君さえ


赤い色は何の色?(ジェイド)


 運命には色がある。私はそれを、この世界に生を受けた瞬間から知っていた。

 網膜を焼くような鮮やかな赤。人生で初めて知覚したそれは、私の父親と母親の間に結ばれたものだった。2人の小指と小指を繋ぐ、毛糸程の太さの運命の証。私をその糸の中に囲いこみながら、時折目配せをして微笑み合う両親に、「ああ、これが『運命』なのか」と私は幼いながらに理解した。

 私以外には見えないはずのその赤色。けれども人は、「運命の赤い糸」という言葉で運命を謳う。不思議なものだ。誰しもに結ばれているはずのその糸がどうしてか存在しない自らの小指を眺めながら、私はいつも首を傾げるばかり。自分には運命の人が存在していないのか、それとも自分にだけは見えない仕様なのか。誰に聞くことも出来ないその疑問を、私はずっと燻らせていた。

 そうして年を経るにつれて、様々な『運命』を見るにつれて、『運命』が絶対的で不的変なものではないということも理解させられることとなる。結婚して幸せそうに笑っている2人の小指に結ばれた赤い糸がお互いと繋がっていなかったり、赤色が薄れている糸が存在していたり、他と繋がっていたはずのそれが何かのきっかけで別の誰かと繋がったり。

 ──私の両親のそれのように、少しずつ黒く黒く変色していき、そして最後には焼き切れるように千切れてしまったり。

 両親から離婚を告げられた時、私は生まれて初めて、自分の赤い糸が自分には見ることができないものであって良かったと、心からそう思った。
 もしもそれが見えてしまっていたら、いつか私が誰かを愛した時、幸福にもその誰かと運命が結ばれていた時。愛した人との間に繋がった赤い糸がいつかは黒く染まってしまうのではないか、儚く壊れてしまうのではないかという恐怖を眼前に突きつけられてしまうことになる。そんな不安の中でどうして心から誰かを愛することが出来ようか。見えなくても意識してしまうだろうけれど、それでもいくらかはましだ。

 自分と誰かとの間に結ばれた赤い糸が黒く染まる瞬間なんて、見たくはない。
 だから、自分と誰かとの間に結ばれた運命の赤い糸なんて、見たくはない。

 ──そう、思っていたのに。

 突然異世界に飛ばされてきて、猫のようなモンスターに追いかけまわされて、ひと悶着どころではない様々が起こった夜の中。貸し与えられたオンボロ寮の埃っぽいベッドに寝転がって、窓の向こうから差し込む僅かな光に照らし出された天井を仰ぐ。グリムと名乗ったモンスターは、早くもベッドの隅でぐうぐうと健やかな寝息をたてていた。ゴーストたちの姿もない静かな部屋に響くそれをぼんやりと聞きながら、私はふと自分の右手を天井に掲げ見た。
 ──刹那、心臓がドクンと軋むような悲鳴を上げて呼吸が途端に浅くなる。さあ、と血の気が引いていくような感覚に慌てて身を起こし、右手を比較的明るい窓辺の方へと向けた。左手で目元を擦って、何度も瞬きを繰り返す。けれど、その存在が泡のように消えて無くなることはなかった。

「どうして……?」

 私の右手の小指。その根元。そこに息づく鮮やかな赤い色は、私には見えないはずだったもので。わずかな微睡みの温度を忘れてしまった脳が、ぎしぎしと軋みながらその思考回路を走らせていく。
 小指にしっかりと巻きついた、毛糸ほどの太さのそれ。空中に10センチほど伸びたその先はグラデーションを描くように透明になっていて、一体どこに繋がっているのかは分からない。それでもただ分かるのは、『私の運命』がこの世界のどこかにいるということ。

 どうして。再びその言葉を口にした。

 ここは私の生きる世界ではないのに。私の過去が存在しない場所だというのに。私は、いつか元の世界に帰らなくてはいけないというのに。帰りたいと、願っているのに。
 喉が焼けるような熱を帯びていた。込み上げてくる激情を抑え付けるように奥歯を噛みしめる。それでもなお耐えきれずにこぼれ落ちたひとしずくは、ベッドシーツに小さな染みだけを残して溶けていった。
 私が元の世界に戻ることが出来るようになるその日まで、運命の誰かに会わずに済む可能性だってある。いや、きっとその可能性の方が高いだろう。だって、世界には沢山のひとが生きているのだから。

