君さえ


あなたのいない世界のお話(ジェイド)


 それはあまりにも突然の出来事で、私は随分と長い時間、自分の身に一体何が起きたのかも理解できなかった。瞼を閉じて、開いた、ただそれだけの刹那。私の視界に映る世界はがらりとその姿を変えたのだ。
 今、困惑に溺れる私の網膜を焼くのは、よく知っているはずの、オフホワイトに染められた天井。確かに私はその天井を知っていた。見慣れていた。何故ならそれは、私の、──私の、“本当”の部屋の天井だったから。
 それなのに心が懐かしいと泣いているのは、その色を見るのが私にとって一年ぶりの出来事だったから。
 ぱちり、ぱちりと瞳を瞬かせて、ベッドに横たわっていた身体をおもむろに起こす。巡らせた視線に映る景色はどれも、随分褪せてしまった自分の記憶の中のそれと全てが同じだった。本棚の位置も、布のかけられた姿見も、壁に飾られた絵も、ぬいぐるみが転がった床も。全部、全部。
 それら全てを視界に映して、ようやく私は理解した。

 ──自分がこの世界に戻って来てしまったのだという事実を。
 もう二度と、あの世界には帰れないのだという事実を。
 もう二度と、……あのひとには会えないのだという、事実を。

 喉がひきつるように痛みを訴えて、目頭が焼けるように熱くて、頬が濡れて。膝上にぽたりと落ちた雫の水跡を見て、私は自分が泣いているのだということに今更気が付いた。涙を止めようとすることも出来ぬまま、私はただひとり、誰もいない静かな部屋に座り込む。カーテンの隙間から僅かにこぼれる淡い光が、窓の外から聞こえる小鳥の歌声が、朝を伝えていた。
 ぴりりと、突然の電子音が私の鼓膜を突き刺した。
 視線だけを音源へ向ければ、それはベッドサイドに置かれたひとつの小さな端末。もう長く使っている、少し古い機種のスマートフォン。私の、ものだ。
 手を伸ばして、画面に指を滑らせアラーム音を切る。画面に映し出された時刻は朝の7時。見覚えの無いその日付は、きっと私があの世界に旅立った日の翌日を示しているのだろう。
 階下で家族が起き出して生活を始める音が聞こえた。壁にはハンガーにかけられた女子用の学生服が佇んでいた。時計の針は止まることなく進んでいった。この世界は、あの世界に生きた私のことも忘れて先へ進んでいってしまうらしい。そのあまりの残酷さに、また涙がこぼれた。

 部屋着から制服に着替えて、髪を纏めて、姿見を見る。ぴったり丈の合うそれが、まるで初めて着たものであるかのような違和感を醸し出していて、鏡の向こうの少女が酷く曖昧な表情でこちらを見つめ返していた。
 教科書の詰まった鞄を手に、部屋を出た。何も考えずとも身体が自然と廊下を歩き、そしてリビングへと私を運んでくれる。そこで私を待って居た両親と兄たちに「おはよう」と言った私は、ちゃんと正しく笑えていたのだろうか。
 朝食を食べて、家を出て、通学路を歩く。
 見上げた空がやけに青く澄んでいて、吸い込んだ空気が胸につっかえた。けほりとひとつ咳き込んで、コンクリートに固められた地面を睨みつける。すぐ傍を、先を急ぐ自動車が駆け抜けていった。
 家から学校までは徒歩で十分程度。気づけば校門にまでたどり着いていた身体に、私の意識は思わず慄き足を止める。見上げたその大きな校舎は、確かに私の通っていた学校のそれ。四階建ての、どこにでもあるような普通の学校。魔法も、モンスターも、ゴーストも、そこには何もない。厳し規律に準ずる生徒たちも、耳や尻尾を持つ生徒たちも、空を飛ぶ授業も、大きな窯をかき混ぜる授業も、──海から来た、人魚も。
私の愛したあの世界は、ここにはない。
 胸を突くように湧き上がってきた激情が、私の心を焼いていく。視界が揺れて、世界が滲んで、その場に立っていることもままならなくなった私は地面にへたり込んだ。周囲からの驚きと心配の声も聞こえぬまま、私はほろほろと涙をこぼす。きっとこの涙が枯れることはないのだろう。何故かそう確信できた。

 早退を許された足で、私は家までの帰路ではなく、海へ向かう電車に足を運んだ。
 がたがたと揺れる電車の中、窓の外を眺める。海へ行ったところで、世界が変わるはずもないことぐらい、理解していた。それでも心が酷く海を求めていたのだ。彼が生きた“海”という場所そのものに、ただただ触れていたかった。それだけだった。
 人のいない駅に降り、案内板に沿って道を歩いた。着信音が煩かったから、スマートフォンの電源はオフにして鞄の奥底に沈めてしまった。
 やがて見えてきたのは、防波堤と、ほんの僅かな砂浜と、柔く打ち寄せる波と、そして水平線。ああ、海だ。意識とは切り離された足は、ただ無言で前へ前へと進んでいって、気付けば爪先が海水に濡れていた。
 鞄を落として、靴と靴下を脱ぎ捨てて、私は海の中に足を踏み入れる。
 冷たい水の感覚に背筋を震わせながら、波と砂に時折足を奪われながら、それでも私は水をかき分け進んでいった。青い、蒼い世界へ向けて、まっすぐに。
 膝も沈むほどの深さに差し掛かった。スカートの裾も僅かに濡れて、どんどん身体が重くなる。それでも、それでも私はいきたかった。この海の底へ。深海の世界へ。
 ──あの世界へ、彼がいる、世界へ。

「……ジェイド、先輩」

 彼の名を口にした。空を雲がゆるりと流れていく。止まった爪先を、海藻がゆらりとくすぐった。水が冷たい。まるで私の心を凍てつかせようとでもしているかのようだ。

「ジェイド先輩」

 彼を愛していた。いや、愛している。
 高い背丈も、左右で色の違う不思議な瞳も、浅い海の柔らかな髪も、大きな手のひらも、私の名前を呼んでくれる穏やかな声も、どこか海を感じさせる優しい香りも、時折見せる悪い笑みも、腹の黒さも、優しさも、全部、全部、全部。彼という存在全てを、私はこんなにも愛している。
 揺れる水面に雫が波紋を広げた。それでも、世界から私への応えはない。残酷な沈黙だけが、私を包み込む世界の全てだった。震える手のひらで縋る先も、ありはしない。
 どうして私はこの世界に帰って来てしまったのだろう。最初から、こうなることは決まっていたのだろうか。それならば最初から教えてくれたら良かったのに。そうすれば、きっと私はこんなにも苦しい思いをしなくて済んだのに。この激情に苛まれるぐらいなら、あの世界のことなんて知りたくはなかった。彼に出会いたくはなかった。
何度も何度も世界を詰るけれど、全ては意味の無いことば。
 たとえ人生を何度やり直したところで、私は結局、何度でもあの世界で彼と出会う未来を選んでしまうのだから。あの夢のような幸せな日々を、終わりの決められた幸福を、私は正しく私の意志で選び取ってしまうのだから。
 潮風にべたつく頬をゆるりと緩めて、私は笑った。世界を、自らを、嘲笑うように。

 ──このまま海に沈んで泡になってしまえば、彼の下へいけるのだろうか。

 いけなくても、いい。彼のいない世界で生きていくことなど、私にはもう出来ないのだから。
 空を仰いだ。息を吸って、吐いた。心は酷く凪いでいた。

 ぱしゃん。小さな水音が、世界に鈍く響き渡った。



2020/3/29

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