あなたと眠るいつかの海で(ジェイド)
どこかで海藻がゆらりと揺れた感覚に、私は手元へ落としていた視線を持ちあげた。どうやら本に熱中している間に夜を越え、気付けば昼にも届こうという時間になってしまっていたようだ。先程の揺れが起きた方向かつ、私の住処である岩穴の出入口へと視線を向ければ、その向こうに広がる深海の闇が、遠い遠い海の向こうから差し込む光によって僅かに明るく色づいていた。
固まってしまった身体を解すように伸びをして、はてさて一体誰がこんなところへやって来たのだろうかと思考を巡らせる。とはいえ、好き好んでこんな辺鄙な所にやって来る者など、私はたったひとつの存在しか知りはしない。
「──また来たの?」
気配を消しているようだけれど、出入口の影に隠れている彼に、私が気づかないはずもない。声をかけてやれば、どうやら向こうも私が気づいていることに気がついていたらしい。いつものどこか胡散臭い笑みを浮かべて、その姿が私の視界に躍り出た。
「こんにちは、」
まだ十数年の時間しか生きてはいないはずのその稚魚は、その齢に似合わぬ洗練された声色と慇懃さで私の名前を親しげに呼んだ。鮮やかなターコイズブルーが特徴的なそのウツボの名は、確かジェイド・リーチと言っただろうか。数年前にひょんなことから縁が結ばれてからというものの、何故か私の住むこの岩穴によく顔を出すようになった不思議な子だ。
彼曰く、私の持つ膨大な量の知識に興味があるから、とのことだが、私の持っている知識なんて古ぼけているだけで何の役にも立ちはしないガラクタばかり。
いつもそう言ってこの稚魚を追い返そうとするのだけれど、どうしてか彼は私が何を言ってもめげないし諦めない。やがて先に折れたのは私の方だった。
「いつもご苦労様。生憎とその労働に報いるだけの情報なんて相変わらず私にはないわよ。悪いことは言わないからさっさとお帰り」
「おやおや、それは残念。……なんて、別に僕は情報だけが欲しくて来ている訳ではありませんよ。貴女に会いたくて来ているんです」
そう彼は微笑むけれど、それを鵜呑みにするほど私は愚かではない。本当に、一体私の持つどの情報が目当てでここに来ているのやら。面倒くさいからいっそ端的に用件を言って欲しいものだ。教えるかどうかは別として。
それに、確かこの稚魚は面白いユニーク魔法を持っていたはず。ひとりに対してたった一度しか使えないうえに、相手の魔法耐性や精神状態によっては効かないのだと言っていた気がするけれど、頭が大きなだけでそれほど魔力に富んでいるという訳ではない私が相手なら、別にその魔法に失敗することも無いだろう。早くそれを使ってしまえばいいだろうといつか私も彼に言ったのだが、彼は「まだその時ではないから」と笑ってはぐらかすだけだった。
そんなこんなでずるずると続く、彼と私の不毛な時間。
肩をすくめて本へと視線を落とした私の隣へ、ふわりと彼が近寄ってくる。
「……不老、不死……まだ調べていたんですね」
遠慮もなく私の手元を覗き込んだ彼は、本の中に記されている文字を読み上げて、困ったようにを下げた。声色もどこか、先程よりも暗い温度を帯びている。
どうして貴方がそんな顔をするの。
そんな問いかけを飲み込んで、私はただ静かに頷いた。
「ええ、もちろんよ」
──人魚というものは、元来人間やその他の生物と比べて長命な種族だ。けれど、その長命な人魚の中にも、その種類によってやはり寿命に差が生じてしまう。
私はベニクラゲの人魚。それは不老不死とも謳われる程に長い時を生きるもの。
もちろん実際のベニクラゲの生態には不老不死に至る様々な要因があるのだが、人魚である私に与えられたのは、ただただひたすらに長いだけの時間だけ。もう既に、人魚の世代が三つは変わる程の時間を生きてきた。
私が不老不死について調べる理由はただひとつ。
不老不死を、やめるための方法を知るためだった。
「長生きなんていいものじゃないわ。私だけを置いてけぼりにして世界ばかりが変わっていくだけ。皆私を置いていく。──もう懲り懲りよ」
私の幼馴染も、友人も、クラゲに勉強なんて出来る訳がないと笑ったあのいじめっ子も、みんな、みんな、みんな、とっくの昔に私を置いていってしまった。いつからか変わらなくなってしまった外見だけが、まるで過去に取り残されているようで。そんな自分の姿を見たくはないと、何度も何度も鏡を砕いた。
悲しいも、苦しいも、辛いも、寂しいも、もう飽きる程腹に詰め込んできた。
だからもう、終わらせてしまいたいのだ。
「……僕がいますよ」
「慰めは要らないわ。確かに貴方はまだ年若い稚魚だけれど、きっとあっという間に大きくなって、私を置いていってしまう。……だから、早くこんな場所に来るのはやめて、私のことなんて忘れてしまいなさい」
