君さえ


恋は手の中、愛は腕の中(ジェイド)


(──……背骨が痛い)

 それは、何でもない日の放課後のこと。じりじりと痛みを訴える背骨を手のひらで撫でながら、私は人気の少ない廊下をひとり歩いていた。
 ぽつりと心中にこぼした悪態の向けられた先は、もちろん私をこんな状態にしてしまったひとだ。その名をフロイド・リーチという我が先輩であるのだが、気まぐれさで有名な彼の最近のブームは、どうやら私を見かけるやいなや「小エビちゃ〜ん、ハグしよ[V:9825]」と言って全力で私の身体を抱きしめることらしい。
 つい先ほどもその謎ブームによりゲリラ豪雨のような突然のハグに身体をギュ〜っと締め上げられてきたところであり、もちろん190センチ以上もの身長とそこから生み出される長い腕で力いっぱい抱きしめられることに対応なんてしていない私の身体は、哀れにも満身創痍の状態だ。彼は力加減という言葉を知らないのだろうか。背骨が折れ曲がり内臓が全て潰されるのではないかというほどの痛みと苦しみに三途の川が見えてしまった。そんな私のことを見捨てて行ったグリムたちのことは許さない、絶対に。

 3日分ほどの疲労が一度に押し寄せてきたような感覚に、私はふらりふらりと足を前へ進める。こんな中途半端な時間に廊下を歩いているひとなんてそうそういないだろう、──そんな私の浅慮をあざ笑うかのように、廊下の角を曲がろうとしたその瞬間、私の視界に大きな影がゆらりと揺れた。

 ぶつかる、と思った時にはもう遅く、曲がり角の向こうから歩いてきた誰かと私の身体が衝突し私の身体は後ろへと跳ね返されていた。ぐら、と世界が揺れる感覚にたたらを踏むも、瀕死にも近い状態の私の両足ではその勢いを殺しきれない。これは転んでしまうな、とやけに冷静な頭が現状をあっさりと理解し、襲い来るだろう衝撃と痛みに耐えようと瞳が閉ざされる。

 けれど、私を襲ったのは痛みではなく、身体が何かに引っ張り上げられその勢いのまま頭から何かに飛び込んでしまったかのような感覚だった。驚きに開いた瞳に映るのは、ほとんどゼロ距離に存在する誰かの制服姿。恐らく、今しがたぶつかってしまった誰かに自分は助けられたのだろう。それを瞬時に理解した私は、慌てて身体をその誰かの胸から引き剥がそうとする。
 それと同時に「すみません」の言葉を紡ごうと視線を上へと持ち上げて、

 ──視界を染め上げた浅い海の色に、声の欠片ごと息を呑み下すことになる。

「すみません、監督生さん。大丈夫ですか?」

 その姿は、その色合いは、つい先ほど私のことを締め上げていたフロイド先輩と同じものであるはずなのに、私の視界にはどうしてかその全てが違って見えてしまうのだ。その理由は、彼を瞳に映した瞬間どくんと大きく跳ねあがったこの心臓にある。
 まさか彼とこんなところで顔を合わせることになるとは思っていなかった私は、驚きと羞恥のあまり思考回路どころか身体まで石のように固めてしまう。おかげで中途半端に停止した身体は、彼の胸に手を突いたまま。私の身体を支えるために背中へと回された彼のうでとも相まって、まるで恋人同士が抱きしめ合っているような体勢になってしまっている。
 じわ、じわりと馬鹿になった思考回路をなんとか働かせてその事実をようやく理解できた私は、声にならない奇声を喉元に潰しながら慌てて彼の腕の中から逃げ出した。

「ぁ、あ、えと、だ、大丈夫ですすみません私ぼんやりしてて……!」
「お怪我は?」

 震えた情けない声でさえ今の私には絞り出すことが難しくて、優しい彼のその問いかけに私は首をぶんぶんと左右に振ることでしか答えられない。自分のあまりの情けなさに涙が滲みそうになるけれど、今は無様に泣いている場合でないということぐらいは分かる。
 慌てふためく自らの心臓と感情を必死に抑え付けて、私は再び口を開いた。

「……すみません、支えて下さってありがとうございました。では私はこれで!」

 言うべきことだけを端的に並べて、私はすぐさま踵を返し彼に背中を向ける。なんて可愛げの欠片もない行動だろうかと自分で自分を非難するが、これ以上彼の前にいるとさらなる醜態を晒してしまいそうで怖かったのだ。

 好きなひとにだけは、自分の変な姿を見せたくはない。

 今更ではある気もするが、無条件にそう思ってしまうのも、そう願ってしまうのも、別に可笑しなことではないだろう。つまりはそういうことなのだ。
 廊下を走ると先生に見つかってしまった時が面倒なので、精一杯の競歩で私はその場から逃げていく。短い脚を大きく広げて、前へ、前へと。羞恥心と高鳴る心臓と、彼へのどうしようもない恋心を振り払うように。まあ、恋心だけはどうしたって手放せないものなのだけれど。

