君さえ


いつか嵐が花を攫ってしまう前に(ジェイド)


 どこからともなく吹きすさぶ強い風が、私の身体ごと世界を攫って行こうかとでも言う程の勢いで空を突き抜けていった。
 髪の毛が大きく揺れて、はらはらと風に弄ばれるそれによって視界が閉ざされる。足元を土煙がざあと駆けていく。腕のあたりにぶつかった軽い感触は、飛ばされてきた木の葉か何かだろうか。
 その一陣が去って行ったのを確認して、咄嗟に閉ざしていた瞼を恐る恐る開いた。
 そして視界に映ったその世界の光景にぱちりと目を瞬かせる。

 今日は空が高く青く澄んでいた。
 その色を背景に、風に巻き上げられた薄桃色がひらりはらりと優雅に踊って、そのあまりに幻想的な世界が私の心をどうしようもなく射止めていった。
 言葉を失いただ空を見上げる私の背後に、ひとりの人影が揺れる。

「──おや、監督生さん。こんなところで何を?」

 優しい声に穏やかな口調。咄嗟に振り返った先に立っていたその人の名を、唇が無意識に紡ぎあげていた。

「ジェイド先輩」

 また風が強く吹いて、煽られた身体が大きく揺れる。たたらを踏みながらもなんとか耐え切った私に、彼が少しの驚きと焦りを見せながら歩み寄ってきた。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい。なんとか」
「今日は風が強いですからね……監督生さんは身体が小さいので確かに飛ばされてもおかしくない」
「そんなに軽い身体はしてないんですけどね……」

 苦く笑いながら心配してくれた彼に感謝を述べる。また先程の風に攫われてきたのだろう、さらなる薄桃色の姿が私達の回りをくるくると回ってふわりと柔く地面に落ちていった。
 そのひとひらの行方を見送って、私は再び目の前の彼へ視線を送る。
 そしてその姿に思わず笑みをこぼしてしまうのだった。

「先輩、頭に花びらがついてますよ」

 そう私が彼の頭を指差せば、瞳を瞬かせた彼が私の視線を辿るように自らの頭へと手を伸ばす。前髪の上の方に席を陣取っていたそれはすぐさま彼の指先に掴まり、そしてその瞳の前に掲げられることとなる。ゆらゆらと揺れた花びらは、まるで間近に迫った彼の視線に恥ずかしがっているかのようだった。

「これはこれは、可愛らしいお客様ですね」
「先輩がきれいだからですかね。花びらの気持ちも分かります」
「ふふ、少し照れます」

 微笑んだ彼が指先をぱっと開放すれば、一枚の花びらはまた、風に飛ばされて遠く遠く、青い空に向けて旅に出る。二人その旅路を見送って、再び視線を合わせどちらからともなくふわりと笑みをこぼした。

「これだけ風が強いと、桜が散るのもあっという間ですね。まさに『花に嵐』って感じだ」
「花に嵐……それは慣用句か何かでしょうか」

 私の言葉に首を傾げた彼に、ああ、と私は言葉を止める。なるほど、どうやらこちらの世界では、この言い回しは使われていないらしい。

「そうですね、私の元居た世界での言葉で……ええと、簡単に言うと『折角咲いた美しい花も嵐が来ればすぐに散ってしまう』という事実から、『良い物事には何かにつけて邪魔が入るものだ』という意味で使われていましたね」
「ほう、なるほど……言葉自体は美しいですが、その内容はどちらかというとあまり良くないことを指すのですね」
「はい。まあ花が散っちゃうのは寂しいですからねぇ」
 
 おもむろに見上げた空には、可憐に踊る薄桃色の姿。散り際までこんなにも人を楽しませてくれる桜の花々だけれど、やはり散ってしまうというその事実は酷く心を悲しませる。鼻先を掠めていったひとひらが、まるでまた来年会いましょうと笑っているかのようだった。

「そうですね、花はやはり咲いている姿がいっとう美しい」

 隣で空を仰ぐ彼の言葉に、私はちらりと視線をそちらへ向けた。高い背丈の彼の表情は、見上げる側である私にの視界には映らない。浅瀬色の髪先がゆらゆらと風に遊ばれてる姿が、どうしようもなく私の網膜を鮮やかに焼いた。

「その姿を間近で見られる以上のことはありませんね」

 ゆらりと、彼の視線が揺れる。左右で色を違える虹彩が、そこに私の姿を映してゆるく微笑んだ。
 ぼんやりとその色を見つめながら、その瞳に射抜かれながら、私は静かに思考する。ずっと風は強く吹き続けているのに、先程からそれが私の身体を苛むことがなくなっているという事実に。彼の髪先はずっと風に揺られ続けているという事実に。
 彼の手がゆっくりとこちらへ伸ばされた。その指先から逃げるなんて選択肢を私は持たない。それなのに何故だろう、どくりと心臓が小さく警鐘の声を発した。
 前髪を掠めていった彼の指先の感触と、次の瞬間視界の端に色づいた薄桃。
 今度は私の下に桜のはなびらが遊びに来ていたのだと理解する。
 指先に揺れる薄桃を眺め穏やかに微笑み、そうして彼は再び花びらを空に逃がした。
 風が吹く。世界が揺れる。花びらが遠く空に吸い込まれていく。
 私の足がたたらを踏むことはない。
 彼が優しく微笑む姿が、青い空の色が、薄桃が、私の意識全てを奪っていった。

「──大切な『花』は、ちゃんと『嵐』から護らなければいけませんね」


2020/4/5


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