君さえ


お願いぎゅっと抱きしめて(ジェイド)


 監督生さん、少々よろしいですか?

 なんて、伺いを立てているように聞こえて、実のところこちらに選択権なんて与えられてはいない言葉と同時に手を引かれたのが、ほんのつい一瞬前のこと。
 彼の大きな手のひらに捕まってしまった私の左手は、もう自らの意志ではそこから逃げ出すことなどできない。黒い革手袋が手首の皮膚に擦れる感覚が、なんだか酷くくすぐったいものに感じられた。
 私を振り返ることもなく、ただ私をどこかへと連れ去っていく彼の背中をぼんやりと眺めて、ふと背後へ視線を向けた。そこに立っているのは、彼に手を引かれる直前まで言葉を交わしていたグリムとエースとデュースの三人。私の視線に気づいた彼らは、まるで「がんばれ」とでも言うように私に頷いてみせた。助けてくれる気はさらさらないらしい。まあ、助けてもらう必要も恐らくないのだけれど。

 ジェイド先輩、どうしたんですか?

 そんな問いかけを私が言葉にしたのは、誰もいない空き教室に入って彼がようやく足を止めた後のこと。出来るだけ穏やかな声色を心掛けたのは、彼が何だか──困り果てている、ような、そんな雰囲気を微かに纏っていたから。
 私との歩幅の違いを考慮したゆるやかな歩き方に、私の手を引く力の優しさ。たったそれだけでも、彼が怒っている訳ではないということぐらいはすぐに理解できた。
 ひたすらに無言を貫いていた彼が、おもむろに私へと視線を向ける。ちゃり、と彼の左耳にピアスが揺れる微かな音が、ふたりきりの静かな教室の中に反響した。大きな窓から降り注ぐ陽光によって輪郭を与えられた浅瀬の色が、きらきらと私の網膜を焼いていく。
 何かを堪えるように引き結ばれた唇には、いつもの穏やかな笑みの姿はない。わずかに下げられた眉と、ほんの少しだけゆらついている色違いの瞳。どうやら先程の私の直感は当たっていたようだ。それを理解して、私はふにゃりと目元を緩めてしまった。
 そんな私の表情に彼の瞳がまた揺れる。居心地が悪そうな、居た堪れないような、気恥ずかしさを募らせたような、そんな曖昧で複雑な感情がそこに滲んでいるのが確かに分かった。
 普段の彼ならば絶対に見せてはくれないだろうその様子をこっそりと楽しみながら、私は彼が紡ごうとする言葉を待つ。形の良い唇が開いて閉じてを数度繰り返し、そしてようやく、意を決したように大きく息を吸い込んだ。

「……ハグをすると、脳内にベータエンドルフィンやオキシトシンといったホルモンが分泌され、さらには副交感神経が有意になることで心身がリラックス状態になり、ストレスが軽減されると言われているそうです」

 つらつらと淀みなく続けられていく言葉が、私の頭を右から左へと流されていく。眉を下げたまま、真剣な声色で、けれども酷く複雑そうな雰囲気を滲ませて彼は言葉を紡ぐ。

「……最近、副寮長の仕事とモストロ・ラウンジでの仕事が立て込んでいまして……」

 尻すぼみになっていく声は、彼の願いを音にして私に運んではくれない。きっと、それが彼の最後の意地なのだろう。
 変にプライドが高くて、意固地で、素直ではない彼。いつもの冷静さも、理路整然とした口調も、スマートさもそこには見当たらないのだけれど、その姿すらどうしようもなく愛おしいのだから仕方がない。困り果てた表情で私を見据える彼の本当に言いたい言葉を理解して、私はにこりと微笑んで見せた。

「確かそれ、『好きな人と』って但し書きがあったと思いますけど、私でいいんですか?」

 こんな時でないと意地悪な彼に意趣返しなんて出来ないから、あえて可愛げのないそんな言葉を吐いてみる。そうすれば彼の瞳が視線の先でぱちりと瞬いて、そしてゆるりと柔らかく細められていった。ようやく見せてくれた、私の大好きな彼の笑み。玲瓏な光を孕んだ黄金の色を、まるで蜂蜜のように甘く溶かした、蕩けるようなその表情。
 困りましたね、とでも言いたげに瞳を揺らして彼は唇に言葉を紡ぐ。

「僕は貴方がいいんです」

 それなら、私が断る理由なんてひとかけらもありはしない。

 両腕を大きく左右に開いてみせれば、数拍もおかずに彼の腕が私の身体を優しく包み込む。190センチの身体と腕はやっぱり私には随分と大きくて、彼が力加減を間違えれば一瞬にして抱き潰されてしまいそうだ。
 彼の温度に包まれたまま潰えてしまう最期というのも、私は悪くないと思うけれど。
 そんな馬鹿みたいな言葉は胸の内に飲み込んで、私は彼の背中へ自らの腕を伸ばす。人間のそれよりは幾らか低いらしい彼の温度も、やはり温かいことに変わりはない。微かに感じる彼の鼓動と呼吸の振動に酔いしれながら、私は彼の疲れが少しでも解けますようにと願い続けた。


2020/8/9

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