 けれど、どうしてだろう。
 どれだけ自分にそう言い聞かせても、胸騒ぎは収まらなかった。

 その理由を私が知るのは、それから数週間後のこと。

 その姿を視界に映し取ったその瞬間、ほとんど無意識のうちに「きれいだ」という言葉が私の脳内に転がり落ちた。
 晴れた空の下に輝く、ふたつ並んだターコイズブルー。そのうちの片方。瓜二つな容姿だけれど、それでも確かに「違う」と感じた。その感覚に追随するように、視覚を彩ったのは赤い色。今までに見たどんな赤よりも鮮やかなその色彩に、目が眩むようだった。
 片割れとは違ってしっかりと制服を着こなした彼がリドル先輩たちと言葉を交わしている間も、リドル先輩の指示に従って追いかけてくる彼らから逃げる間も、私の脳内を埋め続けていたのはただひたすらにその糸のことばかり。
 私の小指と彼の小指の間にしっかりと結ばれた、その運命のことばかり。
 逃げる最中に振り返ったその先で私を見つめていた、左右で異なる色の宝石を嵌め込んだ双眸が、その視線が、また私の心を焦がしていった。

 それが、私と『運命』の出会いだった。

「……ジェイド・リーチ、先輩、」

 ケイト先輩から教えてもらった彼の名前を口の中に転がす度に、心臓が得も言われぬ感覚に包み込まれる。運命だから結ばれるわけではない。運命だから好きになるわけではない。愛することが出来るわけではない。そんなこと、私が一番知っていた。それでも、意識せずにはいられなかった。

 あの出会いから、数カ月の時間が流れていた。

 オクタヴィネル寮でのひと悶着以来、彼と言葉を交わすこともそれなりに増えた。けれど、その関係はただの先輩と後輩と呼ぶにふさわしいものでしかなくて。けれど、彼と私の間に結ばれた赤い糸は、解けることも色褪せることもなく、今日もただただそこに在り続けている。

 違う世界からやって来た人間の私と、海の底からやって来た人魚の彼。
 住む世界どころか種族さえ超えて結ばれた運命を、私は何度嘲り笑ったのだろう、何度罵倒したのだろう。こんなの間違いだ、おかしい、あり得ない。そう頭を左右に振り続けたところで、視界にちらつく赤い糸は消えやしない。

 彼と距離を取ってしまえばいい。彼を徹底的に避けてしまえば、きっとこの赤もいつか薄まってくれるはず。そう理解していながらも、悪徳オクタヴィネルと名高い寮の副寮長である彼を無視するのは後が恐ろしいからと行動に移せないまま日々が過ぎ。それが言い訳に変わってしまっていくことを自覚しながら、彼の姿を見つけるために甘く跳ねる心臓に気付かないふりをしながら、私は。

 私は、──彼のことが。

 彼が私に向ける笑みが柔らかく綻び始めたのは、一体いつからだろう。廊下ですれ違う時や食堂で出会った時に、必ず声をかけてくれるようになったのは。困った時にどこからともなく現れて、対価として相応しいのかも分からないようなものを条件に、個人的に手を貸してくれるようになったのは。離れた場所からも私の姿を見つけて手を振ってくれるようになったのは。私の声を聞き逃さないためにと、高い背丈を屈めてくれるようになったのは。

 私を見つめるその瞳があんまりにも優しい温度を孕むようになったのは。

 全部、全部、きっとこの赤い糸があったからだ。これがなければ、私が彼を好きになることも、彼が私にそんな温もりを与えてくれることもなかった。
 本当に? 誰かが私の頭の中に問いかけを落とす。ああ、そうに決まっている。私は何度もそう答えた。
 けれど、本当はそうでなければいいと考え続けていた。

 毎朝目覚める度に自らの小指に結ばれた糸の存在を、その色の鮮やかさを確認して安堵する日々。運命だから好きになるのだろうか。好きになるから、運命なのだろうか。答えなんて、私には分からない。

 けれど、私はこの感情を殺すことが出来なかった。その赤い色を心から憎むことが出来なかった。嫌いになることが出来なかった。もう運命なんて関係ないぐらいに、私は彼のことが好きになってしまっていた。
 それだけが、ただ一つの覆せない事実。

 だからこそ、帰らなくてはいけないと思った。

 運命は絶対的なものではない。不変的なものでもない。
 さようならだけが人生だと、何処かの誰かが言っていた。
 この赤い色にも、いつか終わりがくるのだろう。だって、私たちの間には種族どころか生きる世界にまで違いが横たわっている。あれだけ幸せそうに笑っていた両親の運命でさえ、私の目の前で儚く千切れてしまったのだから。それこそ、彼が海へと帰るその時に。もしくは、私が来た時と同様に強制的な力で元の世界へと戻されるその時に。
 いつか壊れてしまうならば。その未来に怯えるぐらいならば。いっそ、この手で壊してしまいたかった。この運命を解いてしまいたかった。だってその方が、きっと傷つかずに済むはずだから。
 それはなんて自分勝手で利己的な考え方だろうか。自嘲の笑みはいつの間にか唇に貼り付いてしまっていた。

