君さえ


おはようシルバーリング(ジェイド/現パロ)


 私には結婚を約束した恋人がいる。
 それは決して政略結婚でも契約結婚でもない、恋愛結婚──のはず、なのだが。

 首にぶら下げた細いシルバーチェーンのトップに輝くその白銀の光をぼんやりと眺めて、私はひとつ深いため息を吐いた。数年来付き合ってきた恋人からプロポーズをされ結婚を前にした幸せな時期であるはずなのに、何故こんなにも私の気分は重く重く落ちているのか。その理由はただひとつ。

 ──その恋人に愛されているという実感が正直に言ってあまりにもないためだ。

 我が恋人、かつ婚約者である男の名をジェイド・リーチという。整った容姿に不思議な色彩の髪と瞳、そして高い身長に穏やかで丁寧な物腰、ついでに言えば高学歴の高収入という正直嫌味も出てこない程のハイスペックな男だ。
 はてさて、そんな彼と私が出会ったのは高校生の頃。ひとつ年上の彼と私が、まあ本題とは関係ないため割愛させて頂くが、様々な理由が重なって気づけば恋人同士になり、なんだかんだと関係が続いて今に至っている。
 そして、私の記憶が正しければ私が彼から「好きだ」と言われたのは、本当に本当の一番初め、私たちが付き合う際の一度だけ。何度思い返しても、それ以降今まで一度も彼から「好き」や「愛」なんて言葉を賜った記憶はないので、恐らく確かな事実だろう。
 別に蔑ろにされている訳ではない、と思いたい。
 稀にではあるがちゃんとデートにも連れて行ってもらったし、イベントの度にプレゼントを贈り合うこともした。手を繋ぐことも、キスも、それ以上も、確かに彼と時間を共にしたし、それに今では同じ屋根の下に生きている。

 ──けれど、そう。プロポーズの時でさえ、彼は私に何も言ってはくれなかった。

 ただ、1日の終わりにリビングでそれぞれ自分の趣味に勤しんでいた際、ふと突然、彼から婚約指輪の入ったケースを渡され、「結婚しますよ」と決定事項を伝えられただけ。ロマンもムードも何もあったものではない。それに私が何の反発もせず「あ、そう。分かった」なんて可愛げもない反応をしてしまったのがいけなかったのか。けれど、困惑に満たされた思考回路でそれ以外の言葉なんて返せるはずもない。そもそも問題、私にとって彼との結婚自体はとても喜ばしいことだったのだから。
 しかし、私に待って居たのはそれまでと変わらない彼との日々に加えて、結婚の言葉までほとんど口にはしない彼への不信感と焦燥感ばかり。
 愛を囁かれることも、必要以上の接触も存在しない2人の距離感。それに愛を感じないと嘆くのは、私の我儘だろうか。
 何度思い返しても、考えても、私には分からない。
 彼が一体私のことをどう思っているのか。本当に彼は私を愛していて、そして結婚を望んでくれているのか。彼のことがなにひとつとして。

 ──だから、私はこの暴挙に出ることにしたのだ。

 寝室のクローゼットの奥。扉は閉め、さらには衣類の詰められたその場所は暗く、狭く、悪巧みには絶好の場所だった。そんな秘密基地で私はひとり、ほくそ笑みながらスマートフォンの明るい画面を見つめていた。
 そこに映るのは、明かりの灯らない暗いリビングの光景。対面式になったキッチンにこっそり隠した小型カメラが遠隔で送信してくれている、リアルタイムの映像だ。
 キッチンに並ぶように置かれたダイニングテーブルの上には、1枚の紙と、ひとつの小さな箱の姿がある。真っ白なその紙に書かれているのは、『婚約を破棄させてください。さようなら』という私の手書きの文字。そして、小さな箱はいつか彼が私にくれたベルベット地の上品なもの。端的に言えば、婚約指輪のケースだ。ちなみにその中にはちゃんと私の婚約指輪も収まっている。流石にそんな所に手を抜いたりはしない。
 わくわくと心を逸らせる私が待つのは、もうじき仕事から帰ってくるはずの彼と、そんな彼がその置き手紙と婚約指輪の姿に見せる反応。
 自分が今どれだけ不謹慎なことをしているのかということぐらい、分かっている。けれど、けれど知りたかった。

