ハッピーエンドを貴方と(ジェイド/死ネタ微悲恋)
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かすみ草の願いごとのifルート
眠るその人の小さな身体を抱きしめて、海へと歩いた。
「──……いい天気ですね、監督生さん」
答えが返ってこないことを知りながらも言葉を紡いでしまうのは、彼女の表情があんまりにも穏やかで、今にも目を覚ましてくれそうに見えたから。けれどその瞳がもう二度とジェイドの姿を映してくれないという事実を、信じたくはなかったから。
晴れた青空に白い雲が流れる。海鳥が群れを成して飛び立っていく。波の音が鼓膜にさざめいて、肌になじむ潮の香りが鼻先をくすぐった。
吸い込んだ空気は気道を通り、肺へと至り、酸素を身体中に行き渡らせる。それは、何とも穏やかな昼下がりのことだった。
麗らかに平和でどこか退屈そうなこの世界は、今日もただ静かに時計の針を進めていく。数億年前から変わらず、今日も、明日も、その先も。どこか遠くの世界から転がり落ちてきたこの少女のことなど知らないふりをして。時間よどうか止まってくれと願ったジェイドの悲痛な叫びにも、聞こえないふりをして。
ジェイドの歩みの振動に合わせて、力なく少女の足がゆらゆらと揺れる。靴底にまとわりつく砂に歩きづらさを覚えたけれど、それでも足を止めることはない。
今から約1年前、世界の向こうからやって来た彼女。魔法も魔力も存在しない世界に生まれ育った彼女の身体にとって、この世界に満ち満ちている魔力という存在は毒にしかならなかったようだ。
少しずつ少しずつ彼女の身体を蝕み続けていたそれにようやく気づいた時にはもう、全て全てが手遅れだった。衰弱し、やせ細り、起きている時間よりも眠っている時間の方が長くなってしまったその姿は、まるで海の中に放された淡水魚のようで。彼女を救うために、沢山の人が様々に手を尽くした。もちろんジェイドも、ありとあらゆる情報をかき集めた。けれど、その末に見つかった結論はたったひとつ。
彼女を生き長らえさせる方法は、彼女を元の世界に帰すこと。ただそれだけ。
それは非常に理にかなった答えだった。あるべきものをあるべき場所へ。海水では生きられない淡水魚を、塩分濃度の低い淡水の中へ。
けれど、それはすなわちジェイドと彼女の別れを意味していて。そして、その別れは所謂永遠の別れと呼ばれるもので。
ただ彼女の生を、未来を、幸せを願えたならば、どれほど良かっただろう。僕のいない世界だとしても、貴方が生きているのならば、貴方が幸せになるのならば、それでいいと笑えたならば。この腕の中に眠る小さな命を、手放してやることが出来たならば。
それが出来なかった自分がどれだけたられば話をしたところで意味などない。彼女に愛され、そして彼女を愛したジェイドは、彼女のいない世界でひとり生きる未来を選べなかった。自分のいない世界で、自分以外の隣で幸せに笑う彼女の未来を許せなかった。それが答えで、それが全てだった。
だから今日、ジェイドは彼女と共に、この海へと足を運んだのだ。
打ち寄せる波に、爪先がじわりじわりと濡れていく。10月の暮れる波打ち際は、ほんの少し潮風が肌寒くて。ジェイドにとっては過ごしやすい気候だけれど、彼女にはいささか寒すぎるのかもしれない。もう随分と温度を失ってしまった小さな身体をさらに強く抱きしめて、ジェイドは自らの温度を彼女に分け与えようと試みる。それが叶わないことも、もう痛いほどに理解しているのだけれど。
眠る静かな表情を覗き込んで、ジェイドは彼女の名前を呼んだ。
睫毛に縁どられた瞼が反応を示すことはない。そこに存在する微かな鼓動と呼吸の振動だけが、彼女の命をこの世界に引き留めていた。
