君さえ


笑うウツボ(ジェイド)


 私には好きなひとがいる。

 原因も理由も分からぬままある日突然放り込まれた、私にとって『異世界』とも呼べるこの世界、ツイステッドワンダーランド。ここで魔法なんていうなんともファンタジーなものに囲まれながら、様々な人と出会いながら、時に衝突しながら、気付けばもう半年もの月日が過ぎていた。
 まだ夏が残っていたはずの秋空は、今やもう浅い春を纏い始めている。
 そんな季節の移ろいの中、人の心というものもまた同様に変化していくもので。

「こら、グリムー! 実験道具の片付けは!?」
「オレ様は腹が減ったから先に食堂に行くんだゾ! 後片付けは子分の仕事だ〜!」

 錬金術の授業が終わり、待ちに待った昼休みが始まったのがつい数分前のこと。とはいえ錬金術では様々な実験器具を使うため、昼休みのはじめ十分程は後片づけに消えてしまうのが通例、なのだけれど。
 私の怒号も儚く、その後片付けを嫌がった我が相棒の姿は、あっという間に廊下の向こうへと消えてしまった。相変わらず我儘なモンスターだ。追いかけて締め上げてしまいたい気持ちもあるけれど、それをしていればまた面倒ごとが増える予感しかしないため、ぐっとその思いを腹の底に飲み下す。そして大きくため息をひとつこぼして、後でちゃんと反省させなければと頭を抱えながら私は大人しく教室の中へと──

「──……ふふ、相変わらずおふたりは仲がよろしいですね」

 戻ろうとした、瞬間。廊下の向こう、それも割と近くからそんな言葉が飛ばされてきた。聞き慣れたその声にどくんと跳ねて軋んだ心臓の原因は、純粋な驚きの感情ただそれだけではない。身体が強張る感覚を覚えながらも、私はゆっくりと視線をその音源へと向ける。
 そして視界を彩ったその色彩に、ああやっぱり、と心の内に言葉をこぼすのだ。

「ジェイド先輩……こ、こんにちは」
「はい、こんにちは。監督生さんは錬金術の授業だったんですね。お疲れ様でした」
「ぁ、はい、ありがとう、ございます」

 にこりと微笑んだ彼の表情と優しい声に、私は思わず一歩後ろへと後ずさってしまう。声が震え、視線はゆらゆらと覚束なくさまよい歩き、手のひらは曖昧に胸元で握りしめられた。別に彼のことが怖いわけではない。恐ろしいわけでもない。ただ、

「す、すみません、後片付けが残っているので、失礼します……!」

 耐えきれずに踵を返し、私は彼に背を向けて教室の中へと逃げるように駆け込んだ。
 そうして自分に割り当てられていた席へと戻り、まだ片付けの終わっていないその場所で頭を抱えて勢いよくしゃがみ込む。胸に渦巻くのは、後悔と、羞恥と、言葉にもできぬどうしようもない感情ばかり。

「……またやっちゃった……」

 手のひらで覆い隠した頬があんまりにも熱くて、心臓は張り裂けそうなほどの勢いで脈打って。情けなさやらなにやらで滲んだ涙を戒めるように瞼を閉ざせば、そこに浮かぶのは先ほど間近に目撃してしまった彼の姿。それがまた鼓動を速めてしまって仕方ない。

 声をかけてもらえた。でもちゃんと応えられなかった。あんなに優しく微笑みかけてくれたのに、私に出来たことと言えばろくに視線も合わせずあっという間に逃げ出したことだけ。ああ、なんて可愛げのない行動をしてしまったのだろう。そんな後悔が胸の内をぐるぐると巡っていくけれど、何を隠そうこの後悔、今回に限ったことではないのだ。
 彼の姿を視界に映せば心臓が早鐘を打ち始めて、声を掛けられると途端に言葉が頭から全て消えてしまって、微笑まれるだけで頬の温度が急上昇してしまう。もう自力では制御することの出来ないその生体反応は、即ち『恋』と呼ばれるそれでしかなくて。

