君さえ


さよならいつかのさようなら(ジェイド)


 ──ああ、掴まってしまった。

 手首を彼の大きな手のひらに包み込まれたその瞬間、私は諦めにも似た感情と一緒にそんな言葉を心の中で転がした。そのまま身体が後ろに強く引かれ、向きを半回転させられる。そうすればもう、私の視界に映るのは『彼』という存在ただひとつだけ。
 私が息を呑む微かな音も、きっとこの距離では彼に届いてしまったことだろう。

「……こんにちは、監督生さん」

 言葉遣いこそ穏やかだが、それを生み出した音の響きは酷く鋭く尖っていて。まるで私を刺し殺そうとでもいうようなその声色に、私はびくりと肩を震わせた。
 慌てて視線を地面へ落とそうとするけれど、不吉に輝く黄金と黄灰の色がそれを許してくれるはずもない。ああ、どうしてこんな時でさえ、彼の色彩はこんなにも美しく私の網膜を焼くのだろう。感情が揺れて、視界が滲んで、嗚咽が零れそうになる。
 それを何とか飲みこんで、私は彼に言葉を返す。

「こん、にちは。ジェイド先輩」

 情けなく震えたその声は、それでも私の精一杯。せめてどくどくと早鐘を打つこの心臓の音だけは彼に伝わっていませんようにと、必死に祈った。

「ええ、本当に。お久しぶりですね」

 ぎり、と私の手首を掴む彼の手のひらに強い力が込められた。きっとそれは彼にとってさしたる力ではないのだろう。けれど、私にとってそれは痛みを伴うほどのもので、思わず顔が歪んでしまう。
 するとそれに気付いたのだろう、はっとした表情を浮かべた彼は、ほんの少し眉を下げてすぐさま手のひらから力を抜いてくれる。その優しさと表情に、彼は彼なのだという謎の安堵が私の胸を包んだ。状況は、一切好転してなどいないのに。

「──お聞きしたいことが、あります」

 彼のその言葉が、まるで死刑宣告のように私の鼓膜を強く叩いた。
 聞きたくないと耳を塞ぐ手のひらも、今は彼の統治下。私に出来ることは、ただただ彼の言葉を受け取ることだけ。

「何故、僕を避けているのですか」

 どくんと心臓が強く軋んだ。

「何故、答えをくださらないのですか」

 呼吸が苦しくなって、肺が痛みを訴える。

「──……僕は、貴女のことが好きです。愛しています」

 酸素とは、こんなにも苦いものだっただろうか。

「その想いを、僕は確かに貴女に打ち明けました。……受け入れられないなら、そうだとはっきり言ってください。『はい』か『いいえ』、ただそれだけを教えてください」

 ああ、そうだ。彼は私にそう言ってくれた。けれど、私はそれに答えぬまま、答えられぬまま、ただただ彼を避け続けて、彼を傷つけ苦しめた。私の自分勝手で、彼を。
 言わなければいけないことが沢山あるはずなのに、どうしてか言葉が思いつかなくて、私は唇を噛みしめたまま黙り込む。
 本当は彼へ捧げる言葉など、私にはたったひとつしかないというのに。面倒くさい心なんて呼ばれるものが、それをずっと喉元にせき止めてしまっているのだ。
 唇を震わせようとするけれど、薄く開いた唇から漏れるのは浅い呼吸の音だけで、意味のある言葉を紡げそうにもない。
 そんな私の様子に業を煮やしたのだろう。彼がひとつ息を吐いて、そうして私を射抜くように見据えた。瞳の色が、また私の全てを焼いていく。

「……仕方ありませんね。本当はこんな無粋なものを使いたくはなかったのですが」

 彼の言葉に、ぞくりと背筋が粟立った。理解してしまったからだ。これから彼が何をしようとしているのか、私がそれによってどうなってしまうのかを。
 彼のユニーク魔法、『かじりとる歯』は、相手の本音を引きずり出すという力を持っている。今日まで彼がそれを使わなかったのは、彼の最後の恩情だったのだろう。
 けれど、それも今この瞬間に途切れてしまった。
 魔力も持たず魔法も使えない私に、彼のその強力な力から逃げる術はない。それを受けてしまえばそれで終わり。私はこの胸の中に溢れ返るこのどうしようもない感情の山を、全て全て彼に打ち明けてしまうのだ。

