君さえ


love with you!!(ジェイド)


 蜂蜜のような甘さというよりは、夜空に浮かぶ月のような清廉さを孕んだ黄金色。それに対を成すような、灰色に海の緑を少しだけ溶かしこんだような深い柳茶色。それらが今、私を真っ直ぐに見下ろしている2色の色彩だった。
 放課後の廊下でふと出会った彼、ジェイド・リーチ先輩とのこの不思議な見つめ合いが始まってから、もうすぐ三分が経過する頃だろうか。短いカップラーメンがひとつ作れるぐらいの時間。短いようでいて、意外と体感では長くも感じる、そんな三拍子。彼の視線は目の前に立つ私一人に、逸らされることもなく注がれ続けている。ついでとばかりに添えられているのは、何とも形容し難い沈黙だけ。はてさて、一体私はどうすればいいのだろうか。背の高い彼を見上げ続けている首も、そろそろこの角度に疲労を感じ始めてしまった。
 最初の数秒や数十秒は何ら問題もなく耐えていられたのだが、流石に分を跨ぐようになってしまえば次第に私の中にも疑問や気恥ずかしさが満ちあふれてきて、そこに恐怖こそ感じはしなくとも、居心地はじわりじわりと悪くなっていく。
 沈黙に耐えきれなくなった私は、せめて彼のその視線の理由だけでも問うてみようと、なけなしの勇気を振り絞って彼に言葉をかけた。

「……あの、ジェイド先輩?」

 首を傾げながら恐る恐るという声色で彼の名前を呼べば、私を見下ろしていた彼の瞳がぱちりと瞬き、そしてゆるりと優しく弧を描いた。
 困ったように微笑んだ彼は、考え込むように口元を隠していた手を解き、そしてそのまま自らの胸に置く。いつもの物腰穏やかな彼の姿がそこにはあった。ひとまずそのことに安堵して、私は口を開いた彼の声を待つ。

「すみません。じっと見つめてしまって、不躾でしたね」
「あ、いえ、私は大丈夫です! 何か考え事とか……悩み事とか、ですか?」

 普段あまり見ない彼の様子に、冷静になった私はもしかしたらと彼に問いかける。後輩かつ魔法を使える訳でもない私に、彼の相談相手なんて役目はあまりにも重すぎるけれど、それでも自分に手伝えることがあるなら出来る限りのことはしたいと思った。彼にはいつも良くしてもらっているから、その恩返し代わりということだ。
 ただ不満や不安があってそれを吐き出したいだけなら、私でも話を聞くことぐらいはできるはず。そう思って、私は彼の表情を伺った。

「……そう、ですね。悩み事と言いますか、」

 どうやら彼にも上手く飲み込み切れないほどに複雑な問題らしい。そんなものの解決に私なんかが役に立つのか? と尻込みしてしまうそうになるけれど、私は弱気になる自分を必死に戒めて、彼に言葉の続きを促した。不思議そうに、不可解そうに、再び口元に手をやり、首を傾げている彼の姿は、普段に比べて幾分か年相応のものに見える。

 はてさて、一体彼の口からはどんな言葉が放たれるのだろう。

 どんとこい、と心の強度を高くして彼の発言を待っていた私は、次の瞬間、予想だにしなかった方向からの爆撃で、思考回路を爆発四散させられてしまうことになる。

「──僕は、貴女のことが好きなのでしょうか」

 ……時が止まったような感覚に、私は瞬きどころか呼吸まで忘れてしまう。何とか心臓だけは動いていた──とはいえその動きは狂っていたけれど──ことだけが不幸中の幸いだろうか。いや、少し待って欲しい。彼は今、一体何と言った?

「……ええ、と、……?」
「お恥ずかしながら、未だに『恋愛感情』というものについてよく理解しきれていないところがありまして……良く巷で聞く『恋をしている時の自分の変化』というものが、最近の僕の貴女に対する様々な変化と類似していると気付き、自分は貴女に恋愛感情を抱いているのかもしれないと思うようになったは良いのですが、いかんせんその真偽もよく分からず……この点について、貴女はどう思われますか?」

 ……ちょっと待って欲しい。頼むから。後生だから。
 すらすらと言葉を並べる彼の声を鼓膜に受けながら、それを必死に脳内で処理しようとするのだけれど、どうしても理解が途中で躓いてしまって先へ進むことが出来ない。
つまり彼は、最近自分の行動が私に恋をしているようなものになっているのだけれど、彼自身、恋という感情がよく分からないから、それが本当に恋なのかどうかも分からない、と。いや、……なんて?

