君さえ


世界が夢から覚める頃(ジェイド)


 彼と一緒に、夜が明ける瞬間を見たいと思った。

 そんな私のわがままを彼が優しく聞き入れてくれたのが、つい昨日のお昼休みのこと。善は急げと選ばれた夜明けは、その翌日、つまりは今日のものだった。
 4月も終わろうとする今日この頃。日の出は大体朝の5時前後となり、空が明らみ始めるのはその約40分前からだと言われている。
 それに合わせて四時を過ぎた頃にオンボロ寮の屋根に上った私と彼は、ランタンの灯りを間に置いて、淡い星屑の輝く、黒にほんの少しの藍色を混ぜたような夜空を見上げていた。
 幸いなことに天気は良好。雲もほんの僅かにしか泳がない空には、きっとそれは美しい明けの姿が映るのだろう。

 晩春も近く、昼間は温かい陽気が世界を包み込む今日この頃ではあるが、やはり明け方の空気はどこか肌寒い。頬を掠めていった冷たい風に、肩にかけている毛布の裾を胸の前でぎゅうと握りしめた。
 そんな私の様子に気付いてしまったらしい。隣に佇んでいた彼の声が、まだ眠る世界の中に落とされた。

「寒いですか?」

 ランタンからこぼれる温かい橙色の光に瞳と髪先をきらきらと瞬かせている彼の姿が、淡く視界に映しだされる。その言葉に少しだけ、と曖昧に微笑めば、彼は僅かに眉を下げ、そして次の瞬間いいことを思いついたと言いたげな表情でくすりと笑った。
 そんな彼の様子に私が首を傾げていると、彼がおもむろに立ち上がり、斜めになった屋根の上を危なげもなく数歩歩いて私の真後ろへとやって来る。顔だけを肩越しにそちらへ向けていれば、そのまま私の背後に再び腰を下ろした彼が、私の背中をその腕に抱きしめるように腹部へと腕を回してきた。
 突然のことに呼吸も忘れる私と、そんな私を包み込む温かな体温。それは確かに、私を抱きしめている彼がうみだした優しさのかたちであって。

「こうしていれば、少しはマシでしょうか」

 背後、耳元のすぐ近くに囁かれた彼の言葉に、私は無言で首を縦に振るばかり。
 まだ空が白んでいなくて本当に良かった。明るんだ世界の中では、この熱く火照った情けない頬を彼に見られてしまうことになっただろうから。
 強張らせていた身体からゆるゆると力を抜き、彼の胸に背中を預ける。まるで座椅子か何かのように接してしまったと自分の無礼に一瞬慌てるけれど、彼がくすくすと笑っている声が微かに聞こえたから、それにほっと胸を撫で下ろした。

 そろそろでしょうか。彼の声のすぐ後に、ランタンの光がぱちりと消されてしまう。瞬間私たちを包み込んだのは、どこまでもどこまでも深い闇の色。見上げれば星が光って、背後には彼がいて、何も不安になるようなことなどそこにはないというのに、私の臆病な心はそのあまりの深さに背筋を震わせた。
 その震えはどうやら彼にも伝わってしまったようだ。ぽん、ぽんと私のへそのあたりで重ねられた彼の手のひらが、もう片方の手のひら越しに、まるで私をあやすように優しく跳ねていた。
 たったそれだけのことで、私の愚直で安直な心は安堵に溶かされてしまう。冷たい晩春の夜明け前を吸い込んで、肺に酸素を満たした。

「……夜明け前が一番暗いと言いますが、その真偽はどうなのでしょう」
「さあ……分かりませんけど、どれだけ暗くなった世界にもいつかは夜明けが来るのなら、それでいいんじゃないかなと思います」

 黒がほとんどの割合を占めていた空に、少しずつ、少しずつ、青い色が増えていく。
 瞬きの間にその姿を変えていく夜明けの空似、私はそっと息を呑んだ。
 空の全て、360度が青い色に染め抜かれる。

「──まるで海のようだ」
「──まるで海みたいですね」

 同時に呟いた言葉の重なりにふたり小さく笑って、またその虹彩に世界を映す。
深い青が少しずつ、少しずつ薄まって、私たちの真正面、東の空がじわりじわりと白に移り変わっていく。
 ああ、そうか。朝が来るのか。
 愚かなまでに単純で明快なその事実がころりと私の胸に転がり落ちて、そうしてどうしようもなく感情を揺らしていった。けれどもその震えは、温度は、泣きたくなるほどに静かで、優しくて。

 白が黄色に、黄色が橙に。
 そうして世界は朝を迎える。

 地平線に滲んだ太陽のひとかけらが世界に注ぎ与えるしろい光は、まるで地上の生命全ての朝を祝福するようだった。

「……朝が来ましたね」
「……はい……あはは、ちょっと眩しいや」

 わずかに濡れた目尻をこっそり手のひらで拭って、私は視線を後ろに佇む彼へと向ける。
 朝日に照らし出された彼の浅瀬色に、濃藍に、黄金に、黄灰色に、私の世界はどこまでも鮮やかに色づけられた。

「──おはようございます、ジェイド先輩!」

 今日も私は、彼のいるこの世界で生きていく。


2020/4/26

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