君さえ


夜の時間が長いので(ジェイド)


「苗字さんって、恋人とかいるんですか?」

 そんな酷く純粋な質問が私に襲いかかるように飛んできたのは、新年を祝う会社の飲み会、いわゆる新年会と呼ばれる場でのことだった。酒も回り、お腹も満ち、周囲との会話がとりとめもなく続くそんな頃。若い女性社員ばかりが集まったこの席でそんな話題が盛り上がるのも、まあ必然と言えるだろう。
 レモンサワーのグラスに口をつけていた私はその言葉に一瞬言葉を詰まらせ、視線をゆらりと遠くへ向けた。この様子に追及を止めてくれはしないかなんて淡い期待は、きらきらと輝き続ける後輩社員の瞳に儚くも打ち砕かれた。

「ああー……うん、いるよ。一応」
「おお! どんな人ですか? かっこいいですか?」

 普段恋人の存在なんてほとんど匂わせない私の恋愛話に目を付けたのだろう、身を乗り出すほどの勢いで質問を重ねてくる後輩にやや気圧されながら、私は考える。脳裏に浮かぶのは勿論、私の恋人でもあるあの男の姿。

「……そう、だね。うん、顔はいいかな。身長も高くて仕事も学歴もまあ……」

 正直顔がいいどころの話ではない美貌に、浅瀬色の美しい髪、そしてオッドアイ。こうしてその要素を順に並べていくと、彼の人のスペックがどれだけ高いのかが嫌でも分かる。高すぎていっそ腹が立ってくるほどだ。とりあえず頭の中で腹に一発拳を叩きこんでおいた。現実では報復が怖すぎるのでそんなことはできないけれど。

「すごーい! 好物件じゃないですか!」

 そういう常套な言い回しだとは分かっているが、物件扱いされる彼の何と面白いことか。思わず少し笑みが零れた。けれど、テンションの上がっていく後輩に対して私のテンションは地を這うばかり。また言葉が曖昧に途切れた。

「まあうん、そうだね……」
「……なんでそんなに微妙な顔してるんです?」

 ついに指摘されてしまったそれ。言葉が詰まるのは今日何度目のことだろうか。
 前述したように私の恋人のスペックは高く、世では好物件と持て囃される正直私には勿体ない程の存在である。では何故、私は今こんなにも言葉に悩んでいるのか。恋人への称賛の声に頷くことも謙遜することも出来ないのか。
 ──端的に言おう、奴は性格が悪い。
 しかもただ性格が悪いわけではない。『物腰穏やかで面倒見が良く苦労人という雰囲気を纏った腹黒愉快犯』という正直文字列だけでは何とも理解しがたい性格の悪さだ。ただのクズやヒモ男の方が、分かりやすい分扱いやすくて楽なのではないかと思えることも正直たまにある。
 今までの彼とのあれやこれやを思い出してチベットスナギツネの顔になっていた私の意識を、後輩の「先輩?」という心配の声が現実へ引き戻してくれた。それに応えるべく口を開けば、飛び出してくるのは誰に対してしているのかも分からない謎の言い訳ばかり。言葉にまとまりがないのはアルコールの所為だからどうか許してほしい。
「違う、違うんだよ……嫌いじゃないしちゃんと好き。好きは好きなんだけど……もうちょっと私に優してくれないかなって……思、」

「──おや、僕はこれでも貴女には十分優しくしているつもりでしたが」

 私が言葉を言い切るよりも先に、まるで全て計算されきっていたかのようなタイミングでその場に落とされた誰かの声。聞き覚えのあるその響きに、私の身体が大袈裟なほどにびくりと跳ね上がった。ひ、と喉元からこぼれた声のあまりの情けなさにも今は構っていられない。

「っなんで、なんでここにいるの!?」
 
 振り返った先にいたのはやはりというかなんというか、つい今しがた話題に上がっていた私の恋人、ジェイド・リーチその人で。なんでいるはずのない彼がここにいるんだ、とか、さっきの会話を聞かれてしまっていたのだろうか、とか、頭の中で山のような疑問符が驚愕と焦りと共にぐるぐると踊っている。心臓がばくばくと煩かった。

「もう夜も遅いですし、お迎えに」
「いや、いやいやまだ21時にもなってないから!」

 胸に手を添え慇懃にそう笑った彼へ、私は必死に時計を指差し訴える。未成年ならまだしも私はとっくのとうに成人したいち社会人だ。門限が21時だなんておかしいにも程があるだろう。

「すみません、勝手ながら彼女をお預かりしてもよろしいですか?」

 けれど私の主張など聞くそぶりも見せない彼は、私の周囲の同僚や後輩たちへあの人の良い笑みを浮かべながら言葉をかけていく。その手に既に私の上着や荷物が抱えられているのは目の錯覚だろうか。

「うわ、ほんとにすっごいイケメン」
「どうぞどうぞ! 会費はもう集めてるし、好きに連れて帰ってください」

 同僚たちにも後輩たちにも人の心というものはなかったらしい。彼のスペックの高さに見惚れながら、いとも容易く私の身柄を彼へ受け渡してしまった。今日は2次会まで行くぞと騒いでいたのは一体何だったのか。

