君さえ


世界最後の日、貴方がいない(ジェイド/悲恋)


「──明日世界が終わるとしたら、ジェイド先輩は何をしたいですか?」

 4月と共に春が過ぎゆく空は、早くも夏を思わせるほどに青く遠く澄み渡っていた。気温が一定に保たれているはずの植物園の中の気温も、天井のガラス越しに降り注ぐ陽光のせいか随分と温かく感じられる。
 制服を汚さないようにと着込んだ実験着の白衣がなんだか酷く暑苦しくて、ずり落ちてきていた袖をもう一度適当に捲り上げた。
 ある程度満遍なく湿った腐葉土を踏みしめて、中身の少なくなった如雨露を手の中で曖昧に弄びながら、私はふと冒頭のそんな言葉を静かな植物園の中にこぼす。宛先は、丁度私が世話を命じられている花壇の隣で何かの作業をしている浅瀬色の麗人。ジェイド・リーチ先輩だった。
 魔法を使った授業の補習代わりに言い渡された植物の世話をする私と、恐らく部活動の一環で植物の様子を見に来たのだろう彼。十数分前に挨拶と一緒に交わした視線が、再びぱちりと交わった。
 左右を異なる色彩に染め上げた双眸が、ぱちりと瞬きながら私の姿をその虹彩に映し出す。

「……謎かけか何か、でしょうか」
「ああ、いや、そういうのではないです。ただの世間話と言うか……興味本位の問いかけと言うか……常套句というか……?」

 言ってしまえば「無人島に何か一つだけ持って行けるとしたら?」と同じような類のそれだ。特別な意味はなく、理由も無く、けれど人によってかなり個人差のある様々な回答が生み出されるために、暇つぶしや話題作りのためにとよく問われる問題。少なくとも、私が生まれ育ったあちらの世界では。
 けれどまあ、彼の様子を見るに、こちらの世界ではあまり聞き慣れない問いかけであったらしい。首を傾げるジェイド先輩の姿にそれを理解して、一体どうしたものかと言葉を探す。

「……明日世界が終わるとしたら、ですか」

 けれど、私が口を開くよりも先に彼の言葉がぽつりと世界に落とされた。ふたりぼっちの植物園に満ちる初夏を纏い始めた空気の中に、海を連想させる静かな音がさざめいていく。

「貴方はどうなさるんですか?」

 伏せられていた瞳がゆらりと持ち上がり、再び私の姿をそこに捕らえる。

「えっ、あ、あー……、問い返されると困っちゃいますね……美味しいものを沢山食べたい、とかぐらいしか思いつかないや……」
「っふふ、貴方らしいですね」

 私の答えにくすくすと遠慮なく笑い始めた彼に、じとりとした視線で抗議の意を示す。すみません、なんて謝りながらも、彼はそのまましばらく笑い続けていた。
 微かな肩の震えと一緒に浅瀬色の髪先が揺れて、その中にひと房だけ長く伸ばされた深海の色も、まるでひらひらとダンスを踊っているかのよう。長い睫毛の向こうに煌めいた黄金と鈍の色が、ゆるりと柔らかく細められている。

「そうですね、僕は……」

 珍しく手袋の嵌められていない彼の指先が、その目の前に青く色づいている植物の葉に優しく触れた。彼が先ほどから一生懸命に視線を注ぎ、世話をしている植物だ。花の咲いていない、茎と葉の鮮やかな緑だけで世界に佇むその生き物の名前を、私は知らなかった。

「──世界が終わるまでに、この花が咲く瞬間を一目見てみたいです」

 問いかけへの答えとしては少しずれていますけれど、と彼はその視線を手元の緑に落としながら小さく柔らかに微笑んだ。
 その表情にどうしてか浅く詰まった呼吸を飲み込んで、私は唇を開く。

「どんな花が咲くんですか? その子は」
「僕も写真でしか見たことがありませんが、薄紫色の可憐な花を5年間にたった一度だけ咲かせるそうです。それも決まった季節や周期がなく、本当に気まぐれに。……なんだかフロイドのようですよね」

 彼のたとえについ笑ってしまったのは、それが何だか言い得て妙だったから。
 確かに彼の片割れであるフロイド先輩が植物だったなら、それぐらいの気まぐれは起こしていそうだ。本人の前でそんなことを言ってしまえば、きっと力いっぱい絞め上げられてしまうのだろうけれど。

「3年前に一度咲いて以来、まだ咲いていないそうです。きっと僕の在学中に一度は咲くだろうと言われました」

 その日が楽しみだと笑う姿は、普段の大人びた様子とは一転して酷く年相応なものに見える。ガラス窓と木々の枝葉の隙間を抜けてこぼれ落ちてくる陽光と、その中に輝く彼の色彩があんまりにも眩しくて、私はそっと瞳を細めた。

「……私も見てみたいです、その花が咲いた姿を」

 世界がいつ終わるのかなんて分からないけれど。5年先どころか1週間後も、3日後すらも決して確実ではないのが世界であるけれど、それでも私たちは酷く簡単に『いつか』を謳う。私は『未来』を口にする。

 それがどれだけ愚かで、どれだけ残酷なことなのかも知らぬまま。
 ──自分という存在がどれだけ曖昧なものであるのかも忘れて。

 私が自らの犯した罪の重さに気付くのは、それから丁度ふた月後。初夏を越えて、夏の匂いがいっそう深くなった6月の暮れのこと。
 その日は朝からずっと雨が降り注いでいて、植物園のガラス天井の向こうに広がる空は、暗く分厚い雲に隙間もなく覆い尽くされてしまっていた。
 ざあざあと雨粒が世界を叩く音を遠くに聞きながら、私はひとり植物園の一角に設置されたベンチ腰かけてぼんやりと世界を眺め続ける。何を考えることもなく、何を思うこともなく、ただただ静かに呼吸を繰り返してそこに在る。

「──……監督生さん、」

 そんな世界の中に、突然落とされた誰かの声。もう随分と聞き慣れた響きをしているはずのその音に、わずかな違和感を覚えたのは何故だろう。
 その理由を確かめる暇もなく、私の視界に浅瀬の色が踊った。ジェイド先輩、と咄嗟にこぼしたその文字列は、確かに私の目の前に立つ彼を指し示す固有名詞。それなのに、それは間違っていないはずなのに──何かが、違う気がした。
 私を見下ろす黄金色と鈍色の一対も、彼の呼吸に合わせて微かに揺れる浅瀬の髪先も、ひと房の深海も、高い背丈も、身に纏った制服も、全部、全部が確かに彼だった。けれど、『彼』ではないと、どうしてか本能が直感したのだ。
 昨日の放課後、私に紅茶を振る舞ってくれた彼。今朝、廊下ですれ違った私に声をかけてくれた彼。昼休み、私の手を引いてくすくすと笑っていた彼。

「……監督生、さん、」

 今私の目の前に佇んでいる彼も、私に微笑みかけてくれた。綻んだ唇に酷く優しい温もりを孕んで、ゆるりとその目元を穏やかに細めて。……けれどそれは、私の知らない表情だった。
 悲しげに揺れる瞳の色彩を、まるで繊細な硝子細工を相手にするかのように恐る恐る伸ばされる指先を、またわずかに遠のいてしまった視線の高さを。

 私は、知らない。

「……花が、咲きましたよ。図鑑にあった通り、美しい薄紫色の花でした」

 わずかに震えたその声の響きは、やはりどこか深い海を連想させるもので。頬を撫でていく指先の温かさに脳が痺れるような感覚を覚えながら、私は彼の言葉を聞く。彼の名前を、ただうわごとのように呼びながら。

「ジェイド、先