君さえ


夜凪の葬列(ジェイド/仄暗)


 じとりと重い湿度を帯びた空気が、喉に張り付くような夜だった。

 時折駆けていく微かな風に申し訳程度の涼しさを探しながら、ジェイド・リーチは目の前を歩く小さな背中をただ静かに追いかける。視界ももう随分闇に慣れたというのに、それでもなお月のない空に星だけが瞬く世界はあまりにも暗くて、少しでも気を抜けばその姿を見失ってしまいそうだった。
 やや湿った地面を踏みしめる度に、ざ、ざ、という微かな音が響く。その音がふたつ分存在していることを時折確かめて、ジェイドは細く息を吐くのだ。虫の音も聞こえぬほどに静まり返った闇が、鼻孔をくすぐっていく土の香りが、制限された視界を補うかのように感覚を侵していく。首筋を伝っていった一筋の汗を、手の甲で少し乱暴に拭い去った。
 ざく、と一際大きく足音が響く。それはジェイドではなく、目の前の小さな存在が生み出したもの。その直後立ち止ったその身体に倣って、ジェイドもまた歩みを止めた。見失わないようにと監督生の背中だけを見据えていた視線を、ゆっくりと世界へ向ける。
 途切れた足音の向こうから、静かな海の音が聞こえた。
 掠れた土の香りを覆い隠すように、深い潮の香りが鼻孔を突いた。
 星空と海のふたつに分けられた視界の中で、監督生が今日はじめてジェイドを振り返って笑ってみせた。星の瞬いた僅かな光だけしか存在しない世界に、それでもその笑顔は酷く輝いて見えて。どうして今日は月夜でないのだろうかと心の中に呟いた。

「──ジェイド先輩、海ですよ」
 
 各寮の門限の時間もとうに過ぎた頃。ひとり学園を抜け出してどこかへと行こうとする監督生を偶然にも見つけたジェイドが同行を申し出たのが、もう2時間か3時間ほど前のことだっただろうか。行きたい場所があるのだと儚く笑った監督生は、思ったよりも簡単にジェイドの提案に頷いた。ジェイド先輩なら、いいかなって。そんな言葉と共に。
 そうして最終便のバスや電車を乗り継いで、しばらく歩いて、その果てに辿り着いた場所がここだった。

 誰もいない砂浜。波が寄せては引いていく浜辺。
 海。ジェイドの故郷。

 砂浜にふたつ分の足跡を残しながら、再び言葉もなくふたりは歩く。門限破りの罪も、無断外出の罪も、今は頭の中にない。ジェイドが考えるのは、監督生が何故この場所に来たがったのかということ。聞くタイミングはここまでいくらでもあったのに、それでも問いかけることが出来なかったのは、──監督生の瞳が、あんまりにも静かな陰を帯びていたから。
 ジェイドのことなど忘れたかのようにただただ前へと突き進み続ける監督生は、爪先が濡れるか濡れないかという瀬戸際でぴたりと足を止めた。ジェイドも今度は監督生の隣に並び立つ。けれど、監督生がジェイドの方へ視線を向けることはなかった。

 波打ち際に佇む監督生は、おもむろにその肩へかけていた少し大きなトートバッグの中から何かを取り出した。

 木の枠で輪郭を取り、何やら薄い紙が四方に張り巡らされた不思議な直方体。それが一体何であるかが分からないジェイドは、ただ監督生の手元を眺めるばかり。かさり、乾いた音が海辺に響いた。
 天井の空いたそれの中には、蝋燭が一本立てられている。まさかそれに火を灯すつもりだろうかと思えば、本当にそのまさかだった。同じくトートバッグの中に入れてきたのだろう。ジェイドが直方体に意識を奪われている間に、気付けば監督生の手には小さなライターが握られていた。
 木と紙なんていう燃えやすいものの中で火など点けては危ないのではないか。ジェイドがそれを指摘する言葉を吐くよりも早く、夜に赤が生まれ落ちた。

 ゆらゆらと揺れる炎は数秒もおかずにすぐさま直方体の中、蝋燭の芯へと導かれて行く。僅かな橙の光に浮かんだ輪郭を見やれば、監督生は酷く静かな表情でその炎を見つめていた。その姿にどうしてかぎしりとジェイドの心臓が奇妙に軋む。浅くなった呼吸に、潮を孕んだ空気が喉を苛んでいった。その感情につけるべき名前も夜闇の中に紛れてしまって、ジェイドの手のひらの中に残ったのはどうしようもない星空だけ。

 蝋燭に炎が移ったことを確認して、監督生はライターの火を消す。ジェイドの懸念も杞憂に終わり、その火が紙や木に燃え移ることは無かった。

「……それは?」

 引きつった喉に鞭を打って、ジェイドはようやくひとつの問いかけを転がすことに成功する。紙の向こうに揺らめく炎の姿はどこか妖しげで、厳かでもあって。ジェイドの言葉を受けた監督生は、おもむろにその場にしゃがみ込みながら唇を震わせた。

「灯籠です」
「トウロウ」
「ううん、分かりやすく言うと『ランプ』みたいなものですかね」
「なるほど。……それを、どうするのですか?」

 しゃがんだことでさらに開いたジェイドとの視線の高低差を埋めるために、監督生は首を大きく傾けて星空を仰ぐ。そうしてようやく交わった視線の先で、監督生はまたふわりと微笑みを浮かべてみせるのだ。けれど、今度は答えの声がない。まるでその代わりだと言わんばかりに、視線をジェイドから手元へと戻した監督生は、その手に持った灯籠をそっと下へ。波の上へ、手放した。

 まるで籠の中に閉じ込めていた小鳥を空へ逃がすかのように。

 ひらひらと舞いながら水面を漂った灯籠は、やがて引いていく波に攫われて遠い水平線へと旅立っていく。ゆらりゆらり、仄かな橙が暗い海の中に光を描いていた。

「……『灯籠流し』」

 その姿をぼんやりと眺め見送っていれば、ふと隣から言葉がこぼされる。遠退く灯籠から監督生へと視線を向ければ、曲げていた膝を伸ばして立ち上がる姿が見えた。近づいた視線は、それでもまだ遠く距離を持つ。

「夏の行事で。……死者を弔うために、こうして灯籠を流すんです」

 死者。弔い。冷たい響きを孕んだその文字列に胸を突かれて、喉が微かに鳴ってしまう。落ちた沈黙の中、ジェイドを見つめる監督生の瞳はまるで頭上に広がる星空のように凪いでいた。そのせいか、ジェイドを襲うどうしようもない感情はただ募っていく一方で。

「……一体誰を?」

 その語尾が微かに震えてしまったことに、監督生は気づいてしまっただろうか。
 ゆるりと一対の瞳が柔らかく弧を描く。波の音が静かに鼓膜をさざめかせた。


「──元の世界に帰りたいと願った自分を」


 穏やかに微笑んだその小さな人間の心に滲んだ血の赤が、ジェイドの視界に滲んでは消えていく。灯籠の橙はもう、海の向こうに沈んでしまっていた。砂浜に存在する足跡は、呼吸は、心音は、ふたつ分。21グラムを最初から持たないひとりとそれを失ってしまったひとりの世界に、それでもいつかは朝が訪れる。

 魔法は万能ではなかった。世界はあまりにも気まぐれで残酷だった。
 世界の扉は、もう二度と開かれない。
 その命に、帰り道はない。
 だから殺した。だから弔った。報われない願いに、意味などないのだから。

 そう言って、欠けたひとつは笑ってみせた。
 それは、酷く暑い夏の夜のことだった。
 

2020/6/22

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