「──僕の目を見て、」

 それは、嫌だ。
 ユニーク魔法なんてもので私の心の柔らかい部分全てをこじ開けられてしまうぐらいなら、全部を壊されてしまうぐらいなら、私は。

「っ分かりました、ちゃんと言います……私は……!」

 いっそ自らの口で全てを打ち明けたいと思った。打ち明けなければならないと思った。何故ならこれは、私にとって何よりも大切で、何よりも脆い言葉だったから。それがたとえ彼だったとしても、奪われてはいけない想いだったから。

 ……けれど、私の言葉はそれ以上を許されなかった。

 声を堰き止めるように、何かが私の口を覆い隠した。
 僅かな温もりを孕んだ大きなそれは、──他でもない、彼の手のひら。
 苦しそうに、痛そうに、辛そうに、ふたつの色彩が私の視界に揺れていた。私の言葉を止めた、私の言葉を欲しがていたはずの彼のその表情に、瞳が丸く見開かれる。
 ……どうして、

「──……すみません、」

 どうして貴方が、そんな顔をしているの。

「……貴女の言葉なら、たとえそれがどんなものであっても受け入れる覚悟をしていた、はずだったのですが、……本当に、人の心とはままならない」

 はらり、はらり。花びらが舞うように、雪が散るように、ひとつ、またひとつと彼の声が私に落とされる。その音を繋いで、言葉にして、私の頭はゆっくりとその意味を噛み砕いて、飲み込んでいく。

「それがただひとつの『本当』だとしても、貴女の口から『いいえ』の言葉を聞きたくはないと、思ってしまいました。答えを欲したのは、他でもない僕だというのに」

 困り果てたような表情で、彼がゆるりと淡く微笑んだ。どこか弱々しいその姿に、私の心まで涙を溢れさせてしまう。喉が焼けるように苦しくて、息を吸い込むことさえ難しい。それでも、それでも私は声を張り上げた。

「貴女に嫌われたくはないだなんて」
「ジェイド先輩!」

 彼の言葉をかき消すように、私の言葉が世界に響く。突然のその反響に、ぱちりと彼の瞳が瞬いた。けれど、今の私にはそんな表情を気にしている余裕などない。
 言わなければいけない言葉があったから。
 伝えなければいけない言葉があったから。
 今、彼に。

「──っ私も、貴方のことが好きです!」

 たったひとつの、私の答えを。

「……ごめんなさい。ずっと、ほんとは先輩のことが好きだったんです。だから、先輩の言葉もすごく嬉しくて、嬉しくて、……でも、私はこの世界の人間じゃないから、」

 ぼろぼろと涙がこぼれ落ちるのもそのままに、私は必死に言葉を紡ぐ。躓いてばかりの声だけれど、それでも彼に伝わりますようにと願いながら。

「先輩からの想いを貰ってしまったら、いつか、元の世界に帰れるようになった時、私はきっと、先輩と元の世界のどっちも選べなくなる。だって先輩のことが好きだから、ずっと一緒に居たい。でも、……でも、私はやっぱりあの世界を捨てられない」

 家族がいて、友達がいて、知り合いがいて、沢山の思い出が残るあの世界。私はこの世界のことも大好きだ。だって、大好きな、大好きな彼がいる。けれど、でも。

「迷いなく貴方だけを選ぶことが出来ない私に、貴方の愛を望む権利なんてない」

 きっと今この瞬間、元の世界に帰る術を与えられたとしたら、私はきっと悩んで、悩んで、何もかもが分からなくなるほどに悩んで、苦しんで、そうして結局は元の世界に帰ることを選んでしまうのだろう。いや、もしかしたら彼を選んでこの世界に残るのかもしれない。どちらになるのか、分からない。自分のことだというのに、私には。
 いつか彼を捨てるかもしれない私のような女が彼の愛を求めるなど、烏滸がましいにも程がある。だから私は逃げたのだ。彼からも、自分からも、未来からも。

「……ごめんなさい、……ごめんなさい、私は私の自分勝手で貴方を沢山苦しめて、沢山傷つけた。きっと、これから先もそう。貴方の言葉に頷いてしまったら、私はもっともっと貴方を傷つけてしまう、──だから、」