彼の言葉を跳ね付けるように私は言い捨てる。酷い言い方だという自覚はあった。けれど、これが私にとっても彼にとっても最善の選択なのだ。変に情が湧く前に、手酷く扱って距離を取る。そうすれば、いつかの別れの日にこぼれる涙の量も、きっと少なくなるから。
まるで逃げるように彼に背を向け、私は彼が早くこの岩穴から立ち去ってくれることを切に願った。じくじくと鈍く痛む心臓の殺し方だって、これだけ長い時間を生きていれば自然と学んでしまう。
「……僕は、来月から陸の学校へ通うことになったんです」
ぽつりとこぼされた彼の言葉に、浅く呼吸が止まった。
「だから、……そうですね、きっと、貴女の言葉に従うことが正しいのでしょう」
どくどくと、心臓が脈打つ音が鼓膜のすぐ傍に聞こえる。
「──さようなら、」
彼が静かに紡いだその言葉は、確かに私の望んだものだった。
ゆらりと遠ざかって行くその気配は、確かに私の願ったものだった。
それなのに、どうしてだろう。途端に胸が苦しくなって、目頭が焼けるように熱さを訴えた。引き攣る喉では、去って行く彼にさようならを言うことすらできない。いや、きっとそれでいいのだ。よかったのだ。だって声が出なければ、彼に縋り付く無様を晒す事だってできなくなるのだから。
手のひらを胸元に固く握りしめて、私は唇を噛みしめる。
これでいいんだ。これが最善で、最良で、一番に正しい選択だった。
──……けれど、それでも、
胸に込み上げた感情に背を押されるまま、私は背後を振り返った。
ほんの数秒前まで確かに彼がいたその場所には、勿論もうあのターコイズブルーは残されてなどいなくて。あの瞳も、あの声も、全てが掻き消えて。あるのはただただ、もう慣れてしまったはずの『孤独』だけ。
ああ、ひとりぼっちとはこんなにも苦しいものだっただろうか。
ぼろぼろと瞳からこぼれ落ちた涙が、海水にとけては消えていく。海に生きる人魚に瞳を潤わせるための涙など必要ないというのに、それでも悲しみという感情につられて溢れるその雫は、どうしてか止まることを知りはしない。
そうしてようやく私は理解する。
結局、私は、あの優しいターコイズブルーとさようならなんてしたくはなかったのだ。
諦めて、達観して、そうして強がってみせたくせに、ひとりになれば寂しいと泣き始める愚か者。ああ、なんて馬鹿らしい。なんて悲しい。なんて愛しい感情だろう。
「──……ジェイド、」
その名前を口にしたのは、初めてだった。名前を呼んでしまえば、きっと私はその存在を手放せなくなってしまうからと、必死に口を閉ざしてきたから。その予感は、正しかった。何故なら今この瞬間、その音を舌に転がしたその瞬間、感情がとめどなく溢れ出したから。
ジェイド。ジェイド。
私の愛しい、ひとりの人魚。
「──はい、呼びましたか?」
世界に、音が満ちた。
それはここに存在するはずのない声で。けれど私が今一番に聞きたかった音で。
下に落ちていた顔を、勢いよく持ち上げる。
刹那視界を色づけたのは、私の愛したターコイズブルー。
どうしての問いかけは、情けない嗚咽に紛れて消えてしまった。それでもきっと、彼にはその言葉が届いたのだろう。ぼろぼろと泣き続ける私の姿に優しく微笑んで、彼は唇を開き言葉を紡ぐ。
「貴女があんまりにも悲痛な声で僕を呼ぶものですから、思わず戻って来てしまいました」
ほんの少しの悪戯っぽさに優しさを混ぜ込んだ瞳が、私の視線を捕らえて離さない。鋭い爪と水かきが特徴的なその手のひらがあんまりにも優しく私の頬を撫でるものだから、また涙がひとつぶ余計にこぼれ落ちてしまった。
「……言いたいことがあるのなら、ちゃんと言ってください。貴女の言葉なら、僕は何でも受け止めてみせましょう」
彼の甘い囁きに、私は必死に頭を振った。それはダメだ。口にしてはいけない、言葉にしてはいけない。こんな願望なんて、こんな切望なんて。
彼を縛り付けてしまう、こんな呪いなんて。
強い私の拒絶の姿勢に、彼はまた眉を下げて困った表情を浮かべる。仕方ありませんね、と、まるで本当に幼い稚魚に向けるような優しい声色が、私の鼓膜を震わせていった。
「強情な貴女には、やはりこれを使うしかないようですね」
感情に荒れて涙に濡れた私の惚けた頭では、その言葉の意味を咄嗟に理解することさえ出来はしない。ぱちりと瞬かせた瞳に、輝く金色が煌めいた。
「<かじりとる歯>」
どうして。
彼の言葉にようやく全てを理解した私だったけれど、その時にはもう遅い。何かに思考を掴まれる感覚に、ぞわりと背筋が波立った。逃げる術など、もう残されてはいない。
