君さえ


儚い夢にはもう消えないで(ジェイド)


 ──夢を見ていた。ずっと、ずっと、もう何日も、何カ月も、何年も同じ夢を。

 その世界は、砂浜の波打ち際。夜の近づく夕焼け空がそれ以上の時間を経ることはない。時折打ち寄せる波の音と遠くに聞こえる海鳥の声だけが鼓膜を震わせ、潮風がゆらゆらと髪先を遊ばせていた。
 酷く静かで、酷く穏やかな世界。私がそれを自分の見ている夢なのだと理解したのは、──そこで、彼に出会ったから。
 波に濡れる浜辺に座り込んだ私と、その隣に佇む彼。
 透き通った浅い海の色を孕んだ中に、黒を纏い他より少し伸びたひと房の髪。左右で色彩の異なる不思議な瞳。年齢は私と同じぐらいだろうか、少年と青年の合間に揺れる曖昧なその姿が、視界に酷く美しかった。
 そして、何よりも。何よりも、その『脚』が、この場所を夢と定義づける最大の要因となっていた。
 寄せては返す波に揺れる、そのかたち。人にはありえぬ、ひとつのかたち。

 彼の姿はまさに、絵本で読んだあの『人魚』そのものだった。

 美しい人魚の少年と私は、夕暮れの世界にただふたり、波打ち際で視線を交わす。
 言葉はない。私達はお互いの声を聞きとることが出来ないから。まるで声という音だけが世界からかき消されてしまったかのように、私は彼の声を、彼は私の声を聞くことが出来ない。それがこの世界での誓約だった。
 砂浜に絵を描き、唇の動きを読み、なんとか僅かなコミュニケーションを重ねる、夢に住む彼との日々。眠りに就いて、夢から覚めるその時まで。体感ではたった十数分のその時間が、私の大切な、大切な宝物だった。
 けれど、そんなある日のこと。いつもと同じ夢の中でふと、彼が私へ何かを伝えようと唇を開いた。ゆらりと揺れた彼の瞳は言葉を探して、探して、まるで助けを求めるように私の瞳を見据える。しかし私には何もできはしない。ただただ彼の言葉を待つことしか、私には。
 躊躇する様に唇を開閉させた彼は、意を決したように言葉を形で紡ぎ始めた。

『もう あえない ごめんなさい』

 唇の形と、彼の表情が、私に言葉を伝えてくる。それは私にとってあまりにも悲しい意味と、あまりにも苦しい事実を纏って、この小さな心臓を締め付けた。
 視界が揺れる。夢の中でも涙はこぼれるのかと、変に冷静な頭がぼんやりと考えた。
 遠くで海鳥が鳴いている。終わりの時間が近いのだと、どうしてか分かってしまう。いやだ、いやだ。子供のように惨めったらしく頭を振っても、夢はいつか終わるもの。人の夢ほど儚いものはない。
 終わって行く世界の中で、崩れていく空の中で、遠のいていく海の中で、彼が私の手を優しく、それでもしっかりと握りしめた。その温度を私が知ることはない。
 彼の瞳が私を射抜く。彼の唇が言葉を紡ぐ。
 唇に何かが触れた。

 ──そうして、私の夢は終わりを告げた。


 あれ以来、彼のいる夢を見ることはなくなった。心にぽっかりと穴が開いたような空虚感と、寂寥感、そしてどうしようもないほどの悲しみを抱えながら、それでも私は現実という世界で息をしていた。
 名前も知らない、夢にしか存在しない、人魚の彼。どこまでもどこまでも、架空でしかない存在。それなのに、その存在はこんなにも私の胸を締め付けて離さない。
 軋む心と重い身体を引き摺って、一日を終えた私は自宅に辿り着く。
 玄関の扉を開けて、家の中へ、──足を踏み入れる、その直前。
 ガラガラと、車輪が地面を擦るような音が背後から聞こえた。それに加えて、このご時世街中で聞くことなどほとんどない、馬の蹄が地面に叩きつけられる音。
 不審に思い、私は振り返った。

 そうして、自分は夢を見ているのだと、そう思った。

 私の目の前に、それがいた。闇に溶け込む黒い馬車、黒い、棺。
 まるで魔法にでもかけられたように、身体が自然とそちらへ吸い寄せられていく。
 私が乗り込み席に着いた瞬間、再び馬車は歩みだす。どこかへ向けて、ゆっくりと。
 ……酷くリアルな夢の感覚に、私はあの夢を思い出す。彼のいた、酷く優しくてあたたかい夢の世界。これも同じ夢だというのなら、彼の所へ連れて行ってはくれないだろうか。あの浅瀬色の在る場所へ、どうか、どうか。

 揺れる馬車の振動にいつしか眠ってしまった私は、気付けば棺の中に収められ、そこを不思議な生き物に襲われ、見たことのない場所を駆け回り、そして何とも不可思議な今の状況を叩きこまれることになる。魔法の存在する世界。魔法士を育成する学校。よく分からぬままあれよあれよという間に学校のオンボロ寮で元の世界に戻れる日までお世話になることとなり、なんだかんだとあって気づけばグリムというモンスターとふたりでひとりの新入生にまで昇格した。

 そうして始まった学園生活の初日。授業に飽きて早速逃げ出したグリムを追いかけて行ったエースとデュースの背中を見送った私は、ひとり廊下で息を吐く。
 様々なことが様々に降りかかりすぎて、心身ともに疲れ果てていたのだ。
 だがしかし、授業も受けなくてはいけない今、こうしている場合ではない。
 床を睨みつけていた顔を上げて、私は廊下の向こうを見る。
 磨き上げられた窓ガラスの向こうから、あたたかな陽光がさんさんと降り注いでいた。

 その陽光を反射して、私の視界に輝く色彩があった。優しいその色合いに呼吸も忘れてしまった私は、ただただその場に立ち尽くす。視界がじわりと滲んで、喉が小さくひきつった。

 二色の双眸が、その網膜に私を映す。そして、その瞳がゆるりと丸く見開かれて行った。あり得ないものを見るかのように、これが現実であることを疑うかのように。
 私と彼はふたり、ゆっくりとそれぞれに歩いた。ふたつの脚で、ふたり、何かを確かめ合うかのように、少しずつ距離を詰めていく。
 手を伸ばせば触れられる場所に、彼がいた。背が高くて、私の低い背丈では大きく見上げなければ視線が交わらない。

「……夢?」
「……夢、でしょうか」

 初めて彼の声を聞いた。
 手を伸ばす。彼の指先に触れる。温かい。初めて、彼の温度に触れた。

「……あったかい、ね」
「……ええ、とても。あたたかい」

 手のひらを合わせて、指を絡め合って、私達は確かめる。
 これが夢では無いことを、確かめる。

「そっか、夢じゃないんだ」
「そうですね、これはちゃんと現実のようです」

 笑みが零れると同時に、瞳から雫がほろりと落ちた。


「──ねえ、もっと聞かせて、君の声」

 
 そうしてもう一度、あの日の言葉を私に頂戴。



2020/3/27

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