君さえ


さあ、どちらでしょう。(ジェイド)


「──っ危ない!!」

 事件は、錬金術の授業が今日も無事に終わろうとしていた昼前の曖昧な時間。難しい調合も終わって後は提出するだけとなり、ほとんど全ての生徒から緊張感が抜け始めたそんな折に巻き起こされた。

 突然自分へ向けられた鋭いその声に監督生が足を止めた刹那、身体が勢いよく誰かに抱き締められる。後頭部に回された手のひらが監督生の頭を強く胸に抱き込み、そしてもう片方の腕で腰回りをしっかりと固定される。力強くも優しいそれは、まるで何かから大切なものを護ろうとするかのようで。
 けれど、あんまりに唐突な世界の変化に思考回路が追い付かない監督生は、訳も分からずただ瞼を固く閉ざすことしか出来ない。ぎゅう、と唇までもを噛みしめた監督生の鼓膜を次の瞬間叩いたのは、何か液体らしきものがばしゃりと派手な音を立てて降り注ぎ、そうしてガラス瓶が床に叩きつけられ粉々に砕けた音。派手なその破砕音にびくりと肩を揺らして、1秒、2秒。監督生はようやく、頭上から落ちてきた何かの瓶から誰かが自分を守ってくれたのだと理解した。

 慌てて身体を身じろがせその誰かの腕から抜け出し、世界で何が起きたのかを確認する。実験着の白が遠のいてはっきりとした輪郭を持ち、その向こうの床には割れたガラス瓶の哀れな姿が転がっていた。床に飛び散った液体はガラス瓶の大きさに反して非常に少ないものだったけれど、その減少分がどこへいってしまったのかもすぐに分かる。

 目の前の実験着を辿るように、視線を上へと持ち上げた。

 高い背丈に首が大きく傾いて、やがては幼い子供ならばそのままひっくり返ってしまってもおかしくない程の角度までに達してしまう。そうしてようやく交わった視線の先で、左右に異なる色を宿した双眸がきらりと影に輝いた。海を宿し海よりも深く輝く彼の短髪は、今となっては何か得体のしれない液体を被って水滴を滴らせている。彼の髪の毛は本当に海だったのか、とか、水も滴るいい男だ、とか、そんな悠長なことを考えている余裕が自分に在ればどれほど良かったか。

 ひ、と喉元を悲鳴にもなりきらない情けない音が抜けていく。

 今監督生の目の前にいるのは、今日、同じ時間に同じ教室で錬金術の授業を受けていた2年生、ジェイド・リーチ先輩。オクタヴィネル寮の副寮長でもあり、──監督生が、この学園で一番に苦手としている相手だった。
 その理由の詳細については割愛するが、ひとことで表せばこの先輩、どうやら監督生の姿を視界に映す度に顔を嫌悪に歪めるほどには監督生のことが嫌いらしいのだ。他の人へ向けるあの優しい笑みや物腰穏やかさはどこに売り飛ばしてしまったのかというほど、彼が監督生へと向ける視線は冷たく、言葉は棘まみれの厳しいもの。そんなにも彼に嫌われてしまう程のことをしてしまった覚えは監督生には無いのだが、きっと無意識のうちに何かとんでもないことをやらかしてしまったのだろう。もしくは、最早生理的なものなのかもしれない。そうなってしまえば監督生に打つ手などないため、もう諦めることしか出来ない。
 自分のことを嫌う人を苦手になってしまう心理も、特段おかしなものではないだろう。

 閑話休題。現在の問題は、大きく分けてふたつ。ひとつは、自分をどうしてか庇ってくれた彼が頭から何らかの魔法薬を被ってしまったこと。さらに言えばその魔法薬が一体どんな効果を持つものなのかが監督生には分からない。もうひとつは、それが自分を嫌い、さらには自分もまた苦手としているジェイド・リーチそのひとであり、そのひとが今もまだ監督生の身体に腕を回したままの近距離に存在していることだ。

 こんなにも近距離で彼の姿を視界に映すのは初めての経験で、恐怖と同時に気恥ずかしさや居たたまれなさまで内心に込み上げてきてしまう。
 整った容姿と魅惑的なその瞳から真っ直ぐに注視を浴びてしまい、じわりと頬に熱が集まった。とはいえただ照れているわけにもいかない。ここまで何ひとつとして反応を返してくれない彼に不安を覚え、監督生は恐る恐る彼の名前を呼ぶ。視界の向こうから、担当であったクルーウェル先生が怒りを露わにこちらへ向かってくる姿が見えた。

