりと視界が僅かに滲んだ。

「そのまま、僕を見て」

 彼の言葉に、ぎゅうと唇を噛みしめた。思わず後退ってしまいそうになる身体は、椅子と彼の手のひらに阻まれてその場に留められたまま。
 一秒、二秒、……心の中で十五を数えるまでは耐えられた。
 けれど、二十に至るまでに心がまた落ち着きを失って、気を張っていないと視線がどこか遠くへと逃げ出してしまいそうになった。一秒一秒がまるで千秋のように途方もない時間のように感じられて、一分なんて永遠に来ないのではないかとさえ思ってしまう。
 三十秒。ようやく半分が過ぎたというのに、限界を迎えた私の羞恥心は瞳を揺らそうと眼球へ強い信号を訴えかけてくる。けれどそんな私の心と行動を読んだのか、彼の手のひらがぎゅうと私の手のひらをさらに強く握り込んだ。喉を乾いた空気が通り抜けていく情けない音が鳴る。きっと飛び跳ねた心臓の音は、彼にまで届いてしまったことだろう。

「目を逸らさないで」

 まるで悪戯をしようとした子供を窘めるような口調。そんな彼の言葉もまた私の羞恥心をどうしようもなく煽って体温を上げていくのだけれど、反発するための言葉や行動のレパートリーなど持たない私は、ただ必死に唇を噛みしめ睨みつけるように彼を見つめ続けることしか出来ない。そんな私の姿に、彼はまた微笑む。形の良い唇が弧を描いた。

「良い子ですね」

 脳みそが沸騰し頭から湯気が浮かんでもおかしくないぐらいに、私の思考回路はショートし、熱く熱く温度を上げていた。頭がどうにかなってしまいそうだ。いや、もしかしたらとっくのとうに全部おかしくなってしまっているのかもしれない。彼に全部、全部壊されて尽くしてしまっているのかもしれない。もう、正常な思考力も判断力も私には残されていなかった。
 もうすぐ四十秒。心臓が破裂してしまいそうだ。どうかどうか早く時間よ過ぎ去ってくれと必死に願うけれど、時間というものは残酷なほどに平等なリズムで私を軽やかに嘲笑う。
 四十五秒。ふと彼の瞳がぱちりと瞬いて、そして次の瞬間何か楽しいことを思いついたようにゆるりと綻んだ。それに嫌な予感が過っていくけれど、回避する術なんてものを私は生憎持ち合わせていない。
 するりと彼の指先が、私の手のひらを弄んでいく。肌を撫ぜていく彼の指先の感触が、ぞわぞわと私の感覚を刺激してはまた熱を上げていった。ぶわりと頬が熱を孕む。彼に包み込まれているだけだった私の手のひらは、視界の端で彼の指先に絡め取られてしまった。
 手のひらを合わせて、指を絡め合う私と彼。困惑に逃げようとする私の手のひらが、彼の戒めからそれを許される訳もない。きゅうと握りしめられ、また心臓と一緒に指先が跳ねる。
 視線の先では、私を見つめる黄金と黄みを帯びた灰色が、その距離を詰めて私をの瞳を真っ直ぐに射抜き続けていた。ナイフのようなその鋭さは、けれどどこまでも甘くて、甘くて、そして熱くて。身体が爪先から全て溶けていってしまいそうな感覚に襲われる。

「……もうすぐ一分。このまま終わってしまうのは、なんだか惜しい気もしますね?」

 彼の瞳が笑う。私の羞恥心をどこまでも煽って、私自ら視線を外させまた一から全てをやり直させようとでもするみたいに。その性格の悪さに悔しさを覚えるけれど、惚れた弱みというのは強力過ぎて、私は彼をただ睨みつけ子供みたいな悪態を吐くことしかできない。

「……意地悪、」
「ふふ、ありがとございます」
「褒めてないですけど……!」

 せめてもの意趣返しにと、絶対にこの一回で終わらせてやると彼の瞳を睨みつける。けれどそんな私の反応も彼には楽しまれてしまうから、きっと意味などあまりないのだけれど。

 五十五秒。四、三、二、一。
 かちりとどこかで鍵が開くような音がした。

「──残念、開いてしまいましたね」

 私をからかって遊ぶのが大好きな彼は、そう言ってくつくつと笑っている。対する私は扉がちゃんと開いたことへの安堵と、羞恥心を拗らせ続けた疲労感で椅子の背もたれにぐったりと体重を預けた体勢。手のひらが何故かまだ握りしめられたままだけれど、なんだかもうどうでもよくなってきた。

「お疲れですか?」
「……誰かさんのせいで必要以上に」
「おや、それは失礼しました」

 天井を仰いでいた顔をゆっくりともたげて、彼の食えない表情を見つめる。本当に、嫌になるぐらい整った顔に完璧な笑みだ。正直胡散臭いし、実際その腹は黒い。でも、やっぱりそれら全てをひっくるめて彼という存在を愛してしまった彼に、勝ち目などもう残されてはいない。

「これでも、僕も疲れているんですよ? 手を繋いで見つめ合うだけのことでこんなにも真っ赤に染まった貴女のあまりの可愛らしさに、我も忘れて貴女を抱きしめてしまいそうになる自分を、必死に抑え続けていたものですから」

 彼の左手が、優しく私の頬を撫ぜていく。攫われた左手の甲に、彼の唇が落とされる。彼から与えらえる感覚の全てが、どうしようもなく私の心を震わせていく。悪戯っぽく笑みを浮かべた彼の瞳が、伺うように私を見据えていた。それにまた何ともいえない感情が私を襲い、言葉を全て奪っていくのだ。

「さあ、ひとまずはここを出ましょう」

 椅子から立ち上がった彼が、私の腕を優しく引いて外の世界へと導いてくれる。


「──二人きりの世界というのも悪くはありませんが、貴女を愛でるのにこの真っ白な部屋ではあまりに味気が無さ過ぎますからね」


 はてさて、部屋を出た後の私が一体どんな未来を歩むのか。
 それはまた別のお話。



2020/4/5

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