君さえ


月明かりに想うのは(ジェイド)


「──わ、きれいな月」

 窓の向こう、夜に染まった空の中に浮かんだ丸い月を見上げ、少女は感嘆混じりの声を誰もいない廊下の中に転がした。

 それは、6月の2週目が始まろうかという初夏の折。図書館からオンボロ寮への道半ば、時刻はもう21時を回った頃。とっぷりと世界の全てが夜に飲まれてしまった学園の中に広がるのは、昼間のあの騒がしさなど微塵も感じられないほどの静けさだけ。だからこそ、少女のその小さな呟きでさえ廊下にはよく響き渡ってしまうのだ。
 けれど、それにも意識を向けられぬほど少女の視線は空に浮かぶ月へと完全に奪い去られてしまっていた。
 まだ十五夜には遠いからか、それとも十五夜を通り過ぎたからか、完全な円を描いてはいない黄金色。今にも空からこぼれ落ちて来そうなほどに大きなその衛星の姿があんまりにもきれいで、美しくて。古来より月が人を狂わせると謳われてきたその意味も、今なら分かる気がした。

 窓越しに水無月の月を愛でながら、少女はふと、それにとある既視感を覚えた。
 金色。丸くて、輝いていて、──ああ、そうか。

「……『かじりとる歯』って感じだ」

 既視感の正体を理解した少女はその答えを舌先に弾き、そうしてふわりと笑みをこぼす。
 かじりとる歯、ショック・ザ・ハート。それはこの月のように美しい金瞳を持つあのひとが使うユニーク魔法の詠唱だった。少女にはまだ使われたことのないそれだけれど、蠱惑的なあの瞳で見つめられてしまえば、魔法の有無など関係なく全てを打ち明けてしまいそうだとずっと思っていたのだ。それが今、月の美しさに魅入られた途端少女の中に連想されてしまったというだけの話であるのだが、そう言葉にするとなんだか恥ずかしい気もして。

 つい一瞬前に自らがこぼした言葉に少し羞恥と後悔を覚えたが、もちろん世界に落とした声を拾う術など有る訳もなく。不幸中の幸いは、周囲に自分以外が誰も──

「──おや、僕のユニーク魔法がどうされました?」

 いないで欲しかった。いや、いてもいいからせめて、せめて彼以外の誰かであって欲しかった。そう心の中に叫んでしまうのも仕方のないことだろう。何故なら、暗い廊下の中、月からこぼされる太陽の反射光だけが輪郭を生み出す世界に突然こぼされたその声は、少女のよく知る、さらに言えばつい今しがた脳裏に思い描いていた彼のものだったのだから。
 呼吸が浅く止まって、驚きと様々な感情に心臓が大きく跳ねあがる。ぎしぎしとまるで錆びついたブリキ人形のように顔を後ろへと向ければ、

「こんばんは、監督生さん。いい夜ですね」

 そこには、いつも通りの柔らかな微笑みをそのかんばせに浮かべた彼、ジェイド・リーチの姿が確かに存在していた。細められた瞳は、その爪先は確かにこちらを見つめていて。さらには自らを指すその呼称の音までもが、止めだとでも言うかのように少女の鼓膜を叩いたのだから、もう逃げ道なんてあるはずがない。

「ジェイド先輩、何でこんな時間に……?」
「おや、それはこちらの台詞というものですよ。貴方こそ、こんな時間にこんなところで一人何をなさっているのです?」
「……図書館で調べ物をしていたら、そのまま寝ちゃいまして」

 疑問に疑問で返されてしまった私は、けれど答えないという選択肢などもちろん与えられていないため、少しの言い辛さを覚えながらもそんな自分の愚かさを露呈してしまうことになるのだ。因みに少女の相棒であるグリムは放課後になった時点で「図書館になんて要はねーゾ」と言って真っ先に寮へ帰ってしまった。まあ、調べもの自体は至極個人的なものだったため構わないのだけれど。
 恥ずかしさと居た堪れなさに視線を爪先へ落とした少女を包むのは、居心地の悪い謎の沈黙。ああ、これはきっと馬鹿にされている。絶対に嘲笑されてしまう。そんな思いを頭の中にぐるぐるとさせながら、少女は彼から下される言葉を待った。

「──ふふ、何ですかそれ。貴方らしいと言えば貴方らしいですが」

 けれどそんな少女の予想も外れて、ふたりの間を満たす夜に落とされたのは、酷く優しい彼の笑い声だけ。嘲りも呆れもないその音に少し驚いてしまって、少女は持ち上げた瞳をぱちりと瞬かせた。
 くすくすと肩を震わせた彼はすぐにその笑いを収め、穏やかな表情を浮かべたまま少女に向けて言葉を紡ぎあげる。

「たとえ学園内とはいえ、女性がひとりで夜道を歩いてはいけませんよ。寮に戻るところですよね? 僕がお送りします」
「え、いや、そんな! 申し訳ないですから‥‥‥!!」
「僕がそうしたいのです。どうかお許しください」

 その言い方は正直ずるい。断るという選択肢を木端微塵に砕かれてしまった少女が内心に悪態をこぼすけれど、勿論それが彼に届くわけもない。しばらく反論を考えたはみたのだけれど、やはり何を言っても彼には勝てない未来しか頭には浮かばなくて。結局少女が出来たことといえば、しぶしぶ「よろしくお願いします」と彼に頭を下げることだけだった。


  ***


「……っくしゅん、」

 オンボロ寮へと向かうためには、一度校舎から出て外の道を歩かなくてはいけない。そのために校舎から一歩外へと足を踏み出したその瞬間、六月にしては少し肌寒いほどの空気に身体を包まれた少女は、予想外の気温差に思わず肩を震わせくしゃみをこぼしてしまった。
 腕まくりをしていた長袖を慌てて元に戻すけれど、それでもやはり、薄手のワイシャツたった一枚では未だその寒さを凌ぎ切るには少し足りない。