「ジェイド先輩、……っ!?」

 その文字列を紡いだ瞬間、再び身体が何かによって自由を奪われる。
 視界の間近に揺れた浅瀬の色に、自分が彼に再び抱きしめられたのだと理解するまでそう時間はかからない。今度は脳みそが沸騰してしまいそうなほどの熱が一瞬にして頭部へと集まってしまった。先程までの切迫感が薄らいでしまった分、彼の温度や実験着が擦れる感触、耳元を時折掠める彼の吐息の感覚が異常なほど鮮明に感じられて。そのどうしようもなさに、監督生は声にもならない悲鳴をあげることしか出来ない。

 彼の肩越しに、クルーウェル先生が床に割れたガラス瓶を確認し、そうしてこちらへ視線を向けるのが見えた。それを落とした生徒への怒りと呆れ、そして監督生とジェイドへの憐みをその瞳に浮かべて、彼はこんな言葉を紡ぎあげる。

「──惚れ薬、だな」


  ***


「監督生さん、昼食に食べたいものはありますか? 僕が取ってきますので、貴方はどうぞ席に座ってお待ちください。……すぐに戻ってきますので、どうか寂しがらないで」
「は、はい……ワカリマシタ……」

 腰を引きながらほとんど片言で答えた監督生の姿ににこりと微笑んで、彼、ジェイドは食堂の雑踏の中へと歩み去って行った。その背中が人の中に完全に紛れてようやく、監督生は我慢に我慢を重ねていた大きなため息を吐き出すことができた。
 地を這うようなその大きな息継ぎに、向かい側の席に座っていたエースたちからの憐みが与えらえる。同情するぐらいなら代わってくれと思うが、それはそれで地獄絵図が巻き起こされる予感しかしないため監督生はそっと口を閉ざした。

「お疲れ監督生……それにしてもすっげえな、先生特性の惚れ薬の効果は」
「一応効果は数日で切れるんだろう? それまでの我慢だ、頑張れ」
「まあアイツ、ただ世話焼きしてるだけだからな〜好きに利用してやればいいと思うんだゾ」
「それ、後からめんどくさくなるやつだから絶対……」

 願いには代償を。借りたものは返し、貸したものは取り立てる。それが彼らオクタヴィネルのモットーだ。そんな彼らに、たとえその原因は不慮の事故と魔法薬のせいだといっても借りなど作りたくはない。
 思い頭をテーブルに落として、監督生はまた大きくため息を吐く。本当に、どうしてこうなってしまったのだろうか。
 デュースが言ったようにあの魔法薬は基本数日で効果が切れるものらしいのだが、今回彼はそれを瓶ごと頭から被ってしまったため服薬した量が分からず、クルーウェル先生でもその効果時間の詳細を計ることが出来なかった。早ければ今日1日、長けとも1週間ほどが目安だろうと先生は言っていたが、はてさて一体どうなることやら。クルーウェル印の魔法薬という点をどの方向で信頼するかによって頭痛の程度もまた変わるのだが、はてさて。

「──監督生さん、どうされました? 体調が優れないのですか?」

 テーブルに顔を伏せたまま唸っていれば、突然頭上から降り注いできた彼の声。それに慌てて顔を上げれば、そこには食事の乗ったお盆を両手に持ち、心配そうな表情を浮かべた彼の姿があった。

「あ、いえ、大丈夫です! なんでもありませんので……!!」
「本当ですか? 気分が優れなければ直ぐに言ってくださいね。……貴方に何かあったらと思うと不安で胸が張り裂けそうだ」

 昼食のトレーを机に置いた彼の手のひらが流れる様にこちらへと伸ばされ、優しく頬を撫でていく。それを避ける余裕なんて勿論ない監督生は、めでたくもない本日何度目かの思考停止を経験するのだ。
 ふわりと酷く愛おしそうに瞳を細める彼の表情に、どくんと心臓が変な悲鳴を上げる。じわりと込み上げてきたその感情を必死に飲み下して、監督生は彼が持ってきてくれた昼食へと視線を無理矢理向かわせる。これ以上彼を見つめていれば、自分が自分ではなくなってしまうような気がしたのだ。
 手を合わせて、半ば叫ぶように「いただきます」と口にする。そんな私の様子を彼が隣から微笑ましそうに眺めていることにも、何とか気づかないふりをして。