「私を無視して話進めるのやめてくれない……?」
「ほら、我儘を言わないで。帰りますよ」
「なんで私が悪い感じになってるの? 絶対おかしいでしょ」

 やれやれとまるで手のかかる子どもを相手取るような彼の表情と口調。それに反発するけれど、相変わらず同僚はじゃあまたねと手を振るばかりで私の言葉など聞いてくれない。彼女らはもう、今も私の隣でにこにこと忌々しく笑っている彼の味方ということだ。顔が良くて外面のいい男はこれだから。

「顔が良くてスペック高い彼氏に愛されてるなんていいなぁ、羨まし〜!」
「恐れ入ります」
「馴染まないで……! ああもう、分かった、分かったから!」

 外堀まで埋めてしまわれた私にはもう抵抗の術など残されていない。
 残りのレモンサワーを一気に飲み干した私は勢いよく立ち上がり、少し離れた席に座っていた上司や先輩方へ暇の挨拶を告げに行く。気のいい上司たちはそれに「気をつけてな」と笑って私を送り出してくれた。
 もう一度席に戻って、同僚たちに絡まれていた彼を回収し店を出る。
 別れ際に同僚へ吐いた「覚えとけよこの裏切り者」なんて呪詛はきっと、アルコールの抜けた明日の朝にはきれいさっぱり忘れられてしまっているのだろう。


「今日は冷えますからちゃんと上着を羽織ってください」

 店前の煌々とした明かりの中、そう言った彼にふわりと上着を肩に掛けられる。確かに今晩の空気はどこか凍てついていて、呼吸をした喉がひりりと痛みを訴えた。
 一先ずは大人しくそれに腕を通した私を見て、彼はにこりと優しく笑う。私が好きになってしまったその表情だけれど、今の私の機嫌を直すにはそれだけでは足りない。無言を貫き通す私に困ったような顔をして、彼は私の手を引いてゆっくりと歩き始めた。

「何をそんなに拗ねているんです?」

 答えなんて分かっているくせに、彼はいつもこうやって、態々私に答えを求めてくる。ああ、本当に腹が立つ。いっそこの手のひらも勢いよく振り払ってしまえたら、どれだけ良かっただろう。

「……まだ楽しみたかったのに」

 人通りの多い夜の繁華街を抜けて、ひとつ角を曲がる。住宅街に近くなったその道には途端に人の姿がまばらになって、ちかちかと明滅する街灯の音が微かに聞こえる程に静まり返っていた。

「いっつもそう。いつも私の邪魔ばっかりして、……ほんと、優しくない」

 晴れた今日の夜空にはきっと星が瞬いているのだろうけれど、地面を睨みつける私にその姿を見ることは出来ない。こんな時だというのに、単純な私の心は、背の低い私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる彼に愛おしさを感じてしまう。

「おや、それは心外ですね」

 ぴたりと彼の歩みが止まる。それに倣って、彼に手を引かれて歩いた私の足も。街灯の真白い光が、まるでスポットライトのように私と彼の形を夜に照らし出していた。
 振り返った彼の瞳が、ゆるりと弧を描いて私を見下ろす。左右非対称なその色彩に、いつまで経っても私の心は奪われたまま。恋は盲目、恋は病。そう分かっていても恋をしてしまう愚かさは、罪になるのだろうか。

「先ほども言いましたが、僕はこれでも、貴女には誰よりも優しく接しているつもりですよ?」

 私の頬を指先で撫でて、彼は歌うようにそう言葉を紡ぐ。
 心を溶かすような優しい声色に思考も溶けてしまいそうになるけれど、私は必死に堪えた。

「……どこが」
「信じて頂けませんか?」
「信じられないよ、だって優しさなんて感じないもの。……分からないよ、私は馬鹿だから。もっと分かりやすくしてくれないと分からない。あなたのことなんて」

 じわじわと視界が滲む。夜に立つ彼の瞳が丸く形を変えるのが、それでも確かに分かった。
 本当は分かっているんだ、彼が私に優しいことも、甘いことも。それでもその確かさを求めてしまうのだ。これは確かに手のつけようもない我儘だと、冷静な誰かが頭の隅で私のことを罵った。
 こんな面倒くさい女、きっと彼にもいつか愛想を尽かされてしまうのだろう。
 それは嫌だと泣いている心が、結局は私のどうしようもない本音なのだ。
 恐る恐る、私は彼の様子を伺った。私を見下ろす双眸に呆れや侮蔑が孕まれていたらどうしようと、そんな不安を抱えながら。


「……分かりました」


 ──けれど、それは結局杞憂に終わってしまうのだ。
 にこりと三日月のように吊り上がった彼の唇に、深い深い笑みを孕んだその瞳に、ぞわりと背筋が波立った。頭の中に鳴り響いた警鐘に、先程までの私の思考回路は全て消し飛ばされてしまう。
 一体何が起きているのかも、一体彼が何を考えているのかも私には分からない。
 ただ唯一、自分が何かの選択を間違えたのだということだけは分かった。


「それでは、貴女にも僕の優しさが伝わるように、今夜はたっぷりと優しくして差し上げましょう。……文句はもう、受け付けませんからね?」


 視界の間近に2色が瞬いた。震える足ではもう、逃げ出すことなど叶わない。
 ──ああ、やられた。
 そう気づいた時にはいつも、もう既に私は彼の手のひらで踊らされているのだ。
 
 
2020/4/6

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