君さえ


そんなに怖がらないで(ジェイド)


 ジェイド・リーチには悩みがある。
 つい最近──というほど最近でもない、生後一カ月にも近いそれは、思考回路を埋めて生活に影響を及ぼすほどのものではなかったが、それでも確かにジェイドの心に蟠っていた。

「……じぇ、ジェイド先輩……?」

 その悩みの元凶といのが、今ジェイドの目の前にいるこの人間。つい数カ月前に突然別の世界からやってきたオンボロ寮の監督生であるひとりの少女なのである。
 恐らく150センチに達するか達しないかというほどに小さな彼女の背丈は、人間の形では190センチという高さを持つジェイドにしてみれば、まるでミニチュアか何かといった様子で。ジェイドが少し力を込めて絞めれば一瞬で壊れ、突つけば哀れに転んでしまいそうなほどに細くか弱いその四肢は、いつもジェイドの庇護欲とほんの少しの嗜虐心を煽っていく。まあ、当のジェイドはそんな内心をおくびにも出さずいつものように穏やかに微笑んで見せるのだが。

 はてさて、そんな彼女の一体何がジェイドの悩みの種となりえたのか。

 廊下でふと出会った彼女に声をかけたジェイドと、そんなジェイドに振り返った彼女。身体は向かい合っているのだけれど、視線は決して交わらない。何故なら彼女はジェイドが声をかけたその瞬間からずっと、その顔を床へと俯けてしまっているから。背の低い彼女が俯いてしまえば、ジェイドから見えるのは彼女の旋毛と、マナーモードになったスマートフォンのようにぶるぶると震える細い肩だけ。そんな彼女の様子に、ジェイドは顎へ右手をやり心中に言葉を転がした。相変わらずか、と。

 端的に言えば、この少女、どうやらジェイド──とついでにフロイド──のことを少し異常なほどに恐れているようなのだ。いや、まあ、事実ジェイドはこの少女にトラウマを植え付けてもおかしくないようなことをしてきているため、怯えられるのも睨まれるのも避けられるのも当たり前と言えば当たり前なのだが。
 それにしては、その怯え方に違和感があるし、怯えや恐怖が続く時間が長すぎる。とジェイドは思うのだ。

 出会いこそ様々に面倒だったが、彼女との親交も続く今日この頃、ジェイドにとってこの少女という存在は興味と友好の対象となっていた。身内や友人などとは呼べなくても、それなりに良い感情を抱いている相手。そんな人にこれほどまでに怯えられ、視線を合わせることも言葉を交わすことも出来ないというのは、些か面白くない。

 出会いやあのイソギンチャク騒動云々によりジェイドが彼女に植え付けてしまったトラウマや恐怖感情についてはともかく、もしもそれ以外に彼女がジェイドを恐れる要因が存在するならば、それを早急に取り除き彼女からもっと普通に名前を呼んでもらいたい。そう願ったジェイドは、ついにその理由について彼女に問いただすことにした。

「……監督生さんは、背が高い男性が苦手なのでしょうか」

 それは、ジェイドが彼女を観察することで導き出したひとつの仮説だった。
 様子を見るに、彼女が恐怖を抱かずに接することが出来る身長の上限は180センチといったところだろうか。彼女のクラスメイトかつ友人であるあのハーツラビュル生たちにはこれといって恐怖を抱いている様子はなかった。しかし、同じくハーツラビュルの3年生であるトレイや、サバナクロー生であるジャックに対しては、顔を合わせた時にほんの少し身体が強張るなどの反応を見せていたのだ。まあ彼らに対しては、慣れや親交のおかげかジェイドに対するほどの怯えはないようだったけれど。

 端的な問いかけに、彼女の方がふるりと一際大きく揺れる。そうして恐る恐るといった様子で持ち上げられていく彼女の頭。重力に従い落ちた前髪の向こうから、丸く見開かれた彼女の瞳がジェイドを見つめていた。
 この様子を見るに、どうやらジェイドの仮説は正しいものであったようだ。

「す、すみませ、」
「ああ、謝らないで。別に気を悪くしたわけではありませんし、自分よりも大きな存在に恐怖を抱くのは動物として当たり前のことですからね」

 真っ青になった表情で唇を震わせる彼女に、ジェイドはすぐさまサポートの声を返した。どうやらこれは彼女にとってそれなりに根深い問題らしい。一体その原因にどんな出来事があったのかは、……今は言及しないでおこう。
 かたかたと可哀想なほどに身体を震わせている彼女へジェイドは眉を下げて笑みを浮かべ、視線を彼女に合わせようと身体を屈めてみせた。ジェイドの行動にほんの少し跳ね上がった彼女であったが、踵を返してジェイドから逃げ出すことはない。