  ***


 放課後。やはりというか何と言うか、放課後を知らせるベルが鳴った数分後には監督生のクラスでにこりと笑みを浮かべた彼の姿が観測されてしまった。
 それに口端をひきつらせた監督生だが、勿論そんな彼のことを無視するわけにもいかない。
 グリムには先にオンボロ寮へ帰るよう伝えて、恐る恐る監督生は彼の下へと歩み寄った。相変わらず惚れ薬の効果は抜群であるようだ。監督生と視線が交わったその瞬間、彼の瞳が今までならばあり得ないほどに甘く蕩けてしまうのだから。
 それにまた騒ぐ胸を押し殺し、監督生は彼と一緒に廊下を歩き始める。
 背の低い監督生の歩幅と背の高い彼の歩幅は、きっと普通ならば2倍に近いほどの差を生み出してしまうのだろう。けれど今、そんな歩幅差を感じずに監督生がいられるのは、きっと彼が監督生にその歩幅を合わせて歩いてくれているから。そんな些細な優しさになど、気付かなければよかった。浅く止まってしまった呼吸を持て余しながら、監督生はそんな言葉を心中に独り言ちる。

 それと同時に言い聞かせるのだ。自らへ、何度も。

 今彼が自分へ注ぐその視線の甘さも、言葉の優しさも、声の柔らかさも、合わせられた歩幅も、自らに触れる指先に宿った切なさも。全部、全部。
 彼から与えられる愛情恋情の全ては、魔法薬によって生み出された『まがい物』でしかないのだと。
 だから、そう。それらの全てに軋む胸も、弾む心臓も、熱を帯びる頬も、きっと全てが『まがい物』で、間違いで、偽りで。

「──……名前さん、僕は貴方のことが好きです」

 だから、だから、
 名前を呼ばれただけでこんなにも喜んでしまったことも、彼のその言葉も、彼が抱いている感情も、私が抱いてしまった感情も、全部。一週間後には儚く消えてしまう泡沫でしかないのだ。それに意味を見出しては、追い縋ってしまってはいけないのだ。

 こぼれそうになった涙を必死に堪えて、飲み込んで、私は笑ってみせる。
「ありがとうございます」と、情けないそんな言葉だけを紡ぐために。


  ***


「──っオイ、どうしたんだゾ? あのウツボ野郎になんかされたのか!?」
「……大丈夫。大丈夫だよ、グリム。ごめんね、心配させて」

 相棒の声にも応えられぬまま、少女は膝を抱えて床に蹲る。オンボロ寮の窓から差し込む橙色の陽光があんまりにも眩しくて美しくて、いっそ憎たらしいとすら思えた。

「──……気づきたく、なかったなぁ」


  ***


「あ〜ジェイドじゃんおかえり〜〜〜」
「ただいま戻りました」
「オレは遠目にしか見てないけどぉ、今日さ、めっちゃ面白そうなことしてたじゃん。何、よーやく素直になることにしたわけぇ?」
「……まあ、そんなところです」
「煮え切らねぇ言い方! ジェイド、小エビちゃんのことすっげー好きなくせにいっつもいじめちゃってるもんねぇ。そんで怯えられてぇ、落ち込んでって悪循環。見てて正直めっちゃ面白かったよ」
「耳が痛いですね……実は今日、錬金術の授業中に色々ありまして」
「あ、オレ分かった。惚れ薬浴びちゃったからそれを利用して小エビちゃんに素直になろーって作戦でしょ。どう? 合ってる?」
「貴方、本当に嫌になるぐらい頭の回転が速いですよね。ご明察ですよ」
「やり〜! オレ天才じゃね? 惚れ薬なんて、元から惚れてたら意味ないもんねぇ」
「ええ、全くです。……まあ、中々にいい反応を見せて頂けたので僕としては僥倖、といったところでしょうか。魔法薬が切れるとされている一週間後までは存分に楽しませてもらおうと思います」
「……惚れ薬なんて名目なくてもちゃんと素直に話せるようになりなよぉ?」
「……分かっていますよ、それぐらい」


2020/6/6

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