 好きなのでしょうか、の発言の時点ではまだからかわれているだけだろうなという思考回路も生きていたのだが、その後の言葉を紡いだ彼の真剣な表情を見てしまえば、それら全てが事実かつ彼の本音であるということを理解せざるを得ない。なるほど、分からない。分からないけれど、その問いを私に投げかけてくるという彼の精神が、やはり鋼鉄によって形成されているのだということだけは確かに分かった。

「……すみません、えっと、あの、」
「ここしばらく貴女を観察させて頂いて、自分の感情とも向き合ってはみたのですが……やはりこれといった成果は得られずじまいで。こうなればいっそ貴女にお尋ねしてみた方が善いのではないかと思い立ちまして」

 貴女の方がきっとこういった感情にも詳しいかと思いますし、と彼はにこやかに微笑んでいるが、こちらの内心は荒れに荒れた恐慌状態。いやまあ確かに、『恋』が分からず誰かに相談する、というのは少女漫画でよくある展開なのかもしれないが、その相談相手が『好きな人かもしれない人』かつ、『好きかもしれない人は貴女です』という核心まで打ち明けてしまう展開というのは私もお初にお目にかかった。

 頭を抱えて、それでもこの事態を何とかしなければいけないという理性と責任感をはたらかせた私は、なんとか言葉を絞り出す。正直誰かに全て丸投げして早く自室に逃げ込みたいのだが、いかんせん周囲に人の気配はなく、放課後の廊下には私と彼のふたりだけ。つまりは私が責任者ということだ。どうしてこうなったのだろう。いや、本当に。

「……と、とりあえず。先輩に起きた行動の変化? について聞かせてもらえますか?」
「はい。そうですね……まずは、視界に貴女の姿が見えると、ついつい貴女を視線で追いかけてしまうようになりました。廊下や食堂で見かけた時だけではなく、授業中窓の外に見えた、グラウンドで体力育成に励んでいる貴女の姿までもを、本当に無意識のうちに。時には人混みの中に貴女の姿を探してしまっていることさえあります」

 彼の表情は相変わらず真剣そのもので、つい先ほどまでは荒れ狂っていた私の感情も、それにつられて次第に凪いでいく。これは、私がちゃんと真っ直ぐに向き合わなければいけないものなのだと、心の中で確かに理解した。

「次に、最近では貴女の姿を見かけた時に、見ているだけでは満足できず、特に理由も用事もないのに貴女に声をかけてしまうようになりました。貴女もお気付きになっていたかと思います。他の誰か……フロイドやアズールと話している時であっても、貴女の姿が見えるとすぐにそちらへ足を向けてしまいそうになる。本当に、不思議なことです」

 ああ、そうか。最近よく彼と顔を合わせるような気がしていたのは、気のせいではなかったのか。彼がただ優しくて、後輩である私を気にかけてくれているだけだと、……そう、私は自分に言い聞かせていたというのに。

「それに、貴女が僕以外の誰かと楽しげに話している姿を見ると、心臓のあたりがどうしようもなく気持ち悪くなって、……怒り、とはまた違う、よく分からない感情に襲われてしまうんです。これは一体何なのでしょうか。一体、何と呼べばいいのでしょうか」

 自分の手のひらを心臓の真上に当て、そしてぎゅうと制服を握りしめる彼の姿。どこか苦しげで切なげなその表情に、私の心臓まできしきしと悲鳴を上げてしまう。

「──そして、最後に、」

 そんな顔を、しないで。

 私が心の内にそう叫んだ刹那、彼の瞳がゆらりと儚く揺れて、そしてその指先が私に向けて伸ばされる。革手袋の黒い色が、視界の隅に瞬いた。その指先を避けるという行動を、私は選択してなどいない。それでも、
 それでも、彼の指先は私の頬に触れることなく、その寸前で躊躇に止まって、ただただ悲しげに私を見つめ続けるだけ。ぎゅうとその手のひらが握りしめられる姿も、私の視界にはっきりと映されていた。

「……こうして、貴女に触れたいという感情に駆られるようになりました。人目も憚らず貴女をこの腕に閉じ込めてしまいたいと、そんなことを考えるようになりました」

 僅かに震えるその声が、まるで懺悔室に祈りを捧げる罪人のように聞こえて。空気を伝って私の心にまで届いたその震えは、水面に落ちた一粒の水滴のように、私の感情に大きな波紋を作っていくのだ。
 じくりと痛みを訴えた唯一無二の心臓に、浅い呼吸に苦しさを訴える一対の肺。

