君さえ


手遅れなのはどちらだったか(ジェイド)


「好きです、ジェイド先輩!」

 私の喉からその言葉が紡がれるのは、これで累計何度目だろう。

 休み時間の廊下で偶然にもすれ違った彼の姿に、私は殆ど反射的にその言葉を飛ばしていた。私の隣にいたエースもデュースも、もちろんグリムも、もう私のこの奇行には慣れっこであるため驚いたりはしない。むしろまたかと言いたげな呆れた表情で、せめて私が彼の下へと駆けていかないようにと私の腕や肩を抑え付けてきた。それが恋する乙女に対する行動かという抗議は、「恋してるからってひとに迷惑かけていい訳じゃねーんだよ」という正論にもう何度も叩きのめされてしまったため口にはしない。
 はてさて一方私が最早日課と化しているラブコールを飛ばした彼はというと、私の姿を視界に映してにこりといつもの穏やかな微笑み。ああ、今日も本当に顔がいい。たったそれだけでくらりと甘い眩暈さえもを覚えるのだから、やはりこれは正しく恋なのだろう。恋に恋をしているだけでは? と聞かれると少し困ってしまうのも否めないが。

「こんにちは、監督生さん。今日もお元気そうで何よりです」

 私の先の言葉など無かったかのように、彼は酷く静かな声と表情でそう答えてくれる。胸に手を当てて僅かに首を傾げた普段通りに慇懃なその様子は、背後に「めんどくせえ奴に出会ってしまった」という言葉を浮かべているようにも見えて。うん、今日も相変わらず彼は私にどこか塩対応だ。けれどそれにも慣れてしまったどころかいっそ胸をときめかせてしまう重症な私は、彼が私の存在を知覚して挨拶を返してくれたという事実だけで黄色い声を上げてしまう。
 私の両脇どころか周囲からも注がれる「こいつやべえな」の視線なんて、好きなひとを目の前にした私には届かない。

「はあ……貴方も飽きませんね」
「ジェイド先輩のことが好きなので!」
「それはどうも。僕は急ぎますので、失礼します」

 馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉ばかりを紡ぐ私へ適当な社交辞令だけを返して、彼は颯爽と歩み去って行く。その背中を見送り、私はうっとりとした表情で再び言葉を呟くのだ。

「ジェイド先輩、今日もクールでかっこいいなぁ……」

  ***

「てかさぁ、お前ってあの先輩のどこが好きなわけ?」

 それは昼休み、人の多く行き来する食堂でのことだった。
 私の正面で今日の日替わりランチをつついているエースが、他愛のない雑談の中にふとそんな疑問をこぼしたのがきっかけ。そんなことを今更聞かれるとは思っていなかった私は、もちろん驚いて目を丸くした。

「え……語っていいの?」
「あ、これ長くなるやつ。やっぱ良いわ黙って」
「沢山あるんだけどさ、やっぱり一番は──」
「黙れって言ってんじゃん」

 つらつらと彼の魅力を語ろうと走り出した私の言葉に、エースが自らの言葉を被せて押しとどめてくる。聞いてきたのはそちらだというのに、何て勝手な奴だ。む、と顔を顰めた私だけれど、そのぐらいで機嫌を損ねるほど子どもでもないのですぐさま表情を元に戻し、今度は逆に私が彼へ疑問を投げた。
 因みにデュースとグリムは私とエースの会話を傍観する側に回っていて、ただ黙々と昼食を口に詰め込んでいる。グリムの口元がソースでべたべたになっていたから、とりあえずそれだけ紙ナプキンで軽く拭いてやった。もっときれいに食べられないのだろうかとも思うけれど、手がかかる子ほど可愛いのだから仕方ない。

「どうしたの、今更そんなこと聞いて」
「いーや、特に意味はねぇよ。何となく気になっただけ」
「え〜? ほんとに? ……あ、まさか私がジェイド先輩にばっかり好き好きって言ってるから寂しくて嫉妬したとか〜?」
「うわやめろよ気持ち悪いこと言うの」
「恥ずかしがらなくていいんだよエースくん。安心して、私はエースのこともデュースのことも、勿論グリムのことも大好きだからさ!」