 そうして私が5歩目を床に落としたとほぼ同時。

 腕が誰かの手に掴まれ、ぐいと強い力で身体が後ろへと攫われていく。
 それはフロイド先輩にされるものと随分似ていたけれど、フロイド先輩のそれとは違って私に一切痛みを与えない。そんな些細な相違点が、私にはどうしようもないほどに大きくて。
 抵抗も忘れた私の身体は、まるで水に流される木の葉のようにその腕にかどわかされてしまう。くるりと向きを180度回転させられた視界は、刹那、つい先ほど見たものと同じ光景に覆い隠された。ネクタイと、ブレザーと、ネクタイ。ほとんどゼロ距離にあるそれらの姿は、近すぎるせいで少しぼやけて見える。

 背中と後頭部に回された腕が、大きな手のひらが、私の退路を完全に閉ざしていた。
 布に触れた私の額と、その向こうに感じる規則的な心音。そして、私の身体を包み込む優しい体温。鼻先をくすぐるのは、[V:8212][V:8212]深い海を連想させる、彼の、香り。

 瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が私を襲った。
 ぴしりと再び石になった私の身体を抱きしめたまま、彼は、ジェイド先輩は、私の耳元近くでくすくすと笑い声をあげている。状況が状況のせいでその声が生み出す振動さえもが私の鼓膜に直接伝わって。あんまりにも刺激的すぎるその震えに、聴神経が今にも馬鹿になってしまいそうだった。

「なるほど。フロイドが貴方をことあるごとに抱きしめたがる理由が分かりました。これは随分と心地が良くて……僕まで病みつきになってしまいそうだ」

 どくんどくんと煩い私の心音は、きっともう既に彼にも伝わってしまっているのだろう。ぶわりとまた体温が上がる感覚に、もうじき自分の血潮も脳みそも全てが沸騰しきってしまうのではないかとさえ思えてしまう。
 すり、と私の頭に彼の頬が寄せられる。それにもまた身体が大袈裟なぐらいに跳ねてしまって、本当にもうどうしようもない。そんな私の反応が面白いのか、彼の笑い声がまたころころと世界に落とされた。

「──これで貴方からも抱きしめて頂ければ、さらに満たされることが出来るような気がするのですが……どうでしょうか、監督生さん?」

 私を包み込む腕がゆるりと解かれて、俯かせた私の顔を彼が覗き込もうとしているのが何となく分かる。彼との間に空間は生まれたけれど、私の背中には未だ彼の手のひらが添えられていて、私を逃がす気が彼にはまだ無いのだということをひしひしと思い知らされた。
 きっと真っ赤に染まって今までにない程情けない有様になっているのだろう自分の顔を、彼には見られたくなくて、私は必死に手のひらで顔を覆い隠す。まあ、そんな籠城など彼の前では殆ど意味なんて成さないのだけれど。

「監督生さん、どうして僕を見てくださらないのですか? ……ああ、そういえば、貴方はどうしてかいつも僕のことを避けていますよね。つい先ほども、僕から逃げるようにすぐさま背中を向けて。僕は、……何か貴方の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか?」

 悲しげな声色がきっと作られたものであることぐらいすぐさま予想はつくのに、どうしようもないほど彼に溶かされてしまった哀れな私の思考回路は、彼の言葉をただ素直に受け止めて首を左右に振ってしまう。悪いのは彼ではなく、この感情の手綱を握れない私の方。それは確かな事実だったから。
 私の反応に、彼からこぼされたのは安堵を孕ませた声。

「それは良かった……! それならば、どうかそう顔を隠さず僕に見せてください」

 きっとその言葉に従わない限り、私が彼の腕から自由になることは叶わない。そんな確信があった。その証拠に、顔を覆い隠す私の手の甲に触れたのは柔らかな何か。
 ちゅ、というリップ音がわざとらしいほどに聞こえた。閉ざされた扉をノックするかのように、何度も、何度も彼の唇が私の手に落とされる。

 ──ああ、もう限界だ。

 手のひらを恐る恐る、ゆっくりと顔から引き剥がしていく。緩んだ指と指との間にできた隙間から、光と一緒に私の網膜を焼く色彩。それはゆるりと弧を描いた彼の瞳をかたちどるそれに他ならなくて。私を優しく、愉快そうに、愛おしげに見つめるそのふたつのコントラストがまた私の全てを奪い去っていくのだ。

「──……ようやく、僕を見てくれましたね」

 最初から貴方だけしか見ていませんよ。
 そんな悪態の言葉を吐くことすら、私には許されない。
 彼から逃げることも、もう。

「さあ、監督生さん。何か僕に伝えなければいけない言葉はありませんか?」

 きっと最初から。彼に恋したあの日から、私には逃げ道なんて用意されていなかった。
 そんなことを、彼の腕の中で彼の色彩に焼かれながら、私はようやく理解するのだ。



2020/6/1

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