君さえ


春と君とまどろみと(アズール)


 その光景を目にした瞬間、自分は夢でも見ているのだろうかという錯覚に襲われた。

 しかし、地面を踏む足裏の感覚も、空から降り注ぐ陽光が私に与える温度も、鼻孔を微かにくすぐる草木と土の香りも、確かにそこに存在していた。視界もクリアで、思考回路も鮮明。つまり、夢を見ているのは私ではなく、正しく目の前にいる彼なのだと理解した。
 休日の昼間、中庭の片隅。小さな東屋のようになったその場所見つけた彼の姿に、さらさらと温かな春の陽気が降り注ぐ。その光にきらきらと輝く雪のような薄い銀藍の色が、私の視界を淡く焼いた。ふわりとその髪先を揺らしていったのは、優しい一陣の春風。今は眼鏡だけではなく瞼の向こうに隠されてしまった、空を映した水面のような優しい色彩に、どうしようもなく恋焦がれた。

 揺れない瞼は、長い睫毛は、彼がまだ夢の中にいることを私へ確かに伝えてくる。

 足音を立てないようにそっと近づいて、彼の座っているベンチの空いたスペースに腰かけた。覗き込んだ手元や、私とは反対側の彼の隣には沢山の書類や書籍たちの姿。まだ試験は随分先だと言うのに、きっともう既に彼はその対策用ノートの作成に勤しんでいるのだろう。普段よりもさらにいっそう血色の悪い肌と、目の下に滲んだ隈の姿に、私は小さく苦笑をこぼすことしか出来ない。

 はらりとこぼれ落ちたひと房の薄銀藍が、彼の目元に影を落とす。無意識に伸ばした指先でそれをそっと掬い上げ、彼の眠りの妨げにならないようにと横へ流してやった。
 すると、その微かな感覚にも、気配に機敏な彼は気付いてしまったらしい。
 ふるりと睫毛が揺れて、薄い空の色が私の姿をそこに映した。

「あ、アズール先輩……、」

 起こしてしまってすみません。その言葉を私が紡ごうとした、直前。
 ふらりと彼の身体が傾いで、薄銀藍が視界に揺れる。驚きの声をあげる暇もなく、私の膝にぽすりと何かが落ちてきた。慌てて視線を落としたそこには、私の膝に頭を預けて再び瞼を閉ざした彼の姿。
 咄嗟に立ち上がることも、ましてや彼を押しのけることもできはしない私は、ただ行き場のなくなった両手を中途半端に空へ彷徨わせるだけ。もう一度、焦り混じりの声で彼の名前を呼んだけれど、返ってきたのはもう現も夢な曖昧な声のかたちだけ。

「……すこし、だけ、このまま、」

 すやすやと眠ってしまった彼に、私が出来ることなどただひとつ。
指先でそっと彼の髪を梳いた。それに彼の表情がほんの少し和らいだ気がしたのは、気のせいだろうか。

「──おやすみなさい、アズール先輩」

 努力家な貴方に、せめて今だけは、穏やかな春の眠りを。


2020/4/28

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