君さえ


溢れた水はどこへ行く(イデア)


※not監督生男装女夢主

 きっかけは何だっただろう。……ああ、そうだ。俺がイデアとの約束を破って勝手にゲームのストーリーを進めたせいで、イデアの機嫌を損ねてしまったのだ。

「なーあーイデアー!謝るからそろそろ機嫌直してくれよー……ゲームしようぜほら!」

 部屋の隅に体育座りをして拗ねているイデアに、俺は機嫌を直してもらおうと必死に声をかけた。それはもう必死に。なぜならイデアの機嫌が直らないと、一緒にゲームをして貰えないから。ゲーマーな俺にとってゲームとは呼吸であったし、そしてそのゲームを同じ熱量で共に楽しめる存在はイデアの他にいなかったから。
 けれどそんな俺の思いに反して、どれだけ謝罪してもどれだけ言い募ってもイデアは不貞腐れたまま。いつもならばそろそろ彼もゲームがしたくなって「仕方ないな」と言いながら折れてくれる頃合なのだが、どうやら今日は一段と虫の居所が悪いようだ。なんて悪いタイミングで彼の不機嫌スイッチを押してしまったのだろう。後悔してももう遅いのだけれど。

 はてさてこうなっては仕方ない。俺も反省の意を示して最終手段を使う時だということか。

「イデアー、何でもするから許してくれよー」

 このワードにならきっと彼も食いついてくれるはず。そして何だかんだと俺に甘い彼のことだ。何でも、と言っても何かを奢るだとかオルトのパーツについてだとかそういうことぐらいしか俺に要求してはこないだろう。
 そんな考えで軽く口を開きながら、俺はイデアの背中に抱きついて──

 刹那、視界がぐるりと反転した。

 背中が何か柔らかいものに叩きつけられて、痛みこそないもののその衝撃に呼吸が止まる。咄嗟に閉ざした瞼を恐る恐る開けば、そこに広がる世界は揺れる青。それが他でもないイデアの持つあの不思議な頭髪であると気づくまでにそう時間はかからない。
 自分の身体が今、ベッドの上で彼に仰向けに押さえつけられているという現状を理解することにも。
 静かに俺を見下ろす彼の視線に、まさかここまで機嫌が悪かったなんてとつい数秒前の自らの浅慮に頭を抱えた。これはきっと思い切り絞め技をかけられて、悶え苦しんで息も絶え絶えになるまで許されないやつだ。まあそのついでに体力のないイデアも死ぬのだけれど。

「っ俺に乱暴するつもり!?エロ同人みたいに!エロ同人みたいに!!」

 咄嗟に叫んだ言葉は勿論ただの冗談だ。怒っている相手にからかいの言葉は逆効果だということぐらい知っているけれど、ふざけていないとなんだか落ち着かなかった。
 それはきっと、俺を射抜く彼の視線が─…

「うん、するよ。今から君にエロ同人みたいなこと」

 え、と口端からこぼれ落ちた驚愕の声は、明確な音にもなりきれぬまま情けなく掠れて消えていく。今彼は何と言ったのだろう。彼の吐いた言葉の意味を理解できない俺がぱちりぱちりと瞳を瞬かせる度に、まるで天蓋のように俺を覆い隠した彼の青炎が、ゆらりゆらりとその形を変えていった。それはまるで、彼の内心を表しているかのようにも見えて。
 どくん、と心臓が不吉に軋む。本能的な恐怖による警鐘の音が、がんがんと頭に鳴り響いていた。
 俺を見下ろす彼の表情は、感情の全てを削ぎ落としたかのような無。先程紡がれた声も、その表情に似合った静かなもので、いっそ冷徹さすら感じられた。けれどそんな声と表情の静けさに反して、俺を射抜く満月の瞳はどうしてかどろどろとした感情をうるさいぐらいに煮え立たせている。その感情の名前を、俺は知らない。

「……冗談、だろ?だって俺は──」
「オンナノコ、でしょ?」

 言葉を遮るように落とされた彼の声に、ひゅ、と乾いた空気が俺の喉元で情けない音を奏でた。心臓が今までの比ではないぐらいにうるさく跳ねて、背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。

 どうして。

 それは今の今まで、2年以上もの間俺が隠し通してきた事実だった。元来どちらかといえば男性よりの背丈や体格、そして性格をしていたため、誰にも気づかれていないと思っていた。気づかれていないはずだった。
 俺の目が丸く見開かれていくのに反比例して、目の前の金色はゆるりと細く弧を描く。それはまるで月の満ち欠けを見ているかのようで。浅い呼吸が喉に引っかかり、肺が酸素の不足に嘆いていた。

「なんで気づいたのかって? 逆に気づかない方が可笑しいでしょ。……こんな細い手足を惜しげも無く晒して、こんな薄い腹で僕に抱きついて。隠す気あるのかって甚だ疑問だったよ」

 頭上で彼の片手によってひとまとめに囚われた両腕も、膝で押さえつけられた両足も、きっと俺がどれだけ抵抗したところで自由を返してはくれないのだろう。たとえ相手が引きこもりゲーマーで細身だったとしても、結局俺たちは男と女。物理的な力では、こちらに勝ち目などあるわけが無い。

 身じろがせた俺の四肢を、イデアはさらに強い力で制圧する。うっそりとしたどこか仄暗いその笑みに、また頭の中で警鐘が打ち鳴らされた。

「ひひっ……ほら、非力な僕の力にさえ君は勝てない。そうだよ、僕は男で、君は女の子なんだ。なのに、ねえ、……なんでそんなにも無防備でいられるのかなぁ?」

 金色が、俺の間近に迫ってくる。そこに映し出された情けない俺の姿さえ見えてしまうほどに。
 彼の髪先が俺の首筋をくすぐっていく。まるで耳に吐息を吹き込むかのように囁かれるその声に、ぞわぞわと背筋が波立った。

「クソ陰キャでコミュ障な僕が相手なら何の心配もないと思った?君に無理やり乱暴なんてしないとでも思った?……残念ながら、僕だって結局ただの『男』だよ」

 彼の大きな手のひらが、長い指が、まるで包み込むように俺の腹を撫でていく。そんな触れ方をしてくるかれの指先を、俺は今日初めて知った。

 ああ、そうか。

 きっかけは今日だけで作り出されたものではなかった。ずっと、ずっと、長い時間をかけて、天秤は傾き続けていたのだ。

「あーあ、据え膳かと思いながらも僕はちゃんと自制してきたのにさぁ。君はあんまりにも無防備だし、『何でもするから』とか簡単に言っちゃうし。……君との今までの関係が楽しかったから、それを壊したくないなとも思ってたんだけど、──もういいや」

 その天秤が傾きながらも今日の今日まで保たれ続けていたのは、ひとえに彼の『優しさ』のおかげだった。俺は、私は、ようやくそれを理解する。
 けれどそれは、もう手遅れでしかなくて。


「全部君が悪いんだ」


 覆水盆に返らず。
 倒れた天秤は、もう二度と元には戻らない。


2020/5/26

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