君さえ


魔法を解くのはいつだって(ジェイド)


 ちちち、と頭上のどこかで小鳥の囀る声が聞こえた。柔らかな風が頬を優しく撫でていく感覚と、さらさらと枝葉が揺れる音。身体を包み込む穏やかな温もりに、太陽が私をさんさんと照らしているのだろうということが分かる。校舎から授業終了を伝える鐘の音が聞こえた。
 黒く塗りつぶされた視界でぼんやりとそこに在るはずの世界を眺めながら、私は小さく息を吐いた。何度瞬いたところで、今の私の網膜はたった一筋の光も知覚してはくれない。

 事の発端はつい30分ほど前のこと。防衛呪文の授業中、ふたり一組を作り実戦形式での練習を行うことになり、奇数人数──私とグリムはもちろんふたりでひとりの計算だ──のクラスの中、私とグリム、そしてエースとデュースが4人でグループを作って練習に臨んだ、のだが。仲の良さゆえに喧嘩の多い私以外のこの3人が、自由練習時間を与えられて何も起こさないわけがなく。予想通りというか何というか、途中から防衛呪文の精度を競い合い、果ては魔法の威力勝負に発展し、そしてそこに巻き込まれるのは勿論私だったという話である。
 3人が同時に放った魔法がぶつかり合い、反発を起こして弾け飛んだ先にいたのは、魔法が使えないため隅の方で待機するよう言われていたのだけれど、3人の言い争いに気付き、それを収めさせようと彼らに近づいていた私だった。
 私が最後に見た光景は、薄黄色の光の塊、いや、魔力の塊が勢いよく自分の方へと向かってくる姿。そして目の前に目映い光が瞬いた瞬間、咄嗟に私は瞼を固く閉ざした。
 そして次に瞼を開いた時、私の視界を埋め尽くしたのは完全な黒。周囲から私を心配する彼らの声や、クラスメイトたちの声、そして先生の声が聞こえるのだけれど、その姿はひとかけらも見えやしない。自分が魔法の暴発により視力を奪われたのだと理解したのは、「目が見えていないのか?」という先生の声を聞いてからだった。
 そこからはてんやわんやだ。これには流石に反省したらしいグリムたちに、怒りながらも自らの監督不行き届きを嘆く先生。ひとまず保健室にいって容態を診てもらって来いと言われ、私はグリムに手を引かれながら保健室へ。エースとデュースは先生に何が起きたのか、どんな魔法を使って反発を起こしたのかを先生に説明するために教室に残った。
 壁に手を突きながら、グリムに足場を教えてもらいながら、何とか辿り着いた保健室。保険医の先生に診察してもらった結果、「視力を戻す方法は今現在分からない」とのことだった。なんでも、どんな魔法により視力を奪われたのかが分からない以上、下手に魔法や魔法薬を処方することは無謀にも近く、下手をすればさらに手に負えないことになってしまいかねないのだという。それは確かにいただけない。

 結果、使われた魔法が分かるまで保留だと言い渡されるに終わった。

 目が見えないまま外を出歩くのは危険であるため保健室に滞在させたいと保険医の先生は言っていたけれど、どうもタイミングが悪いことに今現在、学園内の一部で流行っている風邪の患者によって保健室のベッドやソファが隙間なく埋められており、感染してもいけないからということで、教室もしくは自室で待機する様にと指示された。

 このままでは授業を受けるにも受けられないため、残りの授業はグリムひとりで受けてもらうことにして、私は一度オンボロ寮に戻ることに決める。その旨を防衛呪文の先生やエースたちに伝えるためにグリムひとりを向かわせ、私は中庭のベンチでグリムが戻ってくるのを待ち、──そして、今に至るという訳だ。

 オレ様がいなくて大丈夫なんだゾ? と私をここに置いていく前にグリムがこぼした声が脳裏に蘇った。不安げに揺れたその声はしっかりと反省の色も含んでいて、どうしてか怒りよりも仕方ないなという笑みばかりが込み上げる。二度としないようにと言い含めはしたが、はてさてそれが一体どれほどの効力を持つのやら、私には分からない。

 と、そんなことを考えながら暗闇を持て余していれば、ふと鼓膜を誰かの足音が掠めていく。人間の五感はそのうちのどれかが制限されるとそれ以外の感覚が敏感になると良く聞くけれど、それはどうやら本当らしい。音のした方へ顔を向けるけれど、もちろんそこに広がるのも変わらぬ真っ暗闇で、そこに誰がいるのかも私には分からない。

「──監督生さん?」

 けれど、その声に。柔らかな風のように私を包みこんだその音に、私は一瞬でそれが誰かを理解する。咄嗟に開いた唇が紡いだ文字列は、確かにそのひとを言い表すものだった。

「ジェイド、先輩?」

 それに応えるように足音がゆっくりと近づいて来る。姿は見えないけれど何となく、今、私の目の前に彼が立っていることが分かった。

「こんなところで何をなさっているんです?」
「ああ、えっと、グリムを待っていて」
「グリムくんを……」

 私の言葉を反芻した彼が、ふと言葉を途切れさせる。落ちた沈黙の中に、私はただ首を傾げるばかり。音がなければ彼がどこにいるのかも分かりはしない。目をうろうろとさせる私の姿に、聡い彼はすぐさま異変に気付いてしまったようだ。

「監督生さん、もしかして目が?」

 言い当てられた言葉に、私の心臓が変に跳ねた。
 別に隠していたわけではないし、隠せるものでもないのだけれど、どうしてか「バレてしまった」という思いが胸に込み上げる。