「素直に教えて頂きたいのですが、こうして視線の高さを合わせればいくらか怖さは和らぎますか?」
「え、……あ、えっと、その、マシでは、ありますけど、……正直、まだ怖いです」

 なるほど。恐怖の本質は視線の高さではなくそもそもの身体の大きさにあるようだ。
 身体を戻したジェイドは再び考え込む。彼女に怖がられることなく接することができ、かつ、出来ることならばジェイドという存在に出来るだけ早く慣れてもらうための方法とは。

 ぴん、と電球に電流が流れ、光が灯されたような感覚。
 なるほど、この方法ならば。

 自らの頭に浮かんだ名案に、ジェイドはにこりと笑みを深めた。そんなジェイドの様子を静かに眺めていた少女はといえば、そんな彼へ不思議そうな視線を向けるばかり。彼の思考回路など、彼女には一切理解できない。

「分かりました。それでは、また明日お会いしましょう。監督生さん」

 胸に手を当て会釈をしたジェイドは、音符マークやハートマークが付きそうなほどに楽しそうな声色でそう言い残し、踵を返して歩き去って行く。廊下にぽつんと残されその背中を見送る監督生は大きく首を傾げて、──そうしてその翌日、彼の笑みの意味を理解するのだ。


「おはようございます、監督生さん」
 
 翌日、朝。まだ眠っているグリムを抱いて登校した監督生に、そんな声がかけられた。
 声変わりをまだ迎えていないような、いくらか幼い少年の声。それは監督生の知らない音だったけれど、それでも、その口調には酷く聞き覚えがあった。
 視線を揺らして、その声の主を瞳に映す。驚きに呼吸が止まるのを、意識の外に感じた。

「ジェイド、先輩……!?」
「はい。ジェイドです」

 浅瀬に浮かぶ髪色に、ひと房の深海。そして左右で異なる宝石を嵌め込んだその瞳は、確かに監督生もよく知る彼のものだった。
 けれど、その身体は。監督生が恐怖を覚えるほどに高かったその背丈は、今、何故か監督生とほとんど変わらないものに変わっていて。首の角度を変えずとも交わる彼との視線に、また困惑がいっそう深まった。頭に湧き上がるクエスチョンマークが後を絶たない。
 目を白黒させる監督生に、小さくなった彼はにこりと笑ってみせる。腹の読めないその完璧な笑みも、やはり確かに彼のもの。彼が正しく『ジェイド・リーチ』であることは、疑いようもない事実だった。

「これならば、貴方も怖くないのではないかと思いまして。……ああ、ご安心を。ちゃんと数日ごとに背は伸びて最後に元に戻りますので。制服には伸縮魔法をかけました」

 けろりとそう言い退けてみせる彼は、監督生が身体を震わせることも無く自分と視線を合わせてくれている現状に満足気だ。その点で彼の作戦は大成功。花丸満点が与えられている。

「ど、……どうしてそこまで……?」

 その疑問は至極当然のものだった。何故なら監督生は魔法も使えないただの少女であって、少なくとも今彼に何か特別な利益を与えられる存在ではない。と、少なくとも監督生はそう考えていたから。
 怪訝そうな監督生の表情にぱちりと瞬きを落として、ジェイドはその唇に弧を描く。
 背丈に合わせて幼くなったその表情が、それでも何故か酷く妖艶で。蠱惑的で。そのアンバランスさに、監督生の心臓が儚く軋んだ。

「──さあ、どうしてでしょう?」


  ***


「うっわ、ジェイドまじでちっさくなってる」
「ああ、フロイド。御覧の通りなんとか上手くいきまして。安心しました」
「まじで小エビちゃんとおんなじぐらいじゃん、おもしれ〜〜〜人間の稚魚って感じ」
「これで監督生に怯えられることも無くなればいいのですが」
「……小エビちゃんと普通に話したいからって身体の大きさまで変えるとかさぁ、ジェイドってまじで小エビちゃんのこと好きだよねぇ」
「……好き、ですか?」
「え、自覚なしで魔法薬飲んで身体縮めたの? ジェイドってそーゆーとこあるよねー」
「……」
「普通さぁ、どーでもいい奴相手にそこまでしねぇから。オレでも分かるし。てかさ、ジェイドが相手に怖がられたり嫌われたりってのを気にしてる時点でもうそういうことじゃん」
「……確かにそう、ですね」

 黄金と深いオリーブを宿した双眸が、きらりと怪しげに瞬いた。

「──『好き』……なるほど」

 まるで月が欠けていくように、瞳がゆるりと弧を描く。

「……あはっ、ジェイド、わっるい顔!」


2020/6/2

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