 ──私が彼との未来を拒否した時に、彼が一体どんな反応を見せてくれるのか。

 きっと、現実というものはあまりにも残酷だから、彼はその手紙を見て「困りましたね」なんていつものように眉を下げて、それでも焦ることも心配することもなく、ただ冷静に周囲からの情報を集めて私の居場所を探してくれるのだろう。いや、もしかしたら探してくれもしないかもしれない。ああ、大いにありそうだ。そんな未来を想像するだけで、ぎしぎしと心が軋んだ。それが私の感情の声。

 私は、彼のことが好きだ。愛している。結婚して、彼と未来を歩みたい。

 けれど、もしも彼がただの損得勘定だけで私と結婚を選んだのならば、そこに愛が無いのなら、私は。いっそ私は、その事実に心を砕かれて、そのまま彼への愛も捨ててしまいたかった。こんな苦しみは、こんな悲しみは、もう十分だ。

 静かな闇の中、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪える。悲鳴を上げる心が、助けを求めるように縋り付いたのは、私の中にずっとずっと存在していた理想のかたち。
 もしも彼が、血相を変えて私を探しに走り出してくれたなら。
 そんなありもしない幻想を頭の片隅に転がした、その瞬間、がちゃりと玄関の扉が開く音がした。この家の鍵を所持しているのは、私と彼のふたりだけ。つまりそれは、彼がようやく帰ってきたのだということ。その事実に対する緊張から、ぴりりと私の背筋が強張った。

『──ただいま帰りました、……?』

 食い入るように見つめる画面の向こうから、彼の声が聞こえる。基本的に在宅での仕事を行っている私はいつも彼の帰りを明るい家で待っているから、私の姿も声も、部屋の明かりすらもない現状に困惑したのだろう。私の名前が呼ばれて、足音、リビングの扉が開く音、そして照明のスイッチが点けられた。
 ぱ、と一瞬にして明るくなったリビングに、彼の輪郭が浮かぶ。
 きょろりとリビングを一瞥して首を傾げた彼は、きっと私の不在を不可解に思っているのだろう。それもそうだ、外出するとも帰りが遅くなるとも聞いていない、いるはずの存在がいないのだから、それを疑問に思うのは当然。それが、たとえ愛する人ではなかったとしても。
 どくどくと心臓が駆けるように跳ねていた。浮かぶ感情は、期待と、不安と、焦燥と、それから何だろう。分からない。分からないけれど、私はただ待っていた。
 彼の瞳が、それを見つける瞬間を。

『寝室で寝ているのでしょうか……』

 呆れたような声をこぼして、彼は視線をダイニングテーブルへと。
 そして、気付いた。ゆらりと彼の脚がそちらへと向かって、その指先が1枚の紙へと伸ばされる。そこに書かれた文字列を見るために俯いてしまった彼の表情は、残念ながら固定されたカメラの視点からは確認できない。けれど、彼の手がケースへと伸びてその中身を確認したことで、恐らく彼は予定通り全てを理解してくれたのだろうということは推測できた。

 さて、彼は──
 どんな反応をしてくれるのだろうか。何度目かになるそんな疑問を心中に呟くことも、私には許されなかった。それは何故か?

 ──ぐしゃり、と彼の手の中に一枚の紙が哀れにも握りつぶされた。

 その悲鳴が大袈裟なほどに私の鼓膜を裂いて、意識の全てをスマートフォンの画面へと、今のリビングの様子へと、……彼の姿へと、奪い去って行く。
 ひい、と情けない声が喉からこぼれた。
 私は今リビングになんていないのに、確かに自分を包む周囲の温度が一気に5度は下がったのを感じる。ぴしぴしとナイフのように鋭い空気が私を刺してくる。頭の中に鳴り響いた警鐘は、本能が感じ取った命の危機を私にけたたましく警告していた。
 無残にもその身体を締め上げられてしまった置手紙は、そのまま机の上に落とされる。表情など見なくとも分かった。彼が、激怒していることぐらい。
 置手紙をその場に残して、婚約指輪のケースだけを掴み取った彼はリビングを一望し、そして踵を返す。その爪先が向かう先は、……私のいる、寝室。
 近づいて来る足音に、私はすぐさまスマートフォンの画面を消して息を殺した。寝室の扉が開く乾いた音が、まるで私に下された死刑宣告の声のようだった。
 ぱちんと明かりが灯される音。クローゼットの扉の隙間から、細く光が差し込んだ。それはつまり、彼が今この扉の向こうにいるということ。
 冷え切った空気に震えながら、私は必死に考える。けれども全く分からない。何故彼がこんなにも怒っているのかも、どうすれば私は生きてこの場所から逃げられるのかも。