 だから、つまり、そう。
 端的に言えば、私は彼、ジェイド・リーチ先輩のことが好きなのだ。そういう意味で。


  ***


「──ってことがあったんですよ……あの、聞いてますか、フロイド先輩」
「ん〜〜〜? あ〜〜〜聞いてる聞いてる」
「それ聞いてないやつ……まあいいですけど」

 そんなこんながあった日の放課後。人気のない中庭の片隅かつ、知る人ぞ知る最高のお昼寝場所で、私はジェイド先輩の片割れであるフロイド先輩にそれら全てを打ち明けていた。
 木漏れ日の優しさにうとうとと微睡んでいる彼は、どうやら今日はあまり人の話を聞く気分ではないらしい。気が向いた時はなんだかんだとちゃんと相談に乗ってくれるいい先輩なのだけれど、この気分屋な所ばっかりはどうしようもない。私自身「話すこと」ただそれだけで幾らか心が晴れるので、正直聞いてくれなくても構いはしないのだが。
 まあそもそも、彼がこうしてお昼寝場所に突撃されても怒ることなく好きにさせてくれている時点で天変地異の前触れかとも思えるほどの衝撃なのだけれども。そこはそれ、私のジェイド先輩への拗れた恋心に興味を持って「相談、乗ってあげよ〜か?」と先に言い出したのは彼であるのだ。だから私は特段気にしないことにしている。
 こんなぐだぐだとした私の恋愛吐露を彼が聞いてくれているのは、ひとえにその対象が彼の片割れであるジェイド先輩であるためだろう。「ジェイド関係のコイバナとかちょ〜おもしれ〜じゃん」と笑ったフロイド先輩の心中など私には分からないが、ジェイド先輩のことに関して彼の右に出るひとなどこの世界のどこを探しても見つからないことぐらいは考えずとも分かった。つまり、彼からのその提案は私にとって渡りに船。「よろしくお願いします」と流れるように土下座をかましたあの日のことを、私は今でも忘れていない。

 閑話休題。

 ここまでの内容を簡単に取りまとめると、ジェイド先輩が好きで好きでたまらないにも関わらず、彼を前にするとちゃんとした会話も出来なくなってしまう恋愛レベルマイナスな私と、そんな状況を面白がってこうして私のコイバナ──と呼んでいいのかは分からないが──を聞いてくれているフロイド先輩というのが、今この場所に展開されている人間関係だ。実質ふたりしかいないこれをそんな風に大袈裟に称していいのかは疑問だが。

 ゆったりと芝生の上に寝転がっていたフロイド先輩が、ふと地面に頬杖をついて上体だけを僅かに持ち上げ、ジェイド先輩のそれとよく似た、けれども全く違うかんばせをこちらへと向けた。垂れ目がちな瞳が、面倒くさいという感情を隠しもせず私を見つめてくる。

「もうさぁ、正直に全部言えばいーじゃん。その方が手っ取り早くねぇ?」
「それはつまり当たって砕けろということですか?」
「なんで砕けるって決めつけてかかるわけぇ? 分かんねーじゃん言ってみねーとさぁ」
「分かりますよ。だって、あのジェイド先輩ですよ? 対して私、何のとりえもないただの人間。勝ち目なんてないんです、それぐらいちゃんと自分でも理解してます」

 こんな卑屈な思考回路が何よりの問題であるということも、ちゃんと。

「……小エビちゃんは、ジェイドとコイビトどうしになりたいとか思わないわけ?」

 静かな彼の声が、私の心を鋭いナイフのように突き刺していく。
 そんなの、叶うことならなりたいに決まっている。彼に好きだと告げて、その想いを受け入れてもらって、そして恋人同士に。けれど、それは私にとってあまりにも都合の良すぎる予想図で、叶うわけなんてなくて。胸に蟠るのは、想いを告げた途端に彼から強く拒絶され、嫌悪され、今の関係まで壊れてしまうのではないかという恐怖ばかり。

