君さえ


貴方と私のかえる場所(ジェイド/微仄暗)


「『かぐや姫』っていう昔話があったんです」

 眠る前にこうしてふたり、ベッドの上で横に並んでとりとめもない言葉を交わすことが習慣になったのは、一体いつからのことだっただろう。もう随分と長く続く彼女とのそんな穏やかな時間の中に、ある日突然こぼされた言葉。それが冒頭のものだった。
 彼女曰く、それは彼女の元いた世界に存在した童話のようなもので、なんでも光る竹の中から小さな女の子が出てくるという魔法もびっくりな導入からその話は始まるらしい。
 おじいさんとおばあさんの下ですくすくと育った女の子は、その輝くような美しさから『かぐや姫』と呼ばれ、国中の男性、果ては帝からも求婚を受けることになる。
 けれど、かぐや姫は様々な理由を付けてその申し出をすべて断ってしまうのだ。
 そうして訪れた秋の十五夜近く。かぐや姫はおじいさんとおばあさんに泣きながらこう語る。

『私はこの世界のものではありません。私はあの月からやって来たのです。そして来たる十五夜に、私は月へと帰らなくてはなりません』

 それを聞いたおじいさんとおばあさん、そして多くの人々は、彼女を月になど返すものかと様々な手を打った。けれど、かぐや姫を迎えに来た月からの使者に手も足も出ず。悲し気に別れを告げたかぐや姫は、そうして月へと帰っていってしまった。
 語り終え唇を閉ざした少女に、ジェイドは数秒の間紡ぐべき言葉を探して口を噤んだ。夜の闇をほのかに照らす橙の灯りが、ゆらゆらと僅かに揺れている。

「……悲しいお話、ですね」
「……はい。いつの時代でも、どんな世界でも、大切なひととの別れが身を裂くほどにつらく悲しいものであることに変わりはない様です」

 ジェイドの隣に切なく綻んだ彼女の笑みに、胸が締め付けられるような感覚に陥った。呼吸することさえ今はどうしてか痛くて、思わず喉を閉ざしてしまう。そんなことをすれば、余計に苦しくなってしまうだけだというのに。

「──貴方もいつか、『月』に帰ってしまうのでしょうか」

 ほろりとこぼれ落ちたその言葉は、心からあふれ出た一粒の涙だった。
 その証拠に、その語尾は情けなくも僅かに震えていて。

 ぱちり、と視線の先で少女の瞳が瞬いた。
 夜と僅かな橙の中に浮かんだその瞳があんまりにも美しく輝いているものだから、ジェイドの心はもう何度目になるかも分からない恋への落下を経験してしまう。何度落ちればいいのだろう。どれだけ想えば許されるのだろう。深海よりも深く底のないその感情に、いつか自分は溺れ死んでしまうのかもしれない。それもいい、それでもいい、それがいいとすら思えてしまう程に、その深度はもう手遅れの域に立強いていた。

 ゆるりと瞳が細められる。わずかなまどろみの中に微笑んだ彼女は、優しいその声で再び言葉を紡ぎあげる。

「……私の帰る『お月様』は、もうここにありますから」

 そっと伸ばされた小さな手のひらが、その指先が、ジェイドの左頬を撫でていく。くすぐったさすら覚えるほどに柔いその感覚に、心臓がぎゅうと握りつぶされた。苦しいのに、どうしてか甘い。切ないのに、どうしてか嬉しい。相反する感情の振れ幅に、思考回路が今にも壊れてしまいそうだった。
 そんなどうしようもなさを持て余して、結局できたことといえば彼女をこの腕に抱きしめることだけ。小さな身体が、呼吸が、鼓動が、温度が、確かに今ここに存在している。
 それを確かめてようやく、ジェイドは肺呼吸の正しい方法を思い出した。

「……僕を置いていかないでくださいね。こう見えて僕、極度の寂しがり屋なので。貴方がいないとすぐに死んでしまいます」
「安心してください。どこにも行かないって約束しますから」

 ぽんぽんとあやすように背中を優しく叩かれる。幼子にするようなその動作に少しの不満も生まれるけれど、与えられる穏やかなリズムがどうしようもないほどに心地よくて。


「──……もしもの時は、一緒に海へ還りましょうか」


 そうすれば、もうふたりの間には誰の邪魔も入らない。
 くすくすと笑った彼女にジェイドもまた嬉しそうな笑みを浮かべ、その身体を抱きしめる腕に少しだけ力を加えた。

 温度を分け合い、鼓動を並べ、彼らは共に生きていく。
 いつかの終わりのその日まで。


2020/6/15

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