君さえ


真夏の向日葵(ジェイド/微悲恋/色々注意)


 両の脚で踏みしめたアスファルトの暑さが、サンダル越しに足裏から血液を温めていく。まだ朝も早い8時前、それでも真夏の空は突き抜けるように青く染まっていた。世界を焼く陽光の眩しさに、止まらない汗が首筋を滑り落ちていく。降り注ぐ蝉時雨が鼓膜を容赦なく叩きつけるせいで、また体感温度が一度上昇した。

 自分をここまで運んできた民間のバスが、いくらか古いエンジン音を鳴らしながらがたがたと道の向こうへ消えていく。本当は鏡でも箒でもなんでも使えばもっと早く楽にここまでたどり着くことが出来るのだが、何となく、ここへはこうして魔法の力を使わずに来なければいけないと、そうするべきだと思ったのだ。

 さらさらとささやかな風が頬を微かに撫ぜていく。それが運んできた潮の香りに、男、ジェイド・リーチは暑さに辟易としていた表情を僅かに緩めた。

 高台にあるバス停から坂を下りながら道なりに歩いて行けば、その姿がすぐにジェイドの視界を埋め尽くす。空のそれとはまた違った深い青は、ジェイドにとって、世界を覆い尽くす空よりも身近なもの。
 それは海。道路沿いに設けられた防波堤の向こうには白い砂浜、そしてさらにその向こうには、世界を真っ二つに切り裂く水平線が広がっていた。

 顎を伝う汗を手の甲に拭って、ジェイドはさらに足を進める。
 坂を下りきって、そして防波堤を抜け砂浜へ。
 ひときわ強い潮風が前髪をくすぐっては駆け抜けていく。
 それに目を細めながら、ジェイドはそこで待っていたその人へと声を投げるのだ。

「──お久しぶりです」

 そうすれば、砂浜に立っていたその人がゆらりとこちらを振り返って、その丸い瞳にジェイドの姿を映す。1年ぶりに見るその姿がジェイドの記憶の中にあるそれとほとんど変わっていない事実に、少しの安堵と切なさを覚えた。

 白いワンピースのスカートがふわりと踊る。つばの広い麦わら帽子は、透き通った海辺によく映えていた。揺れる髪先も、白い肌も、全て全てが今は炎節の中。
 黒曜石を嵌め込んだ瞳がきらりと夏日に輝いて、ふにゃりと蕩けるように弧を描く。青い空と白い雲、そして水平線。夏を背に笑う彼女の姿があんまりにもきれいで、美しくて、眩しくて、ジェイドはそっと唇を噛みしめた。

「会いに来てくれたんですね、ジェイド先輩」

 当たり前だろう。心の中にそうこぼして、ジェイドは彼女の傍へと歩み寄る。

「毎年思いますが、どうしてこんなにも暑い真夏なんでしょうね」
「ううん……やっぱり私の生まれ故郷の影響ですかね。すみません」
「いえ、貴方が謝ることではないですけれど。まあ、暑さぐらいは我慢してみせますよ。他でもない貴方と会うためですし」
「先輩かっこいい〜!」
「ありがとうございます」

 そんな軽口を弾ませながら、ふたりは視線を合わせて笑い合う。ざあ、と波が寄せては返し、そんなふたりの爪先を淡く濡らしていった。

「……今年は何をしますか?」

 小さな彼女の右手をその左手で攫い、自分から見れば随分と低い位置にある彼女の瞳を覗き込みながら、ジェイドは優しく微笑んだ。握り返された指先に込み上げる愛おしさは、たとえどれだけの時を経たとしても薄れ消えゆくことはないのだろう。去年よりもまたいっそう深くなった想いの丈が、その証拠。
 どうやら彼女はもう、自分のやりたいことを決めていたらしい。ジェイドの問いかけににこりと明るく笑った彼女は、白い歯を覗かせながら鈴のような声を響かせる。

