君さえ


拝啓皆様、ハッピーエンドをお許しください。(ジェイド/↑の続き)


 ……海に沈もうとする私の腕を、誰かの手が掴んだ。
 身体が引かれて、ぐるりと視界が回る。
 驚きに止まった呼吸が戻ったその瞬間、視界を染めた色彩にまた喉が詰まる。

「──まったく、こんなところで何をしているんですか」

 鼓膜を打った声も、私を抱きしめる腕も、その姿も、全てが全て、私の知る彼そのもので。呼吸も忘れた喉では、胸に溢れ出す言葉を音にすることすら叶わない。
 はくはくと唇だけを開閉させる私の間抜けな顔を見て、彼が笑った。

「まあ、お陰でこうやって世界を越えて貴女を迎えに来ることが出来た訳ですが」

 ゆらゆらと波のように揺れる彼の輪郭は、彼がこの世界の存在になった訳ではないと私に知らしめる。きっと、正常な思考回路をしているならば、この状況をまず一番に「これは夢だ」と考えるはずだった。けれど、そんなものが私に残されている訳もない。

「……目が赤いですね。それに海。どうやら随分と僕のことを恋しく思っていてくれたようで」
「──……ジェイド、先輩……っ!」

 意地悪い彼の言葉に普段のような反発も出来ぬまま、私はようやく声を紡ぐ。彼の名前を音にしたその瞬間、まるで全てがあふれるように涙がぽろぽろとこぼれていった。
 そんな私の姿に目を丸くした彼は、それでも次の瞬間にはどこか困ったような微笑みを浮かべてくれていて。優しく頭を撫でてくれる彼の指先に、どうしようもなく胸が締め付けられた。

「……はい。ちゃんとここにいますよ」

 彼の背中に手を伸ばして、必死に彼の存在を確かめる。魔法の所為かそこに温度はなかったけれど、それでも指先にかたちが触れるという事実だけで十分だった。

「さて、珍しく素直な貴女を眺めているのも楽しいですが、時間がありません。──一応、お尋ねしておきますね。このまま僕と一緒に、僕らの世界に戻りますか?」

 選択肢など、たったひとつしかありはしなかった。
 生まれ育った世界に、家族に、友人に、未練がないわけではない。
 ただそれら全てを手放してでも傍にいたいと思える存在が、彼だったというだけだ。

「私を、連れて行ってください」

 あなたのいない世界に、意味などない。
 力強くそう答えた私に、彼はにこりと深い笑みを浮かべた。

「貴女なら、そう言ってくださると思っていましたよ」

 まあ最初から、貴女に選択権なんてありませんでしたが。
 そんな彼の言葉に私も笑う。それでこそ私の愛した彼というひとだ。

 空に雲が流れる。波が揺れる。
 その日、その世界からひとつの存在が掻き消えた。


2020/3/29

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