「──……荷物が全て残っている」

 ぽつりとこぼされた彼の声は、部屋に響きもしない酷く小さなものだった。それにもかかわらず、どうしてかその音は恐ろしい程に私の心臓を掴んで離さない。
 そうだ、私はリビングからも寝室からも、自分の荷物を何ひとつとして隠してはいない。そこまで気を回す頭が無かったためだ。だから、聡明な彼にはバレてしまった。これが全て私の企んだ茶番であることも、犯人である私が未だこの家のどこかに隠れていることも。
「なるほど」
 その声の静けさが、あまりにも凪いだその音が、じわりじわりと私の呼吸を奪っていく。彼という捕食者の目に今、私は確かに捕らえられた。閉ざされたクローゼットの向こうから、彼が今こちらを見つめている。何故かそうだと確信できた。
 浅い呼吸を繰り返し、どうかどうか扉を開かずにどこかへ行ってくれと願う。
 見つかってしまえばもう、きっと私は無事でなどいられないから。
 どくどくと心臓が煩くて、指先が震えた。

「 ──見つけた 」

 かちゃんと扉の開く儚い音。視界に飛び込んで来た、眩い光の塊。
 それを背にこちらを見下ろす、彼の瞳。
 ひ、と乾いた悲鳴が喉元に情けなくつっかえた。

「そうですね。……まずは弁明をお聞きしましょうか」

 私を見つめる彼の表情は、ひと言で言い表すならば『無』。いつもの穏やかな笑みすら、そこにはない。ただただその内面で静かに怒りを燃やしながら、彼は私への尋問を執り行う。きっともう、どんな言い訳を重ねたところで彼の中で私は『有罪』ただ一択だとういうのに。
 ああ、きっともう、最後の愛想も尽かされた。
 もうこれで、細くとも何とか繋がっていた彼との糸はぷつりと途切れてしまった。
 私に残されたのは、彼とのさようならだけのようだ。
 そう思うとどうしようもない悲しさが胸に込み上げてきて、全ての堰が壊れて、瞳からは涙が、唇からは言葉が取り留めもなく溢れ出す。

「……だって、ジェイドは何も言ってくれないから」

 彼の表情を見ることも、彼の言葉を聞くことも、もう私には出来ない。
 ただ、ただ何年も何年もこの小さな胸に積み重ねてきた思いの丈を、ようやくすべて打ち明けることしか。

「好きも、愛してるも、最初の一回きり。最近じゃ抱きしめてくれることもめったにないし、結婚の相談も全然してくれない。分からないよ。ジェイドが何を考えてるのか。思っちゃうよ、私は愛されてなくて、ただ一番都合がいいから結婚相手に選ばれただけなんじゃないかって」

 私に微笑みかけてくれる彼の表情の優しさにも、私の手のひらを包み込んでくれる彼の体温の温かさにも、本当は気付いていた。でも、でも欲しかった。
 確かな彼の『愛の言葉』が、私は欲しかった。

「……もう嫌だよ、こんな想いでジェイドの傍に居るのは。だって、私、ジェイドのことが好きだから。嫌いになんてなりたくない。こんな面倒くさい女になんてなりたくなかった。ごめんね、ごめんなさい、私、」

 ──私はやっぱり、貴方の隣には相応しくない。

 続くはずだったその言葉は、私の身体を突然包み込んだ温かさとほんの少しの息苦しさにあっけなく奪われてしまう。頬に触れた浅瀬色の柔らかさに、背中に回された腕の感触に、彼に抱きしめられているのだと理解するまでそう時間はかからない。
 驚きに、涙も呼吸も止まってしまう。こんなにも近くに彼の温度を感じるのはいつぶりだろうかと、空気を読まない頭がぼんやりと考えた。