「一体何があったんです?」

 しかし、やけに真剣な声で彼にそう問いかけられてしまえば口を閉ざせる訳もない。なんだかんだと優しい彼のことだ、きっと私のことを心配してくれているのだろう。その思いが嬉しくないと言えば大きな嘘になってしまう私は、少しの言い辛さを引き摺りながら事情を説明するために口を開く。

「──なるほど、魔法同士の反発で視力が……」
「今のところ治す方法も分からなくて。どうしたものかって感じですね」

 苦く笑いながら、私の隣に腰かけた彼の方へ言葉を投げた。
 優秀なひとが多く存在するこの学園だ。きっと時間はかかってもいつか解決策が見つかるのだろうと確証もなく信じているから、あまり私の中に焦燥感はない。とはいえ目が見えないというのは酷く不便であるため、治ることなら早く治って欲しいものだ。

「御伽噺なら運命の人からの愛のキスとかで治っちゃうんでしょうけどね」

 流石にこれは現実だからと、私はからからと笑ってみせた。まあ、運命の人を見つけたうえでさらに愛のキスをしてもらうというのもなかなかに難しいものだとは思うけれど。御伽噺は好きなのだがどうもリアリストを捨てきれないこの思考回路は、やはり王子様を待つお姫様には向いていない。
 少し恥ずかしいことを言ってしまったため、早く彼にも軽口を返して欲しかったのだけれど、どうしてか再びふたりの間に沈黙が落とされた。流石にこの年になって運命の人やら愛のキスやら言ってしまうのは痛すぎただろうか。じわ、と羞恥心に襲われながら、私は弁明の言葉を内心に探す。
 けれど、それをせき止めるかのように、突然彼の声が私の鼓膜を震わせる。

「──……運命の愛のキス、ですか」

 ぽつりと落とされたその言葉の意味を私が問いかけるよりも早く、自分の間近に何かの気配が揺れる感覚。その瞬間、きっと私は酷く間抜けな表情をしていたことだろう。

 唇に、何か柔らかいものが触れた。
 ほんの少しだけひやりとしたそれは、2秒を数えてゆっくりと離れていく。

 一体何が起きているのかを理解できない私は、ぱちりと瞳を瞬かせて、
 ──刹那、鮮やかな浅瀬の色が私の視界に眩しく輝いた。

 15センチにも満たないほど近い距離に存在するふたつの色合いが、私の心を惹いては奪い去って行く。それが私を射抜く彼の瞳だと気付くまで、そう時間はかからなかった。

「……え、」
「見えていますか? この指の数は?」
「さ、……3本?」
「良かった、ちゃんと見えているようですね」

 にっこりと満足げに、そしてどこか安堵したように微笑む彼の姿を見てようやく、私は自分の視力が戻って来たことを自覚する。何度瞬きを繰り返しても、もうそこに暗闇は広がらない。一体どうして? と頭の中に響いた誰かの声に応えるように蘇ったのは、つい先ほどの不思議な感覚。私の唇に触れた、あの柔らかさ。

 かちり、とスイッチが入ったかのように私の思考回路が一瞬にして全てを理解した。

 同時に込み上げてきたのは、身体を、思考を、全てを焼くような熱。ぶわりと頬へ血流が集まった。きっと今、私の頬は真っ赤に染まっているのだろう。

「……おや、呼ばれていますね。すみません監督生さん、僕はこれで失礼します」

 遠くから聞こえたのは、彼を呼ぶ誰かの声。恐らくきっと、彼の片割れでもあるフロイド先輩のものだろう。
 ふわりと微笑んでベンチから立ち上がった彼は、固まったままの私の姿にくすりと笑ってその手のひらをおもむろに私の方へと伸ばしてくる。黒い手袋を纏ったその指先は、逃げることも出来ない私の頬をするりと撫でて、そして私の横髪を優しく攫っていった。

「魔法は解けましたね」

 ゆるりと耳に横髪をかけられると同時、囁くように、それでも確かに紡がれた彼の声が私の鼓膜を震わせた。その振動がやけに胸を騒がせて、指先がぴりりと痺れるような感覚に襲われる。どくどくと脈打つ心臓の音がやけにうるさかった。

 それでは、と微笑み胸に手を当てた彼は、踵を返して颯爽と去って行く。

 その後ろ姿を無意識に目で追ってしまいながら、私は思考を取り留めもなく走らせた。

 運命の人、愛のキス、解けた魔法。
 そして、彼から与えられたそれは。

「──……嘘じゃん、」

 再び頬に集まっていく熱が、私の思考回路まで溶かしてやろうとでも言うように温度を上げていく。脳みそが沸騰してどろどろになってしまいそうだ。これでは冷静な思考も出来やしない。そんな訳がないと叫ぶ誰かの声も、気付けば掠れて消えてしまっていた。

 ……明日から、一体どんな顔をして彼の前に立てばいいのだろう。

 蕩けた頭では、もう分からない。
 見えるようになった目について、グリムや先生たちに説明する丁度いい言い訳も。

  ***

「お待たせしました、フロイド」
「ん〜ん、……ジェイドぉ、首赤ぇけどどしたの? 風邪ってやつ?」
「ああ、……いえ、何でもありませんよ」

 目の前で怪訝そうな表情を浮かべる自らの片割れに、男は微笑んでみせる。眉を下げたいつもの困り顔に、本当の困惑を混ぜ込みながら。

「──まさか、そんなにも都合のいいことが起きるなんて思わないじゃないですか」

 口元を覆い隠した手のひらの中にこぼされたその呟きは、誰に聞かれることもない。



2020/5/23

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