「……いつも話を聞いて頂いているフロイド先輩には申し訳ないですけど、私は今のままでも十分なんです。片想いぐらいが丁度いい。ただ、もう少し素直にジェイド先輩とお話出来るようになれたら、もう、それだけで……」

 いいんです。その言葉は尻すぼみに掠れてしまって、ちゃんとした音になりきれないまま空気の中に消えていく。数秒の沈黙が落とされ、ようやく彼から返されたのは「ふーん」という何ともつまらなさそうな気のない声。
 膝を抱え座り込んだ私の隣で、彼がおもむろに立ち上がった。それを音と気配だけで感じながら、私はただ唇を噛みしめる。頭も、心も、ぐるぐると気持ち悪いほどに渦巻いていた。

「……ウソつき」

 遠のいていく少し重心とリズムのズレた彼の足音を聞きながら、私は自らの膝に強く額を押し付けた。傾いた夕日が、枝葉の隙間からはらはらとこぼれ落ちてくる。春の夕方はこんなにも穏やかだと言うのに、その中に存在する私の心と言えば。

「……いつから、こんな臆病者になっちゃったのかなぁ」

 ほろりと紡いだそんな自嘲の声は、誰に聞かれることもなく木漏れ日に消えていった。


  ***


 事件が起こったのは、それから約1週間後のこと。
 あれ以来何となくフロイド先輩にも顔を合わせ辛くなってしまって、あのお昼寝場所には一度も足を運んでいない。まあ今までも私の行きたいときに足を運んで、丁度よく彼がそこにいれば話を聞いてもらう、という流れが通常だったので、日にちが空くこと自体はそう珍しいことでもないのだが。一週間もの間が空くのはこれが初めてだった。
 重く息を吐いて、私は廊下をひとり歩く。図書室へ借りた本を返しに行っていた放課後、中途半端な時間のせいか人気の少ない静かな空間。考えてしまうのは、やはりジェイド先輩のことと、フロイド先輩のこと。好奇心と愉悦からのものであっても、確かにフロイド先輩は厚意で私の言葉を聞いてくれていた。それなのに私が返した言葉といえば、先日のそれ。恩を仇で返すとはまさにこのこと。一体いつの間に恋愛レベルだけでなく対人レベルまでマイナスに振り切れてしまっていたのだろうか。

 視線を床へと落としながらとぼとぼと歩く私は気付けない。廊下の曲がり角の向こうからこちらへと歩いてくるその姿に。

「……っ!」

 誰かの爪先が視界に映ったことを理解した時にはもう遅く、私の身体はその誰かとぶつかって大きくよろめいていた。後ろへと倒れそうになる身体に、反射的に腕を前へと伸ばす。けれど、その指先は呆気なく空を掻いて。

「……監督生さん、大丈夫ですか?」

 身体は床へと叩きつけられるはず、だった。
 それなのに、どうしてか私の身体は痛みと衝撃ではなく優しい温かさに包まれていて。驚きに呼吸も、瞬きすらも忘れてしまう。私の左腕と腰を捕まえる誰かの手と、視界に映った制服の姿、そして頭上から降り注いだ声。全てを理解するまでに、かなりの時間を必要とした。
 錆びついたブリキ人形のように、ゆっくりと私は顔ごと視線を上へと持ち上げる。

「……っジェイド、先輩、」

 そうして全てを理解した瞬間、私の脳内はキャパシティをオーバーする情報量に呆気なくショートしてしまう。間近に煌めいた浅い海の色と、左右で異なる瞳の色彩。布越しに肌に触れた、彼の温度。