ひとりに対してたった一度しか使うことは出来ない彼のそのユニーク魔法。それは、いつか私から何か彼にとって有益な情報を引き出すために使うのだと、そう言っていたのに、そう、思っていたのに。
「『貴女は、僕とさようならをしたいのですか?』」
どうして、そんなことを聞くためだけに、貴方は、
「……やだ、いやだ、さようならなんてしたくない」
まるで自分の意志とは引き離されたかのように、自然と私の唇が言葉を紡ぎあげていく。
「もうひとりはいやだ、悲しいよ、苦しいよ、」
この胸に募った思い全てを吐き出そうと、声はとめどなく溢れ出す。
「──ジェイド、私を置いていかないで……!」
身体が、何かに包み込まれる感覚。息苦しさを覚えるほどに強く私を抱きしめるその腕は、確かに彼のものだった。
「僕は貴女を置いていったりしませんよ」
耳元に囁かれた声の優しさに、またじわりと視界が滲む。縋り付くように彼の背中に腕を伸ばせば、またいっそう距離を縮めるように彼の腕に力が籠められる。このまま圧死してしまいそうだと、そう思った。それも良いかもしれないと、思った。
「……僕は陸の魔法士養成学校で学んできます。貴女が調べ続けていることについて」
私を腕に抱きしめたまま、彼はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「貴女の終わりを、僕が見つけ出してみせます。だからどうか、僕と同じ時間を生きて、そしていつか、僕と一緒に眠ってください」
それは、私にとってどうしようもなく嬉しい言葉で、幸せな提案で。歓喜に心臓が戦慄くのを、確かに自覚した。けれど、それはまるで。
「……どうして、そこまで言ってくれるの?」
まるで、プロポーズのようではないか。
顔を持ち上げて、彼の表情を覗き込む。そして私が紡いだその言葉にぴしりと笑みを固めた彼は、次の瞬間大袈裟なほどに肩を落としてみせた。その反応の意味も分からず、私はただ首を傾げるばかり。
眉を下げてお得の困ったような表情を浮かべた彼は、どこか呆れたような様子。けれどすぐさま柔らかい笑みに戻って、私に答えを与えてくれるのだ。
「そんなの、僕が貴女を愛しているからに決まっているでしょう?」
今度は私の思考回路がぴしりと動きを止める番だった。
数秒をかけて、ゆっくりと、私は今しがた彼の紡いだその言葉の意味を読み解いていく。
そうして全てを理解した瞬間、ぶわりと私の頬に熱が集まった。熱くて、熱くて、沸騰してしまいそうなほど。突然その速度を速めた心臓のテンポに、当の私ですらついていけない。
咄嗟に彼から逃げようとした身体を、もちろん彼が許してくれるわけもなく。
「貴女は、僕のことをどう想ってくださっているのですか?」
きっと情けないほどに赤く染まっているのだろう私の顔を覗き込む彼の表情は、酷く愉快そうで、楽しそうで、それでいて酷く酷く甘い色を宿していた。その表情と声色のせいで、心臓がぎゅうぎゅうと苦しくなって、そこから絞り出された悲鳴が、声にもなりきれないまま喉元を突き抜けていく。
こんな感覚を味わうのは、長い長い時間の中で初めてのことだった。
「……まだ十数年ぽっちしか生きてない稚魚のくせに……!」
「ええ、貴女の仰る通りまだまだ僕は若輩者ですので、貴女がその聡明な頭で一体何を考えているかなど想像も出来ません。……ですので、是非教えてください。僕にも分かるように、ちゃんと言葉にして」
一体どこでどんな教育を受ければ、こんなにもいい性格に育ってしまうのだろう。ぐぐぐ、と私は唇を噛みしめ彼を睨むけれど、彼はそんな私の威嚇などどこ吹く風。稚魚にじゃれつかれている程度にしか思われていないなこれは。
「残念ながら、僕のユニーク魔法はもう貴女に使えませんから。ぜひ貴女の意志で言ってください。貴女の気持ちを」
ね? と優しく甘やかすように、彼の声が私を撫でていく。
ああ、悔しい、悔しい。本当に悔しい。けれどこれはもうすでに、私の負け筋しか残されてはいない出来レース。それならいっそ、早く腹を括ってしまえ。
私を見下ろすふたつの色を睨みつけて、私は噛みつくように言葉を吐いた。
「──私も好きだよ、ジェイドのことが!」
ぱちりと瞬いたかと思えば、次の瞬間にはゆるりと弧を描いたその二色。気づけば私の視界はターコイズブルーに染め抜かれて、ゼロになった彼との距離に、呼吸どころか心のいっとう柔い部分まで奪われていってしまう。
ああ、自分はもう本当に逃げられはしないのだ。
彼の色彩から、その愛から。
そして自分はもう、きっと逃がしてやれはしないのだ。
彼の存在を、その人生を。
いつかふたり、海底に眠るその日まで。
2020/5/19
- 35 -