「──……すみません」

 そんな私の鼓膜を叩いたその言葉に、私の瞳が丸く見開かれる。え、と口端からこぼれた驚愕の声は、しっかりとした音にもなりきれないまま空気に溶けて消えて行った。

「……貴女にそんな想いをさせてしまっていたなんて。そんな言葉を言わせてしまうなんて。僕は婚約者失格ですね。いや、恋人としても失格だ」

 確かに私のよく知る彼のその声は、どうしてか僅かに震えていて。初めて聞いたその声色に、思わず私まで困惑してしまう。

「言葉が足りていないという自覚はありました。けれど、やはり『愛』や『恋』といった言葉はどうしても僕にとって縁遠い言葉に思えて。僕が吐くその言葉は中身のない張りぼてにしかならない気がして。口にすることが憚られてしまった」

 独白にも似た、彼の言葉。
 まるで教会の懺悔室に立っているかのような、そんな声。

「……いえ、こう言い訳をしていますが、結局は照れ臭かっただけなのかもしれません。少なくとも、僕は貴女が何も言わないことに甘えて、そして貴女を不安にさせてしまった。──馬鹿ですね。貴女を失う恐怖に、こんなにも焦り震えているくせに」

 私の後頭部を捕らえていた彼の手のひらが、頭を撫でるように、髪を梳くように、ゆるりと優しく動いた。その指先の微かな震えがどうしてか私にも伝わって、身体の芯を通過していったその震えは、いつしか私の心にまで届いて。どうしようもない程に私の感情を揺らしていった。
 滲んだ視界に唇を噛みしめながら、私は必死に短い腕を伸ばして彼の背中に縋り付いた。そうすればそれに応えるように、私を抱きしめる彼の腕にさらに力が籠められる。

「……貴女がいない世界でなど、もう生きていけはしないくせに」

 ああ、そうか。ようやく私は理解した。

「──これが『愛』や『恋』でなければ、一体何だというのでしょう」

 私は彼に、ちゃんと好かれ愛されていたようだ。

 思わずこぼれた笑みをそのままに、私は彼の背中をぽんぽんと優しく、撫でるように叩いた。幼い子供を宥めるように、とも言えるだろう。

「嘘ついて、悪戯して、ごめんなさい」

 その言葉に彼の腕が解かれて、ようやく私は視界に彼の表情を映すことを許された。
 いつもと同じ困り顔に、いくらかの弱々しさを加えたその顔。
彼はこんなにも可愛らしい表情をするひとだっただろうかと、込み上げてくる愛おしさを噛みしめながら考える。

「僕こそ。貴女を不安にさせて、悲しませて、すみませんでした」
「……これからはちゃんと言葉にして、こうやって抱きしめてくれるなら、許す」
「おや、そんなに軽い罰だけでいいんですか?」

 目を丸くした彼に頷いて、私は笑う。こんなにも笑顔があふれるのも、もう随分久しぶりのような気がした。
 そんな私に柔く微笑んだ彼は、思い出したように懐から小さな何かを取り出した。
 ベルベット地のそれは、私がダイニングテーブルに残してきた婚約指輪のケースそのもので、私はぱちりと目を瞬かせる。
 私の目の前で、ゆっくりとケースを開きその中身をそっと指先に捕まえる彼。
 まあるい白銀の光が、私の網膜を淡く焼いた。

「……改めて、申し込ませて頂けますか」

 2人の約束をかたちどったそれが、今、彼から私へ向けられている。もう涙なんて枯れるほどに流したのに、また視界がじわりと滲んだ。それは正しく、喜びの涙の祝福。

「貴女を永久に愛すると誓います。──僕と、結婚してください」

 答えなんて、ただひとつ以外ありはしない。
 胸に溢れる愛おしさのまま、私は唇を震わせた。

「はい、喜んで!」

 これが昔話ならば、きっとこんなフレーズが流れるのだろう。
 ──こうして2人は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。


2020/4/14


- 27 -

*前次#


ページ: