君さえ


色移り、愛混じり(ジェイド)


「お久しぶりです。ただいま帰りました」

 麗らかな春の日差しが心地いい、スプリングホリデーの最終日。オンボロ寮を尋ねてきたそのひとの姿に、私はぱあ、と自分でもその変化が分かるほどに大きく表情を綻ばせた。もしも私の感情が何らかの形で可視化されるとすれば、例えばはちきれんばかりに振り回されている犬の尻尾などが適当ではないだろうか。

「ジェイド先輩、おかえりなさい!」

 高い背丈に、浅い海の色を宿した短髪と、その中にひと房だけ伸びる深海の色。左右で異なる色を孕んだ瞳をゆるりと細めて穏やかに微笑んだ彼は、私の先輩であり、そして恋びとでもあるジェイド・リーチ先輩。
 一週間と少しぶりに顔を合わせた彼の姿に、思わず飛びついてしまいそうになる自らを必死に抑え、私はどうぞどうぞと彼をオンボロ寮の中へと招き入れる。グリムは天気が良いからと少し前に散歩に行ってしまったから、今は私と彼のふたりきり。相棒には少し悪いけれど、それが今はとても嬉しかった。
 飲み物を用意して、談話室のソファに二人並んで腰かける。手を伸ばせば届く距離に彼がいることの幸せを、私は内心で静かに噛みしめた。

「帰省、どうでしたか?」
「特に変わったことはありませんでしたね……代り映えがなさ過ぎて少し退屈なぐらい。ああ、でもアズールの実家で新メニュー考案のお手伝いをしたのは少し楽しかったです」

 北の海に実家を持つ彼と、彼の双子の兄弟であるフロイド先輩に幼馴染であるアズール先輩は、流氷の漂う冬を避けて、他の生徒たちとは少し時期のズレた帰省をする。それがこのスプリングホリデーだったという訳だ。
 海の底に広がる世界というだけでも心が惹かれるというのに、今の私にとって、それはさらに愛するひとの生まれ故郷の話でもあって。身を乗り出す勢いで彼の言葉に耳を傾けてしまうのも、仕方のないことだろう。

「……ああ、そうだ。貴方にお土産をお持ちしたんです」

 話の途中にはたりとそう口にした彼は、そのポケットから小さな包みを取り出しそれを綿に手渡してきた。ぱちりと瞳を瞬かせてそれを数秒眺めた私は、ようやくその意味を理解して声を上げる。

「え、いいんですか?」
「はい。貴方のことを考えながら選んだものですので」

 酷く優しい彼の表情に、とくん、と心臓が淡く跳ねた。じわりと頬が赤くなるけれど、胸を満たしたのは羞恥心というよりはむしろ、どうしようもないほどの喜び、嬉しさ、そして幸福感。こんなにも満たされてしまって良いのだろうかと思いながらも、私はもう、彼から与えられるこの愛情に溺れることしか出来ない。逃げ出すことなんて考えられない。いいや、考えたくはない。

「ありがとう、ございます……!」

 そう言葉にして、私は恐る恐る彼の手から小さな包みを受け取った。私の両手に収まるほどに小さなそれは、軽いけれども確かな重さを私の手のひらに与えてくる。

「恋い慕う女性に贈り物などしたことがないので、何が正解かよく分からなくて。気に入って頂けると嬉しいのですが……」

 包み紙をぐちゃぐちゃにしてしまわないように、丁寧に封を開けていく。けれど、どきどきと心臓が指先を急かすものだから、ほんの少しだけシールの部分が破けてしまった。
 中に包まれていたそれを、手のひらの上に取り出す。

「貝殻だ……」

 可愛らしい薄桃色のそれは、私の手のひらにすっぽりと収まるサイズのもの。
そして、どうやらコンパクトミラーのように開閉できる仕様になっているようだ。ぱちんとそのまま貝殻を開くように開ければ、向かって上側の貝殻の内側には小さなミラーが。そして下側の貝殻の中には、

「先輩、もしかしてこれって、」
「はい、口紅です。水につよく、海の中で使っても色が落ちにくいと、最近珊瑚の海で人気だそうで」

 ふと見かけた時に、この色がとても貴方に似合いそうだと思って、気が付いたら手が伸びていました。少し気恥ずかしそうに、彼はそう笑った。
 その表情と、手の中の貝殻。両方へ順に視線を飛ばしながら、私は湧き上がってくる感情のやり場に困ってしまう。だって、これはつまり。ああ、いや、でも、こちらの世界では。ぐるぐると思考を回すけれど、やはりどうしたって嬉しいという感情があんまりにも強いから、私はまた「ありがとうございます」と繰り返すばかり。

