君さえ


君の優しさに触れたこと(レオナ)


「──てめぇ、んなところで何してやがんだ」

 頭上から降り注いだ低いその声に、私はびくりと過剰なまでに肩を跳ねさせる。ぎしぎしと錆びたブリキ人形のような動きで首と視線を動かせば、そこにいたのはやはり想像通りの姿。鮮やかなオレンジ色にはだけた胸元、褐色の肌、そして少し癖のついた長い黒髪という全ての要素を極限まで引き立てる、いや、それら全ての要素を食い殺してしまうほどの美貌を持った男がそこにいた。私を見下ろす鮮やかな緑と視線が交わって、私は肉食動物に命を狙われた草食動物の心中を、身をもって知ることになる。
 機嫌が悪いのか、それともただいつものように寝起きなだけなのか、眉間に皺を寄せて険しい表情の彼は、きっと今のこの瞬間、世界の何よりも恐ろしいのだろう。
 本能的に沸き上がった恐怖心によって言葉も紡げない私に、彼、レオナ先輩はさらに表情を険しくする。ひぃ、という情けない悲鳴は喉元に引っかかって音になることは無かった。

「何黙り込んでんだよ」
「す、すみません……!」
「謝罪はいいからさっさと答えろ。授業中の渡り廊下の隅っこに座り込んで、一体何やってんだって聞いてんだよ」

 ドスの効いた彼の声に、ついに耐えきれなくなった私は反射的にその場所から立ち上がった。すみませんでした、と大声で叫んで早くここから離れよう、彼から一目散に逃げてしまおう。そんなあまりにも弱々しい私の思考回路も、唇を開こうとしたその瞬間に掻き消える。
 右足首を襲った鈍い痛みに、かき消される。

「──っ!」

 痛みに小さな悲鳴を上げて、体重を抱えきれなかった右足に私の身体が大きく揺れた。ああ、このままでは地面に叩きつけられてしまう。せめてとばかりに右足を庇おうと、私は両手を地面へ[V:8212][V:8212]伸ばそうと、したのだけれど。

「……ちっ……どんくせえなぁ、おい」

 私の身体は地面と挨拶をすることなく、やや傾いた状態でぴたりと止まる。いや、止められたと言った方がいいだろう。それが一体誰の手によることであるのかも、私の頭は瞬時に理解した。
 瞬時に体重の全てを自らに戻そうとするけれど、それも儚く彼に諫められてしまう。

「自分の脚で自分の体重も支えられねぇくせに暴れてんじゃねぇよ。……足か」

 どうやら今の一瞬で、聡い彼は全てに気が付いてしまったらしい。確認するというよりは、ほとんど確定的に、そしてここまで気づかれたのだから早く全てを吐けという圧力を伴って彼の声が私に落とされた。

「……飛行術の授業中に、私は体力養成のためにランニングをしてたんですけど……その途中で転んじゃって、……」

 足首を捻ってしまった私を心配したエースたちが付き添いを申し出てくれたが、保健室にぐらい一人で行けると固辞して、私はグラウンドを後にした。しかし、保健室へ向かうまでの道中に足首の痛みはどんどん悪化して、そうして結局、私は道半ばに座り込んでしまう。
 痛む足首を抱えて、もう少し痛みが引いたら再び動こうと考えていたその最中に、彼に見つかってしまった。それが今回の全貌だ。
 尻すぼみになって行く私の声に、地面に落ちていく私の視線に、頭上から大きな大きなため息がこぼされる。もちろんそれの出どころは、未だに私の身体を支えてくれているレオナ先輩。またびくりと私の肩が震えた。

「……はぁ、めんどくせぇな」

 私のあまりの鈍臭さに、彼もすっかり呆れてしまったようだ。心からこぼされただろうその声に、心臓がぎゅうと苦しくなった。私も自分で自分の情けなさに泣いてしまいそうだ。
 流石にここで涙を流すのは、と必死に唇を噛みしめる。

 ──そのおかげで舌を噛むことがなかったのが、不幸中の幸いだろうか。

「……!? レ、レオナ先輩……!?」
「うるせえ、騒ぐな。暴れんな。落とすぞ」

 膝裏と背中に回された腕に、近づいた彼との距離に、彼に抱き上げられたのだと気が付くまでそう時間はかからない。思わず足を空中にばたつかせてしまうが、それも彼の一声によってすぐさま押しとどめられる。ぴたりと大人しくなった私にふん、と鼻を鳴らして、彼はそのままどこかへと足を進めていくのだ。
 その方向は、少し前まで私が目指していたもの。それはつまり、──保健室。

「……お手数おかけしてしまって、すみません」

 左肩に触れる彼の温度に落ち着かない気持ちになりながら、私はせめてとばかりにそんな言葉を吐いた。彼はほんの少し視線をこちらに落としただけで、何も答えてくれはしない。

「……ありがとうございます」

 その言葉に、視界に映った彼の横顔がほんのすこしだけ和らいだような気がしたのは、私の都合のいい錯覚だろうか。思わずこぼれ落ちそうになった笑みを必死に堪えて、彼の優しさに胸が解けていく感覚をぎゅうと抱きしめた。
 今はまだ淡いその温度に名前が付くのは、もうしばらく先の話。


2020/4/28

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