 彼と私との間に生まれたこの想いに名前がついてしまう前に、さようならを。

「──私、元の世界に帰ることになったんです」

 必死に作り上げた笑みの不格好さに、彼は気づいてしまっただろうか。どうか気づいてくれるなと願うけれど、聡い彼のことだ。きっとそれは叶わない。
 ぱちりと瞬いた彼の瞳に、情けない表情を浮かべた私の姿が映し出された。
 学園長から元の世界に帰る方法が見つかったと個人的な報告を受けたのが、つい昨日のこと。その事実を知るのは、学園長と私と、そして今私が打ち明けた彼の三人だけ。驚愕と困惑に彼のきれいに整った顔が歪められる。その様子にさえ高鳴ってしまう心臓はもう手遅れ。早くそれを殺してしまわなければと思うけれど、あともう少しだけと願う私もいて。

「もちろんこの世界も大切な場所ですけど、やっぱり生まれ育った世界が恋しくて」
「……いつ、帰ってしまうのですか」
「……明日にでも」

 彼と合わせていた視線が、ゆっくりゆっくりと落ちていく。私の言葉に、革手袋を纏った彼の手のひらがぎゅうと握り込まれる。近距離に繋がった私と彼の赤い糸が、ゆらりと涙をこぼすように揺れていた。
 今すぐには消えなくても、きっと私が元の世界に戻ってしまえばいつかは解けてしまうはず。彼には見えない。そして、元の世界に戻れば私にも再び見えなくなる。ほら、やっぱりこの選択は間違っていない。慣れたように涙をのみ込んで、私は精一杯に明るい声を紡ぎあげてみせた。

「今まで、ありがとうございました。先輩には沢山優しくしてもらって。……本当に、感謝しています。先輩のこと、私絶対に忘れませんから」

 まるでもう会うことはないのだと言わんばかりの言葉。それにきれいな感情だけを込めて、泣き喚いている誰かの声には蓋をして、私は笑う。
 彼の言葉を聞くことが怖くて、色褪せていく赤を目の当たりにすることが恐ろしくて、私はすぐさま踵を返す。愛おしい彼の瞳を見つめることも、もうない。その悲しさに喉がひきつるけれど、立ち止まるわけにはいかなかった。少しでも躊躇してしまえば、足元から全てが崩れ落ちてしまいそうだったから。

「さようなら、ジェイド先輩」

 滲む視界を隠して、そう言って、私は彼から逃げるように歩き始めた。
 呼び止める彼の声が無いことに安堵と我儘な切なさを覚えながら、そんな感情も全てを振おうとただ前へ。2歩、3歩、ぐらぐらと揺れる床を踏みしめて。

 そうして、7歩目を踏み出したその瞬間。

 右腕が誰かに掴まれて、強い力で身体ごと後ろへと引かれる。片足が空中に浮いた不格好な体勢にあった私は、もちろんそれに抵抗できる訳もなく。ただ誘われるままに、身体が攫われていく。


「──……僕を置いていかないでください」


 彼に引き留められ、果ては抱きしめられているのだと私がようやく気付いたのは、耳元のすぐ近くにその声が紡がれた時だった。
 後頭部に回された手のひらによって、額が逞しい彼の胸板に押し付けられて。腰に回されたもう片方の腕によって身体の自由は9割8分が奪われてしまっていて。人間のそれよりもいくらか低いように感じられる体温に包まれたまま、私は呼吸を浅く止めた。
 思わず身じろがせた身体に、逃げようとしているのだと思われてしまったらしい。ぎゅう、とさらに強い力で抱き込まれてしまった身体が、息苦しさと圧迫感を訴える。
 逃げなければいけないと、確かにそう思った。彼を突き飛ばしてでも逃げて、元の世界へと帰らなければ。運命を解いて、彼を忘れて生きなければ。そう理解しているのに。していたはずなのに。──逃げたいとは、思えなかった。このまま彼の腕の中に、彼の温度の中に泡となって溶けてしまいたいと、本気で思った。

 それが、私の犯した罪だった。


「帰るなんて言わないでください。……さようならなんて、言わないで」


 彼の言葉が、震えた声が、固く結ばれた氷の飛礫のように私へと降りかかる。じくじくと痛みを訴え始める心臓に、目頭が熱く焼けるようだった。


「お願いします。──……ずっと、ここにいてください。僕の傍に」


 私だって、叶うのならばずっと彼の傍に居たい。この世界で、彼の隣で、彼と笑って生きていきたい。けれど、私は異世界人で、彼は人魚で。何もかもが違うから。

「貴女のことが、好き、なんです。ええ、きっと、これが『恋』と呼ばれる感情なのでしょう。いっそ『愛』とも呼ぶことも出来るのでしょうけれど、そう呼ぶにはいささか凶暴すぎる感情だ。……僕は、元の世界に帰るという貴方の幸せを願えない」