「申し訳ございません、前方不注意でした。お怪我はありませんか?」

 目の前に紡がれる彼の声が、あんまりにも近距離で私の鼓膜を叩く。

 ──限界が訪れるのは、早かった。

 許容量を超えた感情の波に、私は正常な判断も忘れて彼の胸を手のひらで強く突き放す。私の非力さと彼の体幹のおかげで、幸いなことに彼がよろめいてしまうということは起こらなかったけれど、それでも突然のことに驚いたのだろう、私を支えてくれていた彼の手が私から離れていく。自らの両足と力だけで自分の身体を支え、私は声にならない言葉を喉の奥にぐるぐるとさせる。頬の熱さが、心臓の痛みが、肺の苦しさが、私の感情をさらに踏み荒らしていくのが分かった。
 何か言わなくてはいけない。ぶつかってしまったことへの謝罪を、支えてくれたことへの感謝を、突き放してしまったことへの釈明を。言わなければ。そんな思いだけがただただ頭の中に空回る。
 ああ、本当に、なんて情けないのだろう。滲んだ視界に、また自己嫌悪が募っていく。そうして結局私は何も言えぬまま、踵を返してその場所から逃げ出した。
 視界の隅に、驚愕の表情を浮かべたジェイド先輩の姿と、その向こうでこちらをじっと見つめているフロイド先輩の姿をかすめながら。


  ***


 自分が今、誰にも見せられはしないような酷い顔をしているという自覚はあった。だから、オンボロ寮へ帰ることも、それ以外へ行くこともせず、私が選んだのはあの場所。中庭の片隅にある、フロイド先輩のお昼寝場所。
 木陰に膝を抱えて座り込み、視界を閉ざすように額を落とす。噛みしめた唇からはほんの少しだけ鉄の味がした。
 他でもない自分自身の感情だというのに、どうして私はこんなにもこれに振り回されてしまうのだろう。そして誰よりも傷つけたくはないひとを傷つけてしまうのだろう。自責と自己嫌悪と自嘲の雨が、穏やかに晴れた空を覆い隠すように私を蝕んでいく。
 フロイド先輩の言う通り、早く打ち明けてしまえばよかった。そうして玉砕してしまえば、少なくとも彼にあんな酷いことをしてしまうことはなかったはずなのに。私は、自分の我がままだけでジェイド先輩を、フロイド先輩を振り回してばかりで。
 とうとう堪えきれずにこぼれ落ちた涙が膝を濡らす。泣いたって何にもならないのに、後悔したってどうしようもないのに。

 ぐすぐすと膝を抱えたまま情けなく泣きじゃくる私の鼓膜に、ふとある音が落とされる。

 それはこちらへ近づいて来る足音だった。多分、恐らくフロイド先輩のものだろう。何故ならここはフロイド先輩のお昼寝場所なのだから。きっと先程の私の醜態を嗤いに来たのだろう。泣き顔だけは見られたくなくて、私は必死に額を膝へ押し付ける。
 足音が私の直ぐ隣で止まった。沈黙の中に彼がこちらを見下ろしているのが分かる。

「……笑いたければ笑ってください」

 彼に何か言われる前にいっそ、と私は口を開く。顔は上げないまま、拗ねた子どものような口調で。

「本当に、自分でもどうかと思うんです。好きな人の前であんな失礼な態度ばっかり取っちゃうの。可愛げが、とかいう話じゃないですよね。人として大問題ですよ」

 不思議と彼からの笑い声は落とされない。それをいいことに私はほとんどやけくそで言葉を紡いでいく。もういい、全部、全部吐露してしまえ。フロイド先輩に対して隠すべきことなんて、私にはもうないのだから。

「……嘘です。この間言ったこと全部。本当はちゃんとジェイド先輩に告白して、出来ることならジェイド先輩と恋人同士になりたい。でも、……でも、ジェイド先輩に拒絶されたら、今の関係まで壊れちゃったらって、そんなことばっかり考えちゃって、私、」

 さく、と芝生が踏みしめられる音が微かに聞こえる。どうやら、フロイド先輩が私のそば、さらに言えば目の前にしゃがみこんだらしい。近づいた影の気配に、そう理解した。

「──……小エビちゃんはさぁ、もしもジェイドと恋人同士になったとして、その後元の世界に帰れるって言われた時、どっちを選ぶわけ?」

 落とされた疑問の言葉に、私は首を傾げる。それはもう随分と前、初めてフロイド先輩に恋愛相談をした時に彼から投げかけられたものとほとんど同じ内容の問いで、そして私は既にそれへの答えを彼に返していたから。
 怪訝に思いながらも、気分屋な彼のことだからただ忘れてしまっただけだろうと私はその時と同じ答えをなぞるように口にする。小エビちゃんは、ジェイドと元の世界、どっちを優先するの?