「……僕は、一体どうしてしまったのでしょうか」

 握りしめた自身の手のひらを眺めて、彼はぽつりと囁くようにそう言った。
 その声が鼓膜に届いた瞬間、その表情を視界に映した瞬間、私は全ての感情も理性も振り払って、ただただ我武者羅に、彼へと手を伸ばしていた。
 拳を作っている彼の右手を、自身の両手で包み込むようにして捕まえる。革手袋越しでは体温を分け与えることも叶わないけれど、それでもどうか、どうか彼にこの想いが届きますようにと、そう願って抱きしめる。
 視界の先で、彼の瞳が星屑のように瞬いていた。

「──手を繋いだ時、……手を繋いだ、今、どう感じますか?」

 私は真っすぐにその瞳を見据えて、震える声を叱咤しながら言葉を紡ぐ。視線を逸らしてはいけない。逃げてはいけない。私は向き合わなければいけないのだ。
 それを受け止めなければいけないのだ。
 彼の感情を、──自分の、感情を。

「……何だか、心臓のあたりが誰かに握りしめられているようです。けれど、痛くはない。苦しいとも、何かが違う、」

 左手を心臓に置いて、彼は何かを探すように言葉を紡いでいく。手探りで、けれども丁寧に、慎重に、その『何か』に手を伸ばす。
 それを後押しする様に、私は彼との距離を詰めた。両手を彼の右手から離して、そうして次は、腕の全てを彼に。今度は腕の中に彼を抱きしめた。
 身長差が大きいせいで、抱きしめたというよりは抱き着いたと表現した方が正確な有様だけれど、そこは気持ちの問題だからいいのだ。短い両腕を必死に彼の背中に伸ばして、そうして力いっぱい、想いをめいいっぱい込めて、私は彼を包み込む。
 彼が息を呑む声が、微かに聞こえた。困惑に濡れた声が、私の名前を呼んでいる。

「……嫌だと思ったら、突き放してください」

 私の紡いだ言葉に、彼の身体が僅かに震えた。そしてしばらくの逡巡の後、彼の腕が少しずつ動き始める。やはり拒否されてしまうだろうかと心の中に不安が芽生えたけれど、それは結局杞憂に終わってしまうのだ。
 恐る恐る、まるで壊れかけのガラス細工にでも触れるように、彼が私の背中へとその腕を伸ばしてくれた。そして優しく、包み込むように私を抱きしめ返してくれる。その事実に、その現実に、じわりと目頭が熱くなって視界が滲んだ。

「──嫌ではありません。むしろ、……むしろ嬉しいです。とても、……心が満たされていく、と表現すればいいのでしょうか」

 殆どゼロになった距離に存在する彼の温度が、彼の声が、彼の音が、どうしようもなく心に響き渡ってはやんでくれない。心に収まりきらなかった感情が、溢れ出すように私の唇を伝って、声となって世界へと飛び出していく。

「ジェイド先輩、私、貴方のことが好きです」

 それは、ずっと、ずっと前から私の心の中に存在していた感情。今になってようやく、自由になることを許された言の葉。伝えるならば今しかないと、今を逃せばもう二度と伝えられなくなってしまうと、確かにそう思った。だから、口にした。
 伝えたいと、私の全てが願っていたから。

「……ああ、そうか」

 ぽつりと、彼の言葉が頭上にこぼされる。私の身体を抱きしめていた彼の腕が解かれて、そうして再び私の視界に彼の色彩が映し出された。あまりにも美しく整ったその相貌に浮かんでいる表情は、先程までとは打って変わって清々しく、大切なものを見つけたかのように優しい感情で満ちあふれていた。

「これが、『愛おしい』という感情だ」

 ぱちりと瞬いた月の光が、深い柳茶が、そこに全てを宿して私を見つめている。
 その感情を私はしっかりと受け止めて、抱きしめて、そうして笑ってみせた。

「答えは、分かりましたか?」

 私の問いかけに、彼が優しく微笑んだ。いつもの穏やかさに、どうしようもない程の愛おしさを、幸福を、ありったけ混ぜ込んで。そうしてその感情全てで私を包み込む。

「僕は、貴女が好きです。貴女に恋をしています。貴女を、愛しています」

 まるで神様が与えてくれる慈雨のように、彼の言葉が私へ降り注ぐ。
 きらきらと輝くその声に、私は瞳をゆるりと細めて酔いしれるのだ。

「だからどうか、僕に恋をしてください。僕を、愛してください」

 眉を下げて、困ったような表情。そんな不安そうな表情を浮かべなくたって、ちゃんとさっき言ったじゃないですか。私の答えは、もう既に。
 もちろんですよと囁いて、私は再び彼の腕の中に飛び込んだ。
 
 恋とは一体何なのか。愛とは一体何なのか。
 知りたいならば手を繋げ、なりふり構わず抱きしめろ。
 そうすればもう、答えはその腕の中にあるのだから。


2020/5/3

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