君さえ


人魚姫になった貴方へ(ジェイド/悲恋)


 ひとについての記憶は、『声』から忘れられていくと言う。それは相手が自分にとってどうでもいい存在だろうと、自分にとってかけがえのない存在だろうと関係なく、ただ正確に、無慈悲に、自らの名前を呼ぶ『声』から順番にあの人のかたちは記憶の中から消えていく。

 あの人が元の世界へ帰ってしまってから、もう五年の月日が流れていた。

 とうに学園生活も終え、片割れと幼馴染と共に海に帰った人魚はひとり、夜の海に漂いながらもう随分と色あせたあの人の記憶を指先でなぞる。
 そういえば、記憶は思い出すことで壊れていくのだとも聞いた気がする。
 きれいなままで、本当にそのままのかたちで記憶を残したいのなら、思い出さないことが一番なのだと。
 けれど、そんなことは不可能だ。
 確かに存在したあの温かく幸せに満ちた日々を、人魚は、男は、ジェイドは、目蓋の裏に思い浮かべる。まだ自分の中には確かに残されていた。あの人の瞳の色が、色が、笑顔が、揺れる髪先が。

 ──ああ、けれど。

 声だけが。
 自分の名前を呼ぶあの人の声だけは、どうしてか思い出せない。花が咲くように笑ったあの人の唇は、確かに自分の音を紡いでいるのに。そこからこぼれるはずの声は、音は、もうジェイドの中から儚い泡沫のように弾けて消えてしまっていた。

「……貴方、人魚姫なんて柄じゃないでしょうに」

 こぽり。よるの闇に染まった海水が揺れた。
 涙はこぼれない。こぼすことはできない。

 魚に涙は必要ないのだから。


2020/6/2

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