君さえ


ハロー共犯者(ジェイド/穏やかな病)


「先輩、お茶にしませんか?」

 ふと飛ばされたその声に、ジェイドは手にしていた書籍から視線をおもむろに持ち上げる。そうすれば視界に映ったのはひとりの少女の笑みと、その手の中にあるティーセットの乗せられたトレーの姿。ふわりと鼻孔をくすぐったのは華やかな紅茶の香り。いつもとは立場が逆だなと心の中に呟いて、ジェイドもまたその表情を綻ばせる。

「ありがとうございます。貴方の淹れてくださったお茶を飲むのは初めてですね」
「初めて振る舞いますしね。先輩の淹れたお茶には到底敵わないですけど、色んな人からコツを聞いて頑張って練習してきたので」
「おや、紅茶のことなら僕に聞いてくださればよかったのに」

 本をテーブルの上に寝かせてそう笑ったジェイドと、テーブルを挟んでその向かい側でティーポットからティーカップへと琥珀色の液体を注ぐ少女。その間を満たすのは紅茶の香りと、穏やかな空気と、優しい笑い声の響きばかり。

「いつも美味しいお茶を淹れてくださっている先輩へのお返しですから。それを先輩自身に聞いちゃったら意味がないでしょう?」
「相変わらず律義ですね。そんなこと気になさらずともよいのに」
「そこが売りな可愛い後輩ですから。──よし、いい感じ。さ、どうぞ!」

 ふたりの前でふたつのティーカップに琥珀色が揺らめいて、ふわりと柔らかな湯気が空に白く渦を巻く。自らに差し出されたそれの香りにまた瞳を細めて、ジェイドは少女に言葉をこぼした。

「──このまま『何も知らなかった被害者』になるのも構いませんが、それでは少し面白みに欠ける気もしますね」

 少女もジェイドもお互いに穏やかな笑みを浮かべたまま、紅茶の香りに包まれた世界で視線を交わす。次に言葉を紡いだのは少女の明るい声だった。

「気づかれちゃいました?」
「ふふ、気づいてしまいました。ああ、安心してください。紅茶の色にも香りにも不審な点は見当たりませんし、『淹れ方』は完璧ですよ」
「それじゃあ、どうして分かったんですか?」
「そうですね……貴方が貴方で、僕が僕だったから、でしょうか」
「なるほど、それは仕方ないですね」

 まるで悪戯がバレてしまった子どものようにちろりと赤い舌を出して、残念、と少女は口にする。けれどその表情は残念さなど微塵も感じさせないもので。きっと、今ここにジェイドの片割れがいたならば、彼は「小エビちゃん、ほんとジェイドに似てきたよねぇ」と嫌そうな表情を浮かべていたことだろう。ありありと想像できたその光景に、ジェイドは思わず笑みを深めてしまう。

「一応お聞きしますが、何を入れたのですか?」
「あ、知りたいですか?」
「ええ、お教え頂けるのでしたら」

 凪いだ琥珀の水面に、少女の無邪気な笑みが映り込む。


「ジェイド先輩がもう二度と人魚の姿に戻れなくなる魔法薬です」


 ──意外だ、と思った。ジェイドは彼女のその答えに瞳を瞬かせる。まさかそんなにも『可愛らしい魔法薬』だっただなんて。

「意外そうですね」
「……そうですね、遅効性で致死性の高い毒薬でも仕込まれているのかと思ったので」
「あはは、やだなぁ、先輩にそんなの飲ませる訳ないじゃないですか」
「おや、それはそれは。僕としてはそうされてもおかしくないほどのことを貴方にした記憶があるので甘んじて受け入れるつもりでしたが」
「まあ確かに元の世界に帰る方法は先輩に壊されましたけど……って、毒薬でも飲むつもりだったんですか?」

 丸く開かれた少女の瞳に、にこりと華やかな笑みを浮かべる男の姿が映し出された。ぎざぎざと鋭く凶器のように尖った歯が、その唇の向こうに覗いている。

「ええ、もちろん。貴方が淹れてくださったお茶を僕が無駄にするわけがないでしょう?」

 それが紛うことなく世界の真理だと、その口調と声色は告げている。たっぷりと二拍をおいて、少女は耐えきれないと言いたげに大きな笑い声をこぼした。

「相変わらず変ですね、ジェイド先輩って」
「ふふ、貴方も大概だと思いますけれどね。これがたとえ変身薬の効果を永続的なものにするだけの魔法薬だったとしても、使用や所持が見つかればたとえ今は学生とはいえ厳罰ものですよ。そんな危ない橋を渡る必要なんて、貴方にはないでしょうに」
「そんなことはないですよ? だって、人魚の姿で海に逃げ込まれたら私じゃもう先輩を捕まえられないじゃないですか。それは困るんですよ。先輩にはずっとずっと私の傍にいてもらわなくちゃいけないので」

 なるほど、これは一種の束縛で足枷というわけか。少女の言葉に全てを理解した男は、胸に込み上げてきたどうしようもないほどの愛おしさに表情をだらしなく歪ませる。それを必死に噛みしめて、抑え付けて、精一杯穏やかに笑ってみせるのだ。
 身を焼くほどに凶暴な感情を、その美しいかんばせの奥に隠しながら。

「そんなことをしなくても、僕はもう貴方から離れるなんて選択肢を持ってはいませんが……まあ、それで貴方が安心できるというのなら僕は喜んで『共犯者』になりましょう」
「別に、被害者でもいいんですよ?」
「その提案には頷けませんね。『加害者』は僕だけで十分なのですから」

 少し眉を下げて困ったような表情を浮かべた少女へ、ジェイドは甘く蕩けた瞳を向ける。
 狂おしいほどに愛しい人。この愛の被害者で、そして今日からは共犯者。


「愛していますよ、監督生さん」
「愛していますよ、ジェイド先輩」


 世界を壊して、海を捨てた。
 毒をあおって、罪を被った。
 もう元には戻れない。もうあの頃には戻れない。
 それでもいい。

 貴方の永遠が、この手の中にあるのなら。
 


2020/6/8

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