「スイカ割りがしたいです!」

 それは、もう何度目かになる、ふたりぼっちの夏のお話。


  ***


「そういえば、アズール先輩たちは変わらずお元気ですか?」

 他愛のない言葉を交わしながら浜辺を歩いて、彼女の要望通りスイカを割って──もちろん割ったのはジェイドである──、浅瀬で少し遊んで。気が付けば世界は昼を過ぎて暑さのピークに達しようとしていた。降りしきる陽光の鋭さ比例して声量を増した蝉の咆哮が、まるで本当の雨音のよう。夏はとても煩い。けれど、それでいて酷く静かだ。
 海辺から少し離れた駄菓子屋で買った氷菓子を口に含みながら、隣を歩く彼女がふとそんな問いかけを炎天下の中にこぼした。ふたりで半分にしたソーダ味の氷は、視覚から涼しさを与えてやろうとでも言いたげな薄い水色をしている。つう、と溶け出した砂糖水が手や服に落ちてしまわないようにと慌てる夏を過ごすも、もう何度目だろう。
 がさがさと駄菓子屋の簡素なビニール袋を揺らしながら、誰もいない道をふたり行く。

「……そう、ですね。相変わらず元気にしていますよ、アズールもフロイドも」
「そっかあ。──グリムたちも元気かなぁ」

 浅く呼吸が止まる感覚に、ジェイドは思わず瞬きを余計に繰り返してしまう。記憶を懐かしむように細められた彼女の瞳は、今、一体そこに何を映しているのだろう、なんて、そんなことぐらい考えなくても分かる。
 彼女へかけるべき言葉が咄嗟に見つからず、ジェイドはただ曖昧に唇を開閉させるばかり。けれど、当の彼女はそんなジェイドの様子を気にすることもなくまた笑みを浮かべるのだ。

「エースも、デュースも、皆もう大人ですもんね。なんだか感慨深いや」

 やめてくれ。そう叫ぶように心臓が軋んだ。けれどそんな言葉を口にすることなど勿論できる訳もなく、ただジェイドは彼女の手を握る自らの指先に力を込めた。夏の暑さの中では、もう彼女の体温も分からない。
 思い返そうと意識せずとも、ジェイドの脳裏を思い出という名の記憶が奔流のように過っていく。それは学生時代のことだ。海から陸に上がり通ったナイトレイブンカレッジ。そこで過ごした、彼女との不思議な日々。それは何よりも愛おしい記憶だ。そして、痛いほどに悲しい記憶だ。

「──……もう、8年が経つんですね」

 夏の音が、遠く聞こえる。
 26歳になったジェイドは、今もまだあの日のことが忘れられない。
 空はまだ青く、眩しく。けれど、そこには確かに夕が迫りつつあった。

 
  ***


 夕焼けを見ると、何故ひとは寂寥や郷愁を覚えてしまうのだろう。
 不思議なものだ、とジェイドはぼんやりと考える。橙に染まった空がやがて群青に移りゆく様を彼女と共に眺めながら、海の音を聞く時間。蝉時雨はいつの間にかひぐらしのカナカナ、という寂しげな声に変わっていて。それがまたどうしようもない空虚感を孕んだ心をくすぐっていくのだ。
 薄暗くなっていく海辺に足跡を残し、ふたりは駄菓子屋で買ってきた手持ち花火セットを囲む。魔法で生み出した小さな灯りに照らされる彼女の横顔があんまりにも楽しそうで、嬉しそうで。たったそれだけのことでこちらまで笑みがこぼれてしまうのだから、やはり恋とはなんとも能天気なものであるようだ。今に始まったことでもないのだけれど。

「先輩、先輩、見てください! 両手持ち!!」
「そんなにはしゃぐと危ないですよ。転ばないでくださいね」
「うわっ!」
「ああほら、言った傍から……!」

 砂浜に頭から突っ込んだ彼女に慌てて駆け寄れば、砂まみれになった彼女の姿が視界に映る。両手に持っていた花火は転んだ拍子に鎮火してしまったらしい。二次被害はなさそうだとジェイドが安堵するのもつかの間、夜の砂浜にこぼれたのは彼女の笑い声。ああ、全く本当にこの人は。太陽はとっくに西の空へ沈んでしまったというのに、彼女が笑うだけで世界が明るく、温かい光で照らされているような心地になる。彼女を陸に咲く花にたとえるならば「向日葵」だと言っていた誰かの言葉が、身に沁みてよく分かった。
 つられてジェイドも馬鹿みたいに笑いながら、砂浜から彼女の身体を引き起こす。
 空に瞬く無数の星も、まるで彼らと一緒に笑っているようだった。

 ひとしきりはしゃぎまわって彼女も満足したのだろう。先程までの賑やかさはどこへやら、ジェイドの隣で線香花火の小さな焔を静かに眺める姿を横目に、ジェイドもまた自分の線香花火に火を点ける。ぱちり、と火花が夜に散った。

「……ジェイド先輩、」
「何ですか?」

 夏の夜と、海の香り。そして僅かな火薬の煙たさ。まだじわりと暑い空気が喉に張りつく感覚は、けれど昼間のそれより幾分かましに感じられた。
 ぽつり、声が落ちる。降り始めの雨粒のように、ゆっくりと、少しずつ。

「……もう、会いに来なくていいんですよ?」

 その声震えているように聞こえたのは、ジェイドの錯覚だろうか。
 いや、きっと違う。そう確信できたのは、

「お断りします」

 ジェイドが彼女を心から愛しているからに他ならない。
 あの日からずっと、今もまだ。

「……どうして、ですか? だって、私はもう、」

 夏にしか会えずとも。もう二度と、その体温を感じることさえできずとも。
 ただ、貴方に会えるのなら。

「それでも、愛しているんですよ。僕は貴方を。どうしようもないほどに」

 9年前、彼女に出会い恋をした。
 8年前、彼女を永遠に喪った。
 7年前、この場所で再び彼女と出会った。夏の日に、彼女を見つけた。

 奇跡なんて信じない。運命なんてものをジェイド・リーチは謳わない。
 けれど、それでも。


「それに、僕が来ないと貴方、夏にひとりぼっちじゃないですか」


 彼岸も此岸も超えて愛する人と出会うことのできる夏を、どうして手放すことができようか。それがたった1日だろうと、1時間だろうと、1秒だろうと関係ない。そこに彼女がいるならば、ジェイドは夏を求めてここに来る。愛を求めて会いに来る。
 泣き虫な彼女の涙は、もう砂浜を濡らさない。

「……来年も、会いに来てくれるんですか?」
「当たり前じゃないですか。来年も、再来年も、10年後も、50年後も、会いに来ますよ」
「ジェイド先輩、おじいちゃんになっちゃいますよ」
「人生全てを懸けて貴方を愛すると決めた男の覚悟を舐めないでください。暑さも、距離も、老いも、世界も、『僕が貴方を愛すること』には一切関係のないことですから」

 波が打ち寄せては引いていく。
 ぽたりと落ちた線香花火の提灯は、砂浜に溶けて見えなくなった。

「……先輩、ごめんなさい。貴方と一緒に生きられなくて」
「……それも、貴方が謝ることじゃありませんよ」
「ありがとうございます。私を愛してくれて」

 星が降る。波が揺れる。
 夜闇に咲いたその笑顔は、本物の太陽のようだった。


「ジェイド先輩、大好き」


 それは、ジェイドが世界で一番に愛した夏の花。


「またね、先輩」


 夜が溶ける。夏が暮れる。
 静かな砂浜に残る影はひとつだけ。


「──ええ、また来年お会いしましょう」


 8月16日の始まりは、いつも海の味がした。


2020/6/13

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