目覚める周期が3日に一度から1週間に一度となり、そして今、彼女はもう2週間以上目を覚ましていない。誰もが終わりの時を悟っていた。ジェイドもそう。聡く理性的な彼の頭は、ただ無慈悲に、冷静に、心などというものは置き去りにして冷めきった現実の温度だけを感じ取ってしまう。それがこんなにも悲しく苦しいことだったなんて。目覚めない彼女の枕元で、ただただこの現実を呪い続けた。握りしめた手のひらのあまりの小ささに、儚さに、もう握り返してはくれないその冷たい指先に、涙がこぼれ落ちた。
神様なんて信じていないけれど、それでも。彼女の命をこの世界に繋ぎ止めてくれるのならば、神も天使も悪魔も全部全部を信じてやろうと思った。彼女と生きるためのこの命と、彼女に捧げるためのこの心以外の自分の全てを差し出してやろうと思った。
けれど、やはりこの世界に神様なんてものはいなかった。
一歩。足を前へと踏み出した。
ぱしゃりと足元に水が跳ねる。
「先生方がようやく貴方を元の世界へと戻す方法を見つけたそうです」
二歩。彼女の身体を抱きしめたまま。
靴の中に海水がどろりと侵入してくる感覚。
「そして今日。予定ならば今頃、貴方は元の世界へと帰るはずだった」
三歩。秋の空は相変わらず青く遠く澄み渡っていて。
靴下が濡れる不快感も、今は気にならなかった。
「……すみません。貴方の未来を願うことが出来なくて」
四歩。海鳥の鳴き声が遠く聞こえた。
重くなっていくスラックスの裾も気にせず、ただただ前へ。
「僕のいない世界で貴方が倖せになる未来なんて、許せなかった」
五歩。穏やかな風に、水面は優しく凪いでいる。
真実の愛のキスでお姫様が目覚めるなんて都合のいい世界は、ここにはなかった。
「貴方のいない世界で生きていくなんてこと、僕にはもう出来ない」
六歩。大きく吸い込んだ空気がジェイドを苦しめることはない。
消えていく彼女の命と、それでもなお明日を生きようとする自らの命。そのアンバランスに、その理不尽に、どうしようもないほど腹が立った。
「──だから、僕と一緒に眠りましょう」
七歩。膝に達した水位を意識の向こうに感じながら足を止める。
水平線はまだ遥か彼方。
眠る彼女の額に自らの額を寄せて、そうして小さく微笑んだ。
貴方は僕のこの選択に怒るだろうか。嘆き悲しんでしまうだろうか。
呆れながらも仕方ないなと笑ってくれるだろうか。
涙をこぼして、喜んでくれるだろうか。
ひとつぶの雫が彼女の頬を濡らした。ほろほろとこぼれるそれは、他でもないジェイドの瞳から落ちていて。そこでようやく、ジェイドは自らが泣いていることに気がついた。
込み上げてきたおかしさに小さく肩を震わせれば、眠っている彼女の表情が微笑みをかたちどったような錯覚に襲われて。思わず目を見開いて彼女を見つめたけれど、やっぱりあの丸い瞳がジェイドの姿を映して笑ってくれることはない。
ジェイド先輩。
ころころとした鈴のような彼女の声が脳裏に蘇る。
忽然と姿を消したジェイドと彼女に、きっと今頃学園は大騒ぎだろう。
フロイドとアズールにはきっと多大な迷惑をかけてしまっている。僅かな申し訳なさが胸に募るけれど、もう後戻りは出来ない。するつもりもない。
また一歩、前へと足を踏み出した。
もう目覚めない愛しい人をその腕に抱きしめて、人間のままの姿で海の底へと。
貴方のいない世界で生きるぐらいなら。
貴方が僕以外の幸せを見つけてしまうぐらいなら。
僕はこの結末をハッピーエンドと名付けよう。
さようなら世界。僕と彼女を引き剥がそうとした愚かな世界。
愛した人の幸せを願って泡沫と消える人魚姫は、もういない。
──拝啓皆様、先立つ不幸と僕らのハッピーエンドをお許しください。
青空の下、誰の姿も残らない静かな海辺に、海鳥の声だけが響いていた。
2020/6/29
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