君さえ


知らなくていい。今はまだ。(クルーウェル)


ワードパレット様より
21番:欲望《意地/渇望/息継ぎ》


「──失礼します」

 何でもないとある日の放課後。クラスの錬金術の課題プリントを集めて提出する役を担わされた私は、分厚いプリントの束を手にクルーウェル先生の教授室の前に立っていた。
 扉を叩いて、部屋の中へと声をかける。けれども帰ってくるはずの返答はなくて、扉の向こうは静まり返ったまま。不在なのだろうかと首を傾げながら、私はドアノブに手を伸ばす。
 鍵に固く閉ざされているのだろうと思っていたそれは、しかし何故か簡単に開いて、私を部屋の中へと導いた。あのクルーウェル先生が不在の折に戸締りを怠る訳がない。つまり先生は部屋の中にいて、かつ私の来訪に対応できない状態ということ。

 頭に浮かんだ最悪の想定に、私は慌てて扉を押し開く。

 けれどそれも杞憂に終わり、部屋の中へ踏み込んだ私の視界に映ったのは、ソファに座って足を組み、静かに瞼を閉ざしている彼の姿。どうやらただ居眠りをしていただけらしい。その事実にほっと安堵の息を吐き、そしてできるだけ足音を立てないようにとそんな彼に近寄った。
 プリントの束を机の上に置いて、そっと彼の隣に腰を下ろす。

 ……先程の焦りから安堵への感情の大きな振れ幅に驚きは薄れてしまったが、彼のこんなにも無防備な寝顔を見るのは初めてだ。──周囲の目を潜んで恋人同士になってから、もうそれなりに時間が経つというのに。
 静かなその寝顔を隣でそっと眺めて、少し顔色が悪い気がするな、だとか、疲れているのかな、だとか、そんなことを取り留めもなく考える。白と黒の髪の艶やかさに網膜が焼けて、今は見えない瞳の色に恋焦がれた。

「……かっこいいなぁ」

 ぽつりと無意識のうちにこぼしてしまったその言葉は確かに私の本心で。そして本心であるからこそ普段は滅多に口にはできない文字列だった。
 意地ばかりを張って、なかなか素直に彼に甘えることなど出来ない日々。それを思い返すとついつい心に寂しさという名の悪魔が顔を出してしまい、身体が勝手に彼を求めて動き出す。
 手を伸ばして、眠る彼の手のひらにそっと触れた。大きな手のひらの温かさに、ついつい笑みがこぼれ落ちる。指を絡めるように握って、まるで恋人みたいだ、なんて。正しく私たちは恋人であるというのに、そんな馬鹿みたいなことを考えた。
 彼の隣はこんなにも居心地がいい。彼の手を握りしめたまま、私はソファに背中をもたれかけてゆっくりと呼吸をする。まるで息継ぎでもするように。
 じわりじわりと私に降り積もる優しい眠気に身を委ねながら、ああ、これではきっと彼に後で起こられてしまうな、なんて。でも彼はなんだかんだと私に優しいから、バッドガールなんて言って起こりながらも結局は笑ってくれるのだろうな、なんて。
そんな酷く甘い甘い思考回路のまま、彼の体温を感じながら、私はそっと眠りに就いた。

  ***

 少女の来訪に咄嗟に眠ったふりをしたのは、眠る自分の姿を見た彼女が一体どんな行動をとるのだろうかという好奇心からの行動だった。
 キスでのひとつでもしてくれるのだろうか。その時は一体どうやってそのお返しをしてやろうか。なんて、そんなことを考えながら彼女の気配をじっと探っていた。

 ──すると、どうだ。

 自分の寝顔を物珍し気に見つめるところまでは想像通りだった。けれども、その次の彼女の行動。自分の手を取って、そして緩く握りしめ、とても幸せそうにくすくすと笑った幼気な少女。彼女が選んだ行動は、たったそれだけだった。
 その事実がどうしようもなく愛おしくて、愛おしくて、それでいて酷くもどかしい。
 見慣れぬ様子を眺めて手を繋ぎ、そして隣で眠ることだけで満足してしまうだなんて。キスのひとつもねだらないなんて。全く、何て純粋な愛だろう。くすぐったさすら感じるその柔らかさに絆されてしまった自分の、なんと情けないことか。
 自分の隣で安堵しきったように眠る少女はまだ知らない。この白黒の男が与える優しい愛だけしか知らない少女は、まだ分からない。
 男の胸に巣食う、どろどろとした欲望も、全てを焼き尽くすような願望も、少女の全てを食らい尽くしてしまいたいという渇望も、何も。ただただ純真無垢に男を愛する仔犬は、まだ。知らない。

 ──それを教えた時に、この少女は一体どんな顔でないてくれるのだろうか。

 想像した未来に、男は深い笑みを浮かべる。
 その瞳に映るのは、まだ幼い少女たった1人。
 いつかはその渇望にころされてしまう、幼気な少女たった1人だけだった。



2020/4/8


- 22 -

*前次#


ページ: