君さえ


緑眼の怪物さん(ジェイド)


 ──ガタン、と私の背後で本棚が大きく揺れて悲鳴を上げた。

 乱暴にそれに叩きつけられた私の背中も小さく軋んで、痛みこそ少なくとも、与えられた衝撃に息が詰まった。咄嗟に閉ざした瞼では世界がどうなっているのかも分からないけれど、身体の横で本棚に縫い付けるように捕らえられた手首では逃げ出すことなどとうてい不可能だということだけが、確かに理解できた。
 恐る恐る、瞼を開く。一瞬ぼやけ、それでもすぐさま鮮明になった私の視界に映ったのは、男子生徒の制服。そしてその向こうには薄暗い資料室の姿が広がっていた。たったひとつの窓からこぼれる外の光はあまりに儚いけれど、それでも私の世界に彼の形と色彩を与えるには十分な光源だった。
 視線を上へ、上へと持ち上げる。私をこの部屋へと連れ込み、そして拘束したその人の顔を見るために。沈黙に凍てついた空気が私の肺を容赦なく刺し貫いていった。
 鮮やかな浅瀬の色が視界に踊る。私を射抜く黄金と黄灰の色に息が止まる。
 表情など無くとも、言葉など無くとも、ただただ彼が『怒っている』ことだけは分かった。

「──……ジェ、イド、先輩……?」

 震える唇で、震える声で、私はそれでも何とか彼の名前を呼んだ。
 彼と出会ってから今まで、彼とお付き合いをさせてもらうようになってから今まで、そう短くはない時間の中でもこんな彼の姿は見たことがない。初めて彼から与えられるその感情の飛礫に、私はどんな言葉も紡げやしない。ただ、ただ、彼の名前を呼ぶことしか。

「……先程の方は、」

 ようやく彼から落とされた言葉の音に、私は小さな安堵と共に声をあげた。先程というのはきっと、私が彼に手を引かれここへ連れて来られる前に私が話していた男子生徒のことだろう。

「あ、えっと、彼はクラスメイトで、小説の趣味が合って……最近、仲良くしてもらっているんです。それでさっきも、」

 小説の話を、と、そう続くはずだった私の声は彼の指先に攫われていった。
 私の頬を怖いぐらいに優しい指先で撫でて、そうして髪に触れた彼。その瞳はただ真っ直ぐに私を見つめている。私を網膜に焼き付けるように、私の罪を問い詰めるように、私という獲物を追い詰めていくように。

「──……談笑の中で、髪を触らせて?」

 ふ、とその唇が淡く弧を描いた。ようやく彼の表情が動いたというのに、今度は安堵など感じられはしなかった。ぞくりと背筋が震えて、頭の中にけたたましいほどの警鐘が鳴り響く。私の髪先を弄ぶ彼の指先が、まるで私の心臓にナイフでも突き立てているかのようだった。
 確かに私は先ほどの男子生徒が髪先に触れることを許した。けれどもそれは、小説の登場人物の髪色や髪型が私のそれに近い、なんていう他愛もない会話の中でのことで。彼にも私にも、特別な感情など一切ありはしなかった。けれどきっと、私がそれをいくら彼に説いたところで彼は許してなどくれない。何故かそんな確信があった。

「……そうですね。ええ。きっとそんな行動は、貴女にとって大した意味など無いことだったのでしょう。ただの戯れでしかなかったのでしょう。──けれど、」

 薄暗がりの中に、彼の双眸の色が鋭く瞬いた。逃げることは絶対に許されない。

「貴女の全て、髪先から心臓に至るまでの全ては、貴女が僕の愛に頷いたあの日、あの時かずっと、紛うことなく僕という存在ただひとりだけのものです。僕の許可なく誰が傷つけることも、触れることも、僕は絶対に許さない」

 グリーン・アイド・モンスター。
 嫉妬に狂った獣は緑色の瞳をしているらしい。
 一体誰だ、そんな言葉を最初に謳ったのは。
 緑色なんて優しい色ではない。今私の目の前にいるこの嫉妬の塊は、黄金と黄灰の色で私を焼いている。正しく歪んだ嫉妬の業火で、私の全てを彼のためにと焼いていく。
 きっとそう遠くはないいつかの未来、私はこの炎に焼きつくされて灰に消えるのだろう。


「──……ご理解、頂けましたか?」


 ──それも悪くはないかもしれない、だなんて思ってしまった私もきっと、畢竟彼と同じ穴の狢でしかないのだ。普段は冷静で静かなその瞳に私への嫉妬の炎を揺らす彼。その姿にどうしようもない愛おしさを感じた私はきっと、この数秒後に彼の唇に噛みついてしまうのだろう。
 その時、彼は一体どんな反応を見せてくれるのだろうか。
 気づけば彼に染められてしまった思考回路を、やはり私は嫌いになんてなれないのだ。



2020/4/7

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