「そんなの、もちろんジェイド先輩に決まってるじゃないですか」

 世界の違い程度で諦められるなら、世界と天秤にかけられる程度の想いならば、こんなにも苦しみはしなかった。諦められないから、何と比べたとしても一番に選び取ってしまうから。だからこれは『恋』なのだ。

 再び沈黙が落とされた世界に、私はついに自分の情けない顔のことも忘れて顔をゆっくりと持ち上げる。フロイド先輩のことだから、きっと依然と同じように酷く愉快そうな表情で笑っているのだろうけれど。それにしては少し様子がおかしい。

 まだ少し涙で滲んだ視界に世界を映す。傾いた夕日が落とす世界の輪郭は優しくて、穏やかで、その中に息づくその色彩までもがあまりにもきれいに輝いているものだから。呼吸が浅く止まって、心臓が淡く跳ねあがる。

 それは、そのコントラストは、そこに在るはずだったフロイド先輩のそれとよく似ていたけれど、やはり決定的に何かが違っている。私にとって、世界の何よりも美しく尊いもの。

 丸く見開かれたその双眸に、私の情けない表情が浮かんでいた。

「──……どう、して、」

 そこにいたのは、私の想いびと。ジェイド・リーチ先輩そのひとだった。
 戸惑いと驚愕に塗れた私の声に、彼の瞳がゆるりと弧を描く。そこに宿る光がどうしてか酷く優しい色を孕んでいたものだから、単純な私の心臓が思わず変な勘違いをしてしまいそうになる。そんなわけがない、と頭の中で必死に繰り返して、私はただ彼から与えられる言葉を待つばかり。

「……今の言葉は、本当ですか?」
「え、」
「僕のことが好きだと。世界よりも僕を選んでくださると。……それは、貴方の本心ですか? 心から、貴方はそう言ってくださるのですか?」

 彼の長い睫毛がふるりと揺れる。期待と、切望と、歓喜と、ほんの少しの不安をそこに孕んで。私にただただ問いかける。
 黒い手袋を嵌めた彼の手のひらが、そっと私の方へ伸ばされる。それから逃げるなんて選択肢はもう、私には与えられていなかった。

 まだ濡れた頬を、彼の指先が僅かな躊躇を纏いながら撫でていく。

 どうしてそんなにも優しい指先で私に触れるの? どうしてそんなにも甘い声で私に語り掛けるの? どうして、そんなにも愛おしげな瞳で私を見つめるの?
 喉が焼けるように熱くて、言葉がうまく出てこない。それでもこれだけはちゃんと彼に伝えなければと、私は必死に肯定の頷きを繰り返した。

「……そう、ですか」

 どくどくと心臓が早鐘を打つ。
 視界の先で、彼の瞳がまた優しく綻んだ。


「僕も、貴方のことが好きです。愛しています」


 さっきあれだけ泣いたはずなのに、枯れることのない涙がまた私の瞳から溢れ出す。胸に湧きあがるのは、困惑と驚愕と不信を覆い尽くすほどの歓喜。
 しゃっくりを上げる私に困ったような表情を浮かべて、彼は私に望んでくれる。

「もう一度、貴方の想いを聞かせて頂けますか?」

 私がずっとずっと殺し続けて来たその言葉を。

「──私も、ジェイド先輩のことが好きです。世界を捨ててでも、貴方の傍を望んでしまうぐらいに。貴方のことが、大好きです」

 どうやら僕たちは、随分と遠回りをしてしまっていたようですね。
 私の身体をその腕の中に抱きしめて彼が呟いたその言葉の意味を私が理解するのは、そう遠くはない未来のこと。


