君さえ


心を献げた男の話(ジェイド/死ネタ悲恋)


 陸の上をこうして2本の脚で歩くのは、一体いつ以来のことだろうか。
 見上げた空は青く澄み、手を伸ばせば届きそうな程に近い距離にある太陽は、網膜を焼くように煌々と輝いていた。それにそっと目を細めて、男は地面をその足裏に踏みしめ道を歩く。腕の中で、薄い包装紙がかさりと乾いた音で鳴いていた。
 男が向かう先はただひとつ。海の見える小高い丘の、頂上。
 そこに佇み男を待って居たのは、──白い、ひとつの墓石だった。

「……お久しぶり、ですね」

 ぽつりとこぼした挨拶の声に、返ってくる言葉はない。当たり前のその事実がどうしてか胸を酷く裂いて、男は小さく唇を噛みしめた。
 腕に抱えていた花束をその墓石の前に供えて、男は地面に膝をつく。
 手を伸ばして、指先で冷たい石の表面をなぞった。そこに刻まれた文字列は、未だに男にとっては信じ難い、本当は信じたくなどなかった現実を、痛いほどに彼の目の前に突きつける。
 ほろりと無意識のうちに声をかたちどったその文字列は、男にとってどうしようもない程に愛おしい音をしていて。心がさざめくように震えた。

 この墓石がこの場所に建てられてから、もう3年の時間が過ぎた。
 男の愛する人が遠い遠い場所にいってしまってから、もう、3年の時間が過ぎた。

 海に住む男がこの場所に足を運べるのは、多くても精々2、3か月に一度が限界だ。それなのに何故、男があの人の眠る場所をこの空と海が美しい陸の世界に許したのか。それは酷く単純で、それでいて酷く複雑な心境によることだった。
 海の底に、墓場は作れない。男の生きる社会で、死者を弔う方法は魚葬か水葬の2択のみ。命も温度ももう二度とそこには宿らないとしても、あの人の身体を魚や波にくれてやるのはあまりにも惜しいような気がした。ただそれだけだ。
 ──ああ、それに。
 ふわりと穏やかな風が世界を包み、男の髪先に触れては何処か遠くへと走り去っていく。足元に揺れた白く小さな花があまりにも可憐で、まるであの人が笑っているかのように見えた。そんなはずは、ないのに。

「……3年という時間は短いようで、随分と長い」

 紫に色づいた花を基調とした花束もまた、その包装紙を風に揺らしている。海のさざめく音が聞こえた。小鳥が羽ばたき、空の彼方へと旅立っていく。

「心はまだこんなにも貴女に追い縋っているというのに、身体はもう、貴女のいない世界に慣れ始めてしまいました」

 雑踏の中に無意識にあの人の姿を探すことがなくなったのは、いつからだろう。
 あの人の夢を見て眠れない夜を過ごすことがなくなったのは、いつからだろう。
 ふとした瞬間にあの人の声を聞いてしまう錯覚が消えたのは、いつからだろう。

 いつの間に自分は、あの人のいない世界で生きることを学んでしまったのだろう。

 生き物とは適応するものだ。何故なら、そうしなければ生きていけないから。だから、自分は今日もあの人のいない世界で食事を摂って、眠って、呼吸をして。明日も明後日も、きっと自分は生きている。
 もしも自分があの人を追いかけることを選べたならば、こんな苦しみを味わうことも、こんなにも残酷な現実を知ることもなかったのだろうか。そうかもしれない。けれど、それを選ぶにはあまりにも、あの人との記憶は男にとって温かく幸せなもの過ぎたのだ。
 足元に咲き乱れる白く小さな花を視界に映して、男は小さく笑った。それは生前あの人が愛し慈しんでいた花のひとつ。その花の名前は、──ブライダルベール。

「僕の幸せは、貴女なしにはあり得ないというのに」

 こぼれた小さな笑みは、苦い味と共に滲んでいく。

「本当に、酷いひとだ。こんなにも一途に貴女を想っている僕を、軽々と置いて行ってしまうだなんて。……どんな対価を貰っても、足りはしませんよ」

 記憶は思い出す度に脳内で様々な改竄を受け、傷つき、そしていつしか『真実』とは異なる偽りに成り果ててしまうのだという。愛する人の記憶に触れる度にそれが壊れていってしまうだなんて、なんという皮肉。きっともう、男の脳裏に残るあの人の笑い声も、微笑みも、全部が壊れてきってしまっているのだろう。

 それでも、それでも。あの愛を忘れるなんてことは出来ない。

 朧な輪郭に溶けてしまいそうな儚いあの人の姿を頭に描いて、そうして手を伸ばした。触れることは出来なくても、もう二度と、叶いはしなくても。それでも、男は、

 ──ああ、そうか。

 男の胸中にほろりとただひとつの事実が転がった。
 もう何度も、何度も繰り返した言葉。確かめて、口にして、抱きしめて、そうして大切に、大切に、握り絞めてきた感情。それが今、どうしてか男の心から溢れ出しては世界にこぼれていったのだ。

 そうだ、僕は。
 僕は、貴女を。

 風が世界を揺らした。海の水面が、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
 あの人が生きていたこの世界は、今日も変わらず、残酷な程に美しい。

「──僕は、貴女を愛しています」

 今も変わらず。ただただ貴女を。きっと、いつまでも。

 冷たい墓石は何も語りはしない。
 あの人を喪った世界は、それでもただ回り続ける。
 男、ジェイド・リーチもまた、生き続ける。

 あの人への愛を謳いながら、その命が潰えるその日まで。


2020/4/12

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