 それぐらいに貴方のことが好きなのです。

 言い聞かせるように繰り返されたその言葉が、また私の呼吸を奪っていく。
 何もかもが違う私と彼。けれど、お互いに抱いた感情はまったく同じもので。
 耐え切れず溢れ出した涙が、彼のブレザーにしみをつくっていく。それを気にすることも出来ずに、私はただ、込み上げてきた感情のまま彼の背中に手を伸ばした。
 彼の存在に縋り付いて、私はぼろぼろと想いをこぼす。ユニーク魔法を使われたわけでもないのに、ずっと殺していたはずの言葉が音となって落ちていく。

「……私も、好きです。ジェイド先輩のことが、どうしようもないぐらいに。……でも、私と先輩は種族も、生きる世界が違うから。──だから、今さようならを、」

 してしまった方がいい。そう続くはずだった言葉は、音になることを許されず哀れにも喉元へ消えていく。その犯人は、他でもない彼。ふたつの世界の中で、私がいっとう愛した優しい浅瀬の海の色。視界の間近に輝いたその色彩に、唇に触れた柔らかな感触に、また涙がひと粒頬を伝い落ちていった。

 離れていく温度に切なさを覚えながらも、私を見つめるその視線をただ見つめ返す。左右で色の異なる不思議なその瞳に浮かべられた感情が、まるで真綿で首を締めるかのようにじわりじわりと私を苦しめる。その苦しみさえ、今はどうしようもなく愛おしくて。

「……私、来た時みたいにまた突然元の世界に帰っちゃうかもしれないですよ?」
「それなら、そうならないための方法を探しましょう。貴方をこの世界に縛り付けるためならば、僕はどんなことでもしてみせますよ」
「……私、海では生きられないです」
「僕が陸に生きます。貴方と共に生きられるなら、それぐらいは安いものだ」

 ずっと私の心を蝕んでいた不安のひとつひとつが、彼の言葉で呆気なく打ち砕かれていく。ただただ私の隣だけを望んでくれる彼の想いに心臓が震えてしまってどうしようもない。

「──私のこと、ずっと愛してくれますか?」

 私の言葉に彼の瞳がぱちりと瞬いた。丸く見開かれたそれは、次の瞬間には酷く優しく細められていて。下げられた眉が困ったような表情を浮かべているけれど、瞳に宿る温度は世界の何よりも温かい。
 彼の大きな手のひらが髪を梳くように私の頭を撫でていく。

「世界を越えて出会うことが出来た運命を、僕が手放すと思いますか?」

 頬へと下りて、目尻に滲んだ涙を拭った指先。優しい左手。
 その小指に結ばれた糸が、あんまりにも美しい赤色で私の網膜を焼いていく。
 また溢れ出した涙に、輪郭の滲んだ彼が困りましたねと笑っていた。

「……だからどうか、僕のことをずっと愛していてくださいね」

 運命に恋をした。恋をして運命を感じた。
 結局そのどちらも、辿り着く場所は同じなのだ。
 好き、大好き、愛している。世界も種族も全てを捨ててしまえるほど。
 何もかもが違っても、その想いが同じならば、きっとそれが正解なのだ。

 彼の手を取った。彼との未来を、彼との愛を、この世界を、選んだ。
 運命は、今日も鮮やかな赤い色をしている。


  ***


「……うわ、すごい色」
「ん、どうした?」
「いや、久しぶりにあんな色見たなと思って」
「ああ、お前見えるって言ってたもんな。人と人との縁とかいうやつ」
「うん。……まあ、あのふたりは幸せそうだから大丈夫だと思うけど」
「不穏だなおい。何、どんな色だったわけ?」

「──……赤」

「赤? 運命の色じゃん」
「世間一般的にはね。……僕に見える赤は、」


「強い『愛執』の色だよ」


 背の高いターコイズブルーの男と、その隣を歩く小さな少女。
 視線の先では、男から伸ばされたその純な赤色が、少女をぐるぐると鳥籠のように包み込んでいた。もう逃がさないとでも言うように。執着の思いをかたちにするように。
 
 可哀想に。あの子、もう逃げられないね。

 そう呟いて、そのふたりからそっと視線を逸らす。
 それは、世界で一番鮮やかな赤い色だった。


2020/6/29

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