「おや、大丈夫ですか?」

 肩を震わせて腕を手のひらでさすった少女の様子に、聡い彼もすぐさま気付いてしまったようだ。隣から飛ばされてきたその心配の声に、少女はすぐさま「大丈夫ですよ」と笑みを返す。けれどそれを言葉のまま信じてくれる彼でもない。

「最近、昼間はもう随分と温かいですしね。よければこれを羽織っていてください。少しはましになるかと」

 そう言って、彼は少女の肩に自らのブレザーを羽織らせる。突然自らを包み込んだ温かさと嗅ぎ慣れない香りに、少女は驚き慌てふためいて遠慮の声を上げるのだが、それも彼の笑みと言葉によってあえなく封殺されてしまった。
 結局またしても彼に甘えるかたちとなってしまった少女は、釈然としない表情を浮かべたまま、それでもやはりありがたいことに変わりはないので素直にそのブレザーへと袖を通す。

「手が……出ない……」
「っふ、ふふ……まあ、そうなってしまいますよね。動きにくいと思いますが少し我慢してください」

 190センチの彼が着てぴったりな服を150数センチの少女が着れば、それはもちろん丈は長いし袖は余り過ぎるし肩口も哀れなことになってしまう。子供が背伸びをして大人の服をきてしまったかのようなその不格好さに少女が眉間の皺を深めるのと反比例して、彼の笑みは深くなるどころかいっそ爆笑にも近いものに進化していた。なにわろてんねん。
 じとりと少女が彼を睨みつける視線に気付いたのだろう。まだ笑いを堪えきれていない様子であった彼が、ようやく普段通りの穏やかさに戻って来てくれた。

「ああ、すみません。可愛らしい姿だと思って……ふふ、」
「笑いがおさまってませんけど。いいですよ、好きなだけ笑ってください」

 そう言って少女がふい、と視線をそっぽへ向ければ、まるで幼子の機嫌を取るかのように彼から優しい言葉が落とされていく。別に怒ってはないですよ、と小さく舌を出してみせればまた彼の眉が困ったように下げられた。多分、内心ではそんなに困っていない。何故ならそれが彼という男だから。

「……ところで、先程の呟きは一体何だったのですか?」
「え、……ああ、あれですか……忘れてくれてるかと思ってたのに」
「ふふ、これでも記憶力には自信がありまして」

 思い出したかのように落とされた彼の問いかけに、少女はまた何度目かになる言い淀みをその喉元に飼うこととなってしまう。適当な言い繕いもしようと思えば出来るのだろうけれど、それが彼に効くとは思えない。少し恥ずかしい内容だから口にするのは憚られるが、──まあ、いいだろう。今日は月がこんなにもきれいなのだから。

「……月が、」
「月、が?」
「──月がきれいで、……先輩の左眼にちょっと似ていたので、何となく連想しちゃっただけです。別に深い意味はありません」
 
 それは半分が本当で、半分が嘘だった。

「……フロイドではなく、僕だったのですか?」

 歩みを止めたのは、どちらからだろう。
 ほとんど同時に静止した爪先が曖昧に地面を踏みしめる。彼の瞳がこちらを見下ろしている気がして、少女もまた、ゆっくりと自らの視線を彼の方へと向けた。

 ──ああ、空から月がこぼれ落ちてきた。

 そんな錯覚を覚えてしまう程に、彼の瞳の輝きがあんまりにも美しくて。手を伸ばせば届いてしまう距離にそれが存在しているという事実が、どうしようもないほどに少女の心臓を苦しめた。呼吸が浅くなったのは、きっと月に全てを奪われてしまったせい。

「……はい。一番に思い浮かんだのはジェイド先輩でした」
「……そう、ですか。それは、──光栄なこと、ですね。とても」

 柔く弧を描いた月とその影のコントラストが、月光の夜とともに少女の網膜を焦がしていく。じわりじわりと少女の胸を焼くその感情を、少女はとっくに知っていた。それにつけるべき名前の音も。
 けれど、その名前を呼ぶ勇気だけがまだ足りなくて。

「……なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「そう見えますか?」
「ええ、まあ」
「おや、それはそれは」

 ちょっと生意気に唇を尖らせて見せた少女に、また彼はくすりと微笑みを浮かべるばかり。その微笑みがあんまりにも優しいものだから、少女はまたその心臓を縮めてしまうことになった。

「そうですねぇ。僕が喜んでいるように見えるとしたら、それはきっと──今宵の月が、貴方の言う通りにとても美しいから、だと思いますよ」

 そして、その言葉によって再び呼吸までもが奪い去られてしまうのだから本当にどうしようもない。こんなにも眩い月明かりの下では、赤く染まった頬を隠すことも叶わないではないか。いやなひとだ、と心の中に叫んではみたけれど、それだけでこの激情が収まるならば誰も苦労はしないのだ。
 ぎゅうと詰まった喉元の苦しさに血流を泡立てられながら、少女は適当な相槌だけを彼の方へと蹴飛ばして、止まっていた爪先を大きく前へと踏み出した。まあ、少女にとっての最大歩幅は、彼にとっての通常歩幅で詰められてしまう儚いものであるから、それによって生まれた距離もすぐさま埋め尽くされてしまうのだけれど。

(──……先輩はきっと知らない、)
(──……彼女はきっと知らない、)

 月の美しさに隠したその想いのかたちを。
 お互いだけが、まだ知らない。


2020/6/8

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