「……すごく、嬉しいです、」

 ようやく私が紡ぎあげたその言葉に、彼の表情がほんの少し和らいだ。それにまた心臓が跳ねては歓喜に叫ぶのだから、本当にどうしようもない。

「あの、もしよければ、……つけてみてはもらえませんか?」

 彼の言葉に、私はぱちりと目を見開く。
 それは、もちろん構わないし、むしろ嬉しいのだけれど。
 思うところは多々あるのだけれど、どこか期待を孕んで私を見つめている彼の視線に私が勝てる訳もない。こくりと小さく頷いて、私は手の中の貝殻に指を伸ばした。
 ほんの少しオレンジを交えた淡いピンクはとても可愛らしくて、その色彩を眺めるだけで心が喜んでしまう。この色を、彼は私に似合うと言って選んでくれたのだと思うと、胸を言葉にも表せない感情がぎゅうと包み込んだ。その僅かな苦しささえ酷く甘いのだから、やはり恋は全てを馬鹿にしてしまうものなのだろう。その事実も、そんな自分も、私はもう機雷になんてなれないのだけれど。

 薬指に紅をとって、ミラーを覗き込みながら唇に色を落としていく。目を見張るような発色の良さに、紅を塗った部分から唇がつやつやと輝いていくようで、思わず感嘆の声が唇から漏れた。

「……僕の目に狂いはありませんでしたね。やはり、その色は貴方に良く似合う」

 紅を塗り終えた私が恐る恐るミラーから視線を持ち上げれば、そこには満足げに微笑む彼の姿。その瞳に滲む色彩があんまりにも優しくて甘いものだから、思わず私の体温までじわりと上がってしまった。きっと私の頬は林檎も吃驚なほどに真っ赤なのだろう。手の中にある鏡を見なくても、それぐらいは分かる。
 私の頬に触れた彼の指先には、いつもの手袋の姿がなくて。布を通さずに与えられる彼の低い体温が、今の私の火照った身体にはあまりにも毒だった。

「ふふ。顔が赤いですが、熱でもあるのでしょうか?」

 それは大変だ、なんて。声が笑っているのを隠そうともしない彼に、私はむう、と眉間に皺を寄せた。全部分かっているくせに、相変わらず彼は意地悪だ。
 最初はそんな彼に翻弄されてばかりの私だったけれど、今は違う。私だって、やられてばかりのか弱い小エビではないのだ。
 くすくすと笑う彼の頬に、今度はこちらが手を伸ばして、指先で触れる。相変わらず平熱の低い彼の肌は、やっぱり私にとってはどこかひやりとしていて。けれどその感覚さえ、私にはどうしようもなく愛おしい。
 私の突然の行動にそれでも笑みを崩さない彼へ、私はそのまま顔を寄せた。
 瞳を閉じないまま彼の表情を眺めていたい気持ちもあったけれど、流石にそれは、まだそこまで強くなりきれなかった私の羞恥心によって戒められてしまう。
 ゼロになった距離を、ちゅ、という微かなリップ音を残して再び離す。瞼を開いて彼の表情を見れば、ぱちりと色違いの一対が、驚きに丸く見開かれていた。頬が相変わらず熱くて仕方なかったけれど、その表情を見られたならばこの恥ずかしさにもかいがあったというもの。私はしてやったりと笑ってみせた。

 けれど、調子に乗って二度目のキスをしたことは悪手だった。不意打ちの一度目からの逃走は叶ったけれど、二度目を許してくれる彼ではない。
 唇を合わせた刹那、後頭部と腰に彼の手が回されて、私の退路は完全に断たれてしまった。つい一瞬前まで、あんなにも可愛らしく驚いた表情を浮かべていたくせに。酸欠に滲んだ視界に揺れた彼の瞳は、もう既に捕食者のそれ。
 呼吸を食べられるようなキスの雨に、私は敢え無く酩酊してしまう。くらくらとするその息苦しさも、彼から与えられたというだけでこんなにも愛おしい。

 名残惜しげに離れて行った彼の温度に切なさを抱きながら、私は上がってしまった呼吸を必死に整える。生理的な涙の滲んだ目元を拭って、まだどこか滲んだ視界に彼の姿を映した。
 そうして、世界を彩るその色彩にゆるりと微笑むのだ。

「ちゃんと、返しましたからね」

 どうやらこの口紅、水には強いが、擦ったり拭ったりという物理的な力には些か弱いようだ。私の言葉にぱちりと目を瞬かせた彼の唇には、私と同じ色が薄っすらと滲んでいる。

 私がこの意味を教えた時、彼は一体どんな反応を見せてくれるのだろう。

 それ以来、その口紅を塗る度に、彼から与えられるキスの雨に悩まされてしまうことになる未来を、その時の私はまだ知らない



2020/5/14

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