愛するあなたにさようならと花の名を(ジェイド/悲恋)
「……それは、何を育てていらっしゃるんですか?」
植物園の片隅。人の手があまり行き届いてはいない小さな花壇の前で、ジェイドは彼女にそう問いかけた。確か、それは今からひと月ほど前のこと。
小さな如雨露を手にしゃがみこんでいた彼女は、その姿勢のままジェイドへと視線だけを向けてにこりと笑みを浮かべた。どこか悪戯っぽいその笑みは、彼女が普段からよく見せる表情で、──けれど、どうしてだろう、
「内緒です」
その表情に宿った色が、どうしてかジェイドには悲しさを孕んでいるように見えて。
「いつか花が咲いたら、きっと分かりますよ」
もしもその時、彼女にユニーク魔法を使ってでも彼女の抱える全てを知る勇気がジェイドにあれば、未来は変わったのだろうか。いいや、そんなもしも話に意味などない。恋をして愛を知ってしまった男は、結局、愛する人を傷つけてしまう未来を恐れてユニーク魔法を使うことが出来なかった。何も知らないまま、「その日が楽しみですね」と曖昧に笑うことしか出来なかった。それが全てで、それが罪だった。
罪には罰を。だれかがそう笑った。
だから世界は、男から奪って行ってしまったのだ。
ジェイドにとっての唯一無二を。最愛を。
あの少女を。
『さようなら、ジェイド先輩』
あの温かな存在の代わりとでも言うように残されていたその紙切れには、もちろん温度なんて宿ってはいなくて。ただただ乾いた音だけが、かさかさとジェイドの手の中に揺れた。
オンボロ寮の監督生。異世界からやって来たひとりの少女の姿が消えてしまったという知らせをジェイドが聞いたのは、つい数十分前のこと。世界の全てが砕け壊れたような感覚に足をもつれさせながら、ジェイドは何もかもを振り払うように走った。誰の声も、誰の制止も聞かぬまま、ただ、ただ、彼女のあの優しい笑顔を探すためだけに。
けれど、オンボロ寮の彼女の自室に残されていたのは、その別れの言葉だけだった。
心が、身体が、急速に温度を失っていくような感覚。まるで、流氷の漂う海を泳いでいるかのような凍てつきが、ジェイドの全てを殺してしまおうとでも言うように包み込んでいく。
その手紙を握りしめ、ジェイドはふらふらと覚束ない足取りでオンボロ寮を後にした。
もう随分とその存在に慣れてしまった二本の脚で、彼は歩く。向かう先は、植物園。その片隅にぽつんと存在している、小さな小さな彼女の花壇。
意外にも日当たりの良いその場所には、今日もさんさんと陽光が注がれていて。きらきらと瞬く世界の眩しさに、ジェイドはそっと瞳を細めた。
けれどもその瞳は次の瞬間、丸く見開かれることになる。
──視界を焼いたのは、あまりにも鮮やかな赤い色。
花が咲いていた。彼女が大切に管理していたその花壇に、花が。
誰かの心臓を糧として咲いたかのように、深い赤色をその身に宿した花。
『──私は、元の世界に帰ることになりました』
その花は、この世界には存在しない花だった。
けれど、ジェイドはその花を知っていた。
『この世界での記憶を、私は失ってしまうそうです』
いつかの彼女の笑顔が脳裏に蘇る。
魔法薬楽や植物学にどうしてか必死に励んでいたあの姿が。
──花を咲かせたいんです。この世界には無い、私の大好きな花。
──沢山の色をもつ花なんですけど、私は赤色が一番好きで。
──なんでって……花言葉が、とても素敵なんですよ。
そうか、彼女は完成させていたのか。
彼女が好きだと言っていたその花を、この世界に芽吹かせる方法を。
『貴方と過ごしたあの愛おしい思い出たちのことも、貴方へのこの想いさえも』
笑みがこぼれると同時、膝が地面に落ちた。ガラス張りの天井から降り注ぐ陽光が、まるでその赤を強調するように揺れている。あまりにも鮮やかで、眩しい世界がそこにはあった。
じわりと視界が滲んで、喉が焼けるように痛みを訴えた。
『だから私は、花を咲かせました』
この赤の名を、彼女は何と呼んでいただろう。
記憶をなぞって、ジェイドはようやく思い出す。
『ごめんなさい、ジェイド先輩。我儘な私を、残酷な私を、どうか許して』
──アネモネ≠チて言うんです、この花。
『どうか、私の想いを枯らさないで』
彼女の想いを抱いて、その花は咲き誇っていた。
真っ赤に色づいたその花びらにはきっと、彼女の心の欠片が宿っているのだろう。
彼女のジェイドへの愛が、そこに。
「──……酷い人。本当に、酷い人ですよ、貴女は」
ぽつり、ぽつり、空から降り注ぐ雨粒のように、ジェイドの声が静かな植物園にこぼれ落ちていく。その音が紡ぐ言葉はもう、あの人に届きはしない。
花が咲いた。
もうこの世界にはいないあの人の心を糧に咲いたその花は、この世界には存在しなかったはずのその花は、きっと永久に咲き続けるのだろう。
残されたたった一人の男の手によって。
その愛を注がれた、唯一無二の愛によって。
──花言葉は、
「僕も、貴女を愛していますよ」
2020/5/13
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