  ***


「……あ、おかえり〜ジェイドぉ。どう? 小エビちゃんとは上手くいったぁ?」

 ジェイドがオクタヴィネル寮の自室へ戻ってすぐ、彼に向けて投げかけられたのはそんな言葉だった。それはもちろん、他でもないジェイドの片割れであるフロイドから発せられたもの。相変わらずジェイドの部屋に入り浸ってはベッドを荒らしているフロイドの姿には特に何も言わず、ジェイドはただ自らへ向けられたその言葉に対して困ったように眉を下げた。

「おかげさまで、……と素直に言いたいところですが、貴方、全部分かっていたのならもっと早く教えてくださっても良かったのではないですか?」
「ええ〜? だってそれじゃ面白くないじゃん。楽しかったよ〜、ジェイドと小エビちゃんの両方からお互いについてのコイバナ聞くの。ふたりともなんでそうなんの? ってぐらいにすれ違っててさぁ。ほんと傑作」

 けらけらとただ愉快そうに笑う片割れの姿に、ジェイドはただ深い溜息を吐くことしか出来ない。我が兄弟ながら、本当にいい性格をしている。ジェイドがフロイドの立場になったとしたらどうするか、と問われるとジェイドもあまりフロイドのことを非難出来なくなってしまうので、釈然としない思いをひとまずは飲み込んだ。
 思い出し笑いが止まらないらしいフロイドの姿を横目に、ジェイドもまた淡く笑みをこぼす。確かに随分と酷いすれ違い劇を彼女と自分は繰り広げてしまっていたようだが、まあ、それもこうして最後にうまくまとまれば滑稽劇からハッピーエンドの恋愛劇へと様変わりだ。結果良ければなんとやら。ジェイドの胸を満たすのは、確かな充足感ただそれだけ。
 フロイドの恩恵によるところも多いことであるし、これ以上の文句は収めて彼にお礼のたこ焼きでも用意してやろう。そんなことを考えながら、ジェイドは片割れの横になっている自らのベッドへ腰を下ろした。
 自分とは互い違いに宝石がはめ込まれたフロイドの双眸が、愉悦の光を孕んでこちらを見上げている。

「よかったねぇ。小エビちゃん、元の世界よりジェイドのこと選んでくれて」
「ええ、本当に」

 くすくすと笑う双子の姿を見咎める者は誰もいない。
 怪しげな光を孕んだ瞳が綻び、弧を描いた唇の向こうに覗くのはウツボの鋭い歯。ようやく獲物を捕まえたと笑むその凶暴を、獲物であるあの少女はまだ知らない。自分が一体どんな瀬戸際に立たされていたのかも、あの少女は。


「──彼女が元の世界へ帰るための方法をどうやって壊すかを考える必要も、元の世界に帰りたいと言う彼女の心をどうやって壊すかを考える必要も、なくなりましたからね」


 暗く、重く、いっそ執着にも似たその感情を、それでも彼らは『恋』と呼んだ。


「本当に、喜ばしいことです。僕だって愛する人を苦しめたくはありませんから」
「あはぁ、ジェイドもウソつきじゃん」
「おや、バレましたか」
「ふふ〜楽しみだなぁ。ジェイドと小エビちゃんが番になってぇ、オレとアズールと4人でず〜っと一緒に海の底で暮らすの。絶〜っ対楽しいよねぇ」
「そうですね。それはきっと、とても幸せな日々でしょう」


 可哀想な少女。こんな『愛』に見初められて、果ては自らの意志でそれに頷いてしまった何とも哀れな少女。でも大丈夫。安心して。


「──……彼女からの答えも頂きましたし、これからは遠慮なく、彼女へたっぷり愛を注いでいくとしましょうか」


 全てを忘れるほどに。もう何も考えられなくなるほどに。
 愛して壊して差し上げましょう。

 ウツボが笑う。夜が更ける。
 ねじれた世界の歯車が、またひとつ回り始めた。



2020/6/17

- 55 -

*前次#


ページ: