君さえ


それは人の夢と書く(ジェイド)


 何をきっかけとして自らの意識が浮上したのかは分からないが、まるで空から最初の雨粒がこぼれ落ちてきたかのように、ふ、と突然目が覚めた。そのまま持ち上がった瞼が瞳を世界に差し出し、僅かな光をその虹彩の中に落としこむ。一瞬前まで自分は確かに眠りの中にいたはずなのに、不思議と目は冴えていた。
 まだ夜は深いようだ。ぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返して、闇に染められた天井を仰ぎ見る。窓の向こうからは、ゆらゆらと揺蕩う海水によって不規則に屈折した淡い光が、世界に輪郭を与えるように柔く降り注いでいた。
 息を吸って、吐いて、額に右腕を乗せる。もう随分と肺呼吸にも慣れたこの身体は、抵抗もなく酸素を肺に満たすのだ。ほんのつい一年と少し前にはまだ、自分は海の中で生きていたというのに。──その頃にはまだ、こんな悩みを抱くことになるなんて想像もしていなかったというのに。
 陸に上がってから彼、ジェイド・リーチが新しく学んだことのひとつに、『夢』と呼ばれる存在があった。元来明確な眠りというものを必要としないウツボの人魚であった彼にとって、眠りの中に在るというそれは、ただただ他人の話の中にのみその音を響かせるだけのものだった。曰く、記憶を整理するための脳の働き。曰く、そのひとの記憶や強い願望、果ては深層心理を映しだすもの。曰く、時には現実よりも望ましいもの。それを聞いて、ジェイドはただ「そうなのか」と頷くことしか出来なかった。

 しかしこうして陸に上がり、眠りを必要とする人間の形を、仮初とはいえとってからようやく、ジェイドはその何たるかを身をもって理解するに至る。

 確かに夢というものはとても興味深いものだった。時には不思議な山を探検し、時には訳の分からない奇怪な生物に追い回され、時には知り合いたちとただただ談笑する映像を見せられる。時にはあまりにも印象が強すぎてずっと記憶に残るものもあるが大抵は目覚めてからしばらくすれば、まるで泡のように弾けて消えてしまうもの。

 そして最近、ジェイドはとある夢を毎夜毎夜繰り返すように見続けていた。

 その夢の内容、いや、その夢の内容によって自らが心の中に燻らせることになる感情というものが、先述したジェイドを苦しめている『悩み』なのだ。

 夢の内容は至極単純。いや、本当に重要なのは内容ではなくそこに現れるたったひとりの人物なのだが、その人というのが、つい数か月前に突然この世界、ひいてはジェイドの生きる世界の中に転がり込んできた一人の少女。オンボロ寮の監督生として、この学園に在る小さな人間。そして何を隠そうこの少女、実はジェイドの心の一番柔らかいところに存在している、彼が唯一『恋』という感情を捧げた無二なのだ。
 まあ端的に言ってしまえばジェイドの恋人でもあるひとなのだが、そのひとの存在が夢の中に出てくることの何が問題なのか。ああ、問題も問題だった。夢の中で彼女と出会う。彼女と言葉を交わして、感情を重ねて、そうして肌に触れる。温かい情景だ。あまりにも幸福な世界だ。

 ──けれど、それは結局ただの夢でしかない。

 こうして目が覚めてしまえば、そこにあの愛おしい姿はなくて、あの優しい温度も存在しない。夜に閉ざされた世界には、彼女をただ想う自分だけが残されてしまうのだ。それは、……あまりにも寂しい。

 彼女に会いたいと、強く願ってしまう。
 彼女の姿を視界に映して、声を聞いて、そうしてこの腕に抱きしめたいと、そんな我儘が胸の中に満ちてしまう。

 しかし世界は未だ深い夜。彼女の下へ伸ばせる足など、存在しない。
 額から腕を退けて、再びジェイドは夜を眺めた。視界の隅に瞬く淡い光が、酷く、酷く眩しかった。

「……貴女に、会いたいです、」

 唇に紡いだ彼女の名前に、その音に、またその感情が一層強まった。
 早く、早く、朝になれ。
 微睡には遠い瞼をぎゅうと瞑って、ジェイドは祈る。

 夜明けはまだ、遠く儚い夢の中。

2020/5/4

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