君さえ


あなたとともに生きるため(ジェイド)


 耳触りのいいその声が好きだと思った。
 きっと海を音にしてひとの声に当てはめたとしたら、それは彼の声と同じ音色を奏でるのだろう。海底の音なんて知りもしないのに、どうしてかそう思えた。
 彼の声が好き。その想いが、その『好き』が、彼という存在全てに及ぶまで、そう時間はかからない。

 私は、彼のことが好きだった。

 ナイトレイブンカレッジの卒業式。卒業するのは、私と相棒のグリム、そしてかけがえのない友人であるエースやデュースたちが所属するひと学年。7月の空は青く遠く澄んでいて、照り付ける日差しはこれからピークを迎える夏の暑さがどれだけ深いのかを私たちに知らしめる。
 クラスメイトたちとはしゃぎまわっているグリムたちの姿を木陰から眺めながら、私はこの4年間に思いを馳せる。
 世界までもを越えてやって来た、このツイステッドワンダーランド。結局私が元の世界に帰る方法は見つからず、私はこの世界で生きていくことを決めた。悲しさも寂しさも勿論あるけれど、それでも私は前を向いて生きていくのだ。
 ふと脳裏に浮かんだのは、昨年ひと足先に卒業し故郷の海へと帰ってしまったあのひとの姿。浅瀬の海にひと房の深海を携えた髪と、月のような金色に、海を混ぜた黄灰の瞳。私の名前を呼ぶ彼の声が、今も鼓膜に焼きついて離れない。

 1年もの時間が経ったというのに、私はまだ彼のことが忘れられずにいる。

 海に生きる彼と、陸でしか生きられない私。そんなふたりが共に未来を歩むなど、どれほどの困難が待ち受けていることか。彼となら不幸になっても構わないとすら思える私であるが、その不幸を彼にまで背負わせたいとは思えなかった。

 だから私は1年前、彼に「さようなら」と笑ってみせたのだ。

 さらさらと柔らかな風が世界を撫でていく。
 背後から突然誰かに肩を叩かれ、私はほとんど反射的に後ろを振り返った。そうして次の瞬間、驚きに見開いた瞳をさらに大きく広げて世界の全てを視界の中に映し込むことになる。

 ──私の大好きな色彩が、そこにはあった。

 つい先ほどまで頭の中に思い描いていたそれが、今、確かに現実のものとして私の網膜を焼いている。引きつった喉を乾いた空気が這って行く情けない音がした。

「……ジェイド、先輩、」

 彼の名前を紡いだ私に彼はにこりと笑みを浮かべる。私のよく知る、完璧だけれどどこか腹の読めないそんな微笑み。けれどもそれが酷く愛おしくて、思わず視界がじわりと滲んだ。
 地面を踏みしめる彼の両足は確かに人間のそれで、姿かたちの全ては陸に住むためのそれで。貴方は海へ帰ったのではなかったかと私は問いかけようとする。
 けれど。けれど、刹那はたりと気がついた。
 私を優しく見下ろす彼の瞳。時折吹く淡い風にはらはらと揺れるその毛先。高い背丈。伸びた背筋。全部、全部、私の大好きな彼のもの。――けれど、

「……先輩、もしかして、声が……?」

 そこにはたったひとつだけ足りなかった。
 私のいっとう大好きな、海を唄う彼の声。
 私の名前をいつも優しくよんでくれた彼の声が、ここには。

 ……ああ、そうか。全て全てを理解して、私は彼に問いかける。

「──私と、生きてくれるんですか?」

 黙ってうなずいた彼のその瞳があんまりにも優しくて、涙がこぼれ落ちた。


(願いは永遠に人間として生きること。そしてその代償は、)


2020/6/4

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