 ま、ジェイド先輩のそれとは別ベクトルだけどね! と続くはずだった私の声は、喉元に引っかかったまま音になることもなく消えていく。
 その理由は、──背筋が突然ぞわりと粟立って、頭の中にがんがんと警鐘が鳴り響いたから。頬を冷や汗が伝い落ちていく感覚と同時に、私はようやくその『脅威』が自分の真後ろに存在していることを理解する。ぴたりと意思のように固定された表情と視界の向こうでは、私と向かい合わせに座っていたエースとデュースも驚愕と恐怖をその顔に塗りたくったまま言葉を失っていた。
 どくり、どくり、心臓が不吉に鳴いている。呼吸をすることも憚られて、は、と浅い呼吸だけが断続的に繰り返されるのだけれど、それでは身体に必要十分な酸素を得ることなんて出来ない。その証拠に肺が息苦しさによってぎしぎしと軋んでいた。

「──監督生さん、少々よろしいですか?」

 ぽつりとこぼされた声は酷く静かに凪いでいて、けれどだからこそ、その真意が一切読めないという恐怖感を私にどうしようもなく植え付けてきた。
 その声の持ち主が誰であるかも、もちろん私はすぐさま理解する。なぜならそれは、その音は、私の大好きな響きをしていたから。

 後ろから腕を掴まれて、そうしてそのまま身体ごと引っ張られる。大きな手のひらに握られた右腕の骨がぎしぎしと痛みを訴えたのだけれど、それを主張することも私には出来ない。彼の手を振り払うことも、逃げ出すことも、私にはもう。
 震える身体に鞭打って、私はその手に導かれるまま食堂を後にした。
 無言で私の腕を引いて歩く彼の背中を恐る恐る見つめてみたけれど、やはり分からない。彼が一体何を考えているのかも、どうして私をあの食堂から連れ出したのかも、どうして、そんなにも静かに感情を波立たせているのかも。私には一欠けらだって。

 食堂からしばらく歩いて、ようやく彼が歩みを止めたのは人気のない校舎の片隅。突然の停止に彼の背中に突撃してしまいそうになったのを何とか必死に耐え忍んだ私のことを、誰かどうか褒めて欲しい。なんて現実逃避の言葉を胸中にこぼすのだけれど、もちろんそれで現実が変わるわけもなく。

 おもむろに彼がこちらを振り返って、私はようやく彼の表情を視界に映す。
 そしてその瞬間、私はひぃ、と情けない声を喉元に走らせた。

 私を見下ろす冷徹な黄金と海を混ぜた鈍色のコントラストが、私の視線どころか呼吸までもを奪い取っていく。いつもと同じ静かな表情に、あの穏やかさはほんの少しも宿されていなくて。心臓を射抜かれるような感覚に、私はまた逃げ道を失った。ぴりりと肌を刺す凍てついた空気があんまりにも鋭くて、呼吸がまた一層浅くなってしまう。

「……貴方は、」

 彼の手がこちらへと伸ばされる。黒い革手袋を纏ったその指先は、その表情や空気の剣呑さからは想像もつかないほどに優しい動作で私の頬を撫ぜていく。その温度差がまた私の心臓を軋ませるのだけれど、もちろん私の唇が言葉を紡ぐことは許されないまま。
 私はただ、ただ、彼の視線に射抜かれるまま。

「──貴方が好きなのは、僕でしょう?」

 数秒の沈黙の後にこぼされた彼の言葉は、私にとってあんまりにも唐突で、予想外で、ぱちりと瞳が丸くなる。彼は今、一体何と言ったのだろうか。脳内に散乱したクエスチョンマークを私が必死にかき集めているところへ、彼は畳みかけるように言葉を繋いでいく。

「それなのにどうして、その言葉を僕以外にも使うのですか?」

 頬に添えられた彼の手のひらに視線を固定された私は、私よりも随分高い背丈を持つ彼の表情を不格好に見上げるばかり。視線の先に滲んだ彼のその感情を、一体私はどう解釈すればいいのだろうか。

「貴方のその言葉は、僕だけのものだ」

 まるで世界の真理を口にするかのようなその口調を、まるで子供が母親に縋り付くようなその声色を、その言葉を、私は一体どう受け止めればいいのだろうか。


「──貴方が『好き』という言葉を使っていいのは、僕という存在ただひとつだけですよ」


 私を見下ろすふたつの色が、ぎらりと妖しく輝いた。
 それは嫉妬か、はたまた執着か、独占欲か、愛執か。
 奇妙に歪んだそれを、それでも世界は『愛』と呼ぶのか。
 
 込み上げてきた感情の波が、ぞわりと私の身体を震わせた。
 今この瞬間、私が確かに理解できたことはただひとつ。

 そんな彼という存在を、私はまた一層好きになってしまったということだけだった。
 

2020/5/28

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