 それがどれだけ自分勝手でも、我儘でも、愚かでも、確かにそれは私にとっての彼への最大の愛情表現だった。飛んで跳ねて幸せだと叫びたくなるほどに嬉しい彼からの言葉に頷かないことが、受け入れないことが、私の唯一だった。
 だから、どうかどうか私のことなど忘れてください。
 私以外の誰かを見つけて、幸せに。
 そんな彼への言祝ぎを私が口にしようとした、その刹那。

 ──身体が、誰かの腕の中に抱きしめられた。

 誰か、だなんて、この場所にいるのは私以外にただひとり。
 高い背丈に、厚い胸板。背中に回された腕は逞しくて、布越しに伝わる体温は泣きたくなるほどに温かて。単純な私の心がまた呆気なく恋に落ちては、哀れな悲鳴を上げた。
 彼の腕の中に閉じ込められて、私の言葉は泡のように弾けて消える。

「……貴女というひとは本当に、……酷いひとだ」

 耳元で囁くように呟かれたその声は、私への叱責の色を帯びていて、思わず肩が小さく窄まった。けれど、どうしてかその音は私の心に深く響き渡っては感情を波のように揺らしていく。じわ、じわりと視界の中の浅い海が淡く滲んだ。

「生きる世界の違いなど、僕も最初から理解しています。貴女が元の世界を恋しがっていることも、いつかは帰りたいと願っていることも。全部、全部知っています。──そのうえで、僕は貴女が好きだと言いました。世界も、いつかの別れも、関係ない」

 ぎゅうと、存在を確かめる様に彼の腕が私を締め付ける。ほんの少しの息苦しさも、今は意識の外に捨てられたまま。このまま彼の腕の中で壊れてしまえたら、一体どれほど良かっただろう。

「僕は、貴女を愛しています。貴女の特別な存在として貴女と時間を共にしたい。たとえ、それが期限付きの儚い夢だったとしても」

 彼の肩を涙で濡らしてしまうことを気にかける余裕もなく、私は縋りつくように彼の背中に腕を伸ばした。彼に触れて、温度を感じて、そうして言葉を与えられる。
 どうしようもない程の愛を、注がれる。

「……もう一度、教えてください。貴女の気持ちを、ただそれだけを」

 腕が解かれて、距離が離れて、二人の間に空間が生まれる。肌から消えて行く彼の温度に胸が切なく泣くけれど、私の視界を埋めた彼の表情に、色彩に、意識の全てはすぐさま奪い去られてしまう。
 涙に濡れてぼろぼろになっているだろう私の頬に、彼の指先が優しく触れた。皮手袋越しの体温が、ゆるりと私を撫ぜていく。まるで涙を拭うように、世界でいっとう愛おしいものを愛でるように。
 声を紡ぐために、息を吸った。涙にひきつった喉が小さく痛みを訴えたけれど、それも無視して私は唇を震わせる。彼への言葉を、この想いを。

「私も、貴方のことが好きです。愛しています!」

 刹那奪われた呼吸と、ゼロになった彼との距離。
 愛は永遠だと誰かが言った。永遠なんて、この世界には存在しないのに。
 きっと、私と彼のこの愛にも、いつか終わりの日が来るのだろう。
 けれど、それでも、私は彼を愛していた。彼は、私を愛してくれた。
 それが唯一にして絶対の、確かな事実としてここにある。
 それだけでいいんだ。きっと、それだけで。

 想いが通じ合って、ハッピーエンド。物語はそこで終わり。
 そして始まった現実は、終わりへ向けてゆっくりと歩き始める。

 未来は未だ来ず。
 それを知る術は、誰にもない。







「──本当に、可哀想なぐらいに愛おしいひとだ。悲しいぐらいに愛らしいひとだ」

「自分の世界と僕を天秤にかけてしまう未来を恐れるだなんて。僕を傷つけてしまうことを忌避するだなんて。優しくて、純粋で、憐れなひと」

「……どうして自分が元の世界に帰れる術が見つかると信じているのでしょう」

「どうして元の世界に帰るという選択肢が自分にはあると信じているのでしょう」

「僕が貴女を手放す訳がないというのに」

「可哀想なひと。哀れなひと。最初から貴女に与えられた選択肢なんてひとつだけ」


「──さようならなんて、絶対に許さない」



2020.04.22

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