君さえ


どうか忘れないで(ジェイド/悲恋)


 目が覚めた時、私は何故か『それ』を手のひらに握りしめていた。
 ラミネート加工の施された、何の変哲もない一枚の栞。どこかで見た記憶のある可憐な青い花を押し花にしたそれを手に、私はベッドの上にひとり座り込む。枕元に置いてあったスマートフォンへおもむろに手を伸ばし、その画面に指を滑らせた。
 花の名前を調べるなんて、一体いつ以来のことだろう。青い花。小さな五枚の花弁。

 ──ああ、見つけた。

 画面に表示された写真に写るそれは、確かに今私の手の中にある青と同じもので。

 そこに示された名に、花言葉に、どうしてか私の瞳からは涙がこぼれ落ちた。

 自分が今どうして泣いているのかも、心を埋め尽くすこのどうしようもない空虚感の理由も、この栞を私にくれた人が一体誰なのかも、私には分からない。ふと気づいた栞の裏面に小さく記されたその文字は、その筆跡は、やはり私の知らないもので。
 けれども何故か、喉が浅く引きつった。知らない。分からない。私は何も。
 それでも。それでもただ、酷く苦しかった。酷く悲しかった。……酷く、愛おしかった。

 この青い色が、この文字が、どうようもなく。私は、

「……ジェイド、先輩、」

 口端からこぼれ落ちたその名前に首を傾げる暇もなく、私は再び泣き崩れた。
 知らないはずのその文字列は、その音は、どうしようもなく私の心を、全てをぐちゃぐちゃにかき混ぜて、そして嘲笑うように泡と消えてしまう。私に残されるのは、理由も分らぬ悲しみと、喪失感と、がらんどう。
 貴方は誰?
 問いかける言葉に答えは帰って来ない。私ひとりだけを取り残して、世界は今日も回っていく。ただ静かに、残酷に、淡々と。

 ──……『貴方を愛しています』

 静かな文字で記されたその言葉に込められた感情を、その温度を、私は知らない。
 それなのに、どうしてこんなにも涙があふれるのだろう。

 忘れてしまった。忘れてはいけないことを。忘れたくはなかったものを。あの声を、あの温度を、あの体温を。

 あのひとを。

 青い花は何も語らない。
 世界はそうして朝を迎える。
 私の生きる世界に落ちた、何千回目かの朝だった。



2020/5/10

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