君さえ


そうだよ全部オレのもの(フロイド)


ワードパレット様より
9番:くそ!《裏切り/高鳴り/浮き彫り》


 視線が交わった。そんな音は実際にはしないのだけれど、私の鼓膜には確かに『ぱちり』という音が聞こえたような気がする。いや、今はそんなことはどうでもいい。
 状況を簡単に説明しよう。
 まず前提として、私はとある一人の先輩のことを避けている。理由は後述しよう。そしてその先輩の名は、フロイド・リーチ。今日も今日とて彼を避けていた私は、歩いていた廊下の向こうから歩いてくる彼の姿に、慌ててすぐ近くにあった資料室の中へ逃げ込んだ。
 まあもちろん一本道であった廊下では彼に私の姿も見られてしまっていて、追いかけてきた彼はもう既に私のいる資料室の中。現在の配置図は、資料室の扉、フロイド先輩、備え付けられていた机、その下かつフロイド先輩側から見て死角の位置に私。──そして、

「あ〜ジェイド〜、今こっちに小エビちゃん来なかったぁ?」

 私の目の前に、フロイド先輩の双子の兄弟でもあるジェイド・リーチ先輩が立っている。
 どうやら私がここへ逃げ込む前からこの部屋の中にいたらしい彼は、向こうから飛ばされてきた兄弟の声に、机の下に隠れる私へ視線だけを向けた。そして彼と私の視線がぱちりと交わったのだが、はてさて、この状況を如何しよう。
 私としてはこのままジェイド先輩に私の存在を秘匿してもらい、何とかフロイド先輩から逃がして頂きたい。けれどジェイド先輩にはそんなことをする利益などないわけで、さらには天秤にかけられたのは双子の兄弟とただの後輩であるわけで。
 それでも何とかなりはしないかと、私は必死に彼に訴えた。視線とジェスチャーで。
 すると、そんな私の姿に小さく微笑みを見せてくれたジェイド先輩。もしかしてと、私の心臓が安堵に高鳴った。──しかし、そこはやはりリーチ兄弟クオリティということだろうか。

「ええ、いらっしゃいますよ。こちらに」

 こんなにも手酷い裏切りが、未だかつて存在しただろうか。いや、実際には裏切りでもなんでもないのだが、私の心情としては、それは裏切り以外の何物でもなかった。
 声にならない悲鳴による私の抗議も、にこにこと楽しそうに笑う彼に届きはしない。なるほど、彼はただただこの状況を最大限に楽しんでいるだけだということだ。胸に湧き上がる怒りの感情は、振りかざす暇もないまま消えて行く。
 何故なら、私にはそれ以上に注意を向けるべき対象がいたから。

「あ、ほんとだ〜。小エビちゃん、見〜つけた」

 机の上から私を覗き込むその人の瞳が、私を射抜くように見つめた。表情も声も笑ってはいるのに、その瞳に宿る色だけがどこまでも恐ろしくて。身体が恐怖に固まり、ひ、と情けない悲鳴は音にもなりきれないまま喉元に消えていった。

「それでは、僕は行きますね」
「ん〜、じゃね〜」

 まさに蛇に睨まれた蛙。いや、ここではウツボに睨まれた小エビだろうか。実際の生態においてウツボが小エビを捕食することは無いと謂われているが、今はそんな事実など関係ない。ずっと彼を避け続けていた私が、ついに彼に掴まってしまった。それがただひとつの現実だ。

「──んじゃ、オハナシしよっか。小エビちゃん?」

 はてさて、私に明日の朝日は訪れるのだろうか。
 彼に腕を掴まれ、ほとんど無理矢理に床から引き上げられる。両の足で立ち上がった私の目の前には、私の隠れていた机に浅く腰かけた彼の姿。両腕はしっかりと彼に握りしめられ、私が逃げることは不可能となっていた。

「まずさぁ、なぁんで最近オレのこと避けてんの? オレ、小エビちゃんになんかしたっけ?」

 地面を睨む私の顔を覗き込むように、彼がそう問いかけてくる。最初のその疑問は、確かに彼の立場では一番の大きな不可解で、そして私にとって一番口にしたくはない本質的な問題だった。だから私は必死に口を噤むのだけれど、それも時間の問題でしかない。

「ね〜え、小エビちゃん?」

 少しずつ不機嫌を纏っていく彼の声、力が加えられていく彼の手のひら。
 俯いてだんまりを決め込む私についに痺れを切らしたのだろう、彼の手のひらが少しの荒々しさを秘めて私の顎を下から掬い上げていった。そうすれば必然的に私の顔は彼の目の前に晒されて、再び私と彼の視線が交わる。ぱちりと、また音がするようだった。

 ……ああ、ああ。ついにバレてしまった。

「──……小エビちゃん、顔真っ赤」

 ぱちりと驚きに瞬いた彼の瞳は、次第にゆるりと弧を描く。その表情の変化に、彼に全てが知られてしまったのだと理解する。全部全部、浮き彫りにされてしまうのだと覚悟する。

「ねえ、なんでそんなに真っ赤になってんの? 林檎みたいだねぇ、……かぁわいい」

 耳元で囁くように紡がれた彼の声に、言葉に、びくりと私の身体が跳ねる。きっともう、この心臓の高鳴りも呼吸の乱れも彼には伝わってしまっているのだろう。逃げることは、もう出来ない。──いや、最初から出来はしなかったのだろう。

「ね、小エビちゃん。オレにぃ、何か言うことあるでしょ?」

 愚かにも彼というひとに恋をしてしまったあの日から、もう私には逃げ道なんて残されてはいなかった。私に出来るのはただ、ただ、このまま彼に溺れて落ちていくだけ。

「──……フロイド先輩のことが、好きです」

 頬が熱くて、心臓が痛くて、彼の指先も瞳の色も全て全てが脳みそを溶かす麻薬となって、視界がじわりと滲んで、それでも。それでも私は言葉を紡いだ。ずっと、ずっと胸の内に燻らせ続けていたその言葉を、ようやく。
 目の前で、二色の双眸がゆうるりと弧を描いた。妖しい色を孕んで、楽しげに。

「うん、オレも、小エビちゃんのことが好きだよ」

 刹那奪われた私の呼吸はきっともう、この瞬間から永遠に彼の所有物となってしまった。
 酸素が薄れ朦朧とする頭の中に響いた彼の声。その言葉に私は苦く笑うのだ。

「だから、もう逃げないでね」

 そんな優しい口振りで、逃がす気なんてさらさらない癖に。


2020/4/9

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