月明かりのエレジー(ジェイド/ゴースト夢主/悲恋)
「──私、今晩日付が変わったら、それと同時に消えちゃうんだ」
薄く透けたその身体を通して降り注ぐ夜空に浮かんだ満月の光が、眩しいほどに男、ジェイド・リーチの網膜を焼いた。そのせいで目が眩んで、思考が揺れて、彼女の浮かべた儚い表情の理由も、その言葉が指し示す意味も、ジェイドの理解の内には落ちてこない。喉を乾いた空気が通り抜けていく情けない音だけが鼓膜を掠めていった。
「ずっと黙っていてごめんなさい。皆は優しいからきっと私がいなくなることを悲しんでくれるんだろうなと思ったら、なかなか言い出せなくて」
目の前に立つ、いや、浮かんでいる彼女の姿は半透明で、輪郭は曖昧で、この世界の中に決して馴染みはしない。そこにいるのに、そこにはいない、それが彼女。既にこの世のものではない、ゴーストと呼ばれる存在だ。
「……本当は誰にも何も言わずに消えようと思ってたんだ。──でも、」
この学校に住み着いていたひとりのゴースト。ジェイドが彼女と出会ったのは、この学園に入学してきた日の夜のこと。夜の植物園でガラス天井の向こうに広がる星空を見上げていた彼女を見つけたのが始まり。その姿に声をかけたのは、ほんの気まぐれだった。……いや、もしかしたらその瞬間にはもうすでに、ジェイドは彼女に心なんて呼ばれる柔らかい感情の全てを彼女に奪われていたのかもしれない。
「ジェイドくんだけには、伝えておきたくて」
そう言葉を紡いだ彼女の姿が、あんまりにも儚くて、今にも夜の中に溶けて消えてしまいそうに見えて、あの日あの時、あの植物園で見た、あの姿が思い出されて。ジェイドは気付けば無意識のうちに、彼女へその手のひらを伸ばしていた。
けれど、その指先は彼女の輪郭に触れる直前、はっと我に返ってぴたりと止まる。中途半端に浮かんだ自らの右手を見つめて、唇を噛みしめた。
「……ごめん、ごめんね」
そんなジェイドの姿を見て、彼女が今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべた。
彼女はゴースト。もうこの世界にはいないひと。
「ああ、もう。死んでから未練が生まれるなんて、本当にバカみたい。……出来ることなら、……生きている時に、君に会いたかった」
どれだけ想おうと、どれだけ祈ろうと、どれだけ願おうと、もう、彼女とジェイドは同じ時間を生きることも、手を繋ぐことも、お互いの温度を感じることも出来はしない。
世界とはどうしてこんなにも残酷なのだろう。どうして世界は、共に歩むことも出来ない二人を出会わせてしまったのだろう。どうして。
「──ジェイドくん、私ね、」
どうして、
「君のことが大好きだよ」
どうして、最初からさようならしか残されてはいなかった自分たちに、世界はこんな想いを、言葉を、感情を、──こんなにも愛おしい時間を、思い出を、与えてしまったのだろう。この悲劇を憎むことさえ、この世界は許してはくれなかった。
胸に溢れた感情のまま彼女をこの腕に抱きしめられたなら、どれ程良かっただろう。
二人を嘲笑うように、この愚かな愛を苛むように、時計は無慈悲にも進んでいく。世界は回って、そうして明日がやって来る。
「──っ、僕も、貴女のことが……!」
視界の間近に彼女の色が揺らめいた。けれど、それはあまりの近さにぼやけてしまって、結局ジェイドの知覚に残されたのは、夜の闇と月明かり。
触れた感触も、温度も、そこには何も存在しない。
それでも、確かにその瞬間、二人は初めて互いに触れたのだ。
ゼロになった距離がまた離れて、そうしてふわりと空に彼女の姿が揺れる。
伸ばした指先はやはり空を掻くばかりで、彼女の存在をこの世界につなぎとめることすらできはしない。ただ、ただ、その色が、輪郭が、優しさが、夜の闇に溶けていくのを眺めることしか、ジェイドには許されていなかった。
「ばいばい、ジェイドくん」
空から降り注ぐ月明かりが闇の中に輝いた。夜の十二時を伝える鐘の音が、遠く、遠くに響き渡る。世界は何も変わらない。今日も、明日も。きっといつまでも。
「──……おやすみなさい、」
あの愛しいゴーストが、もうこの世界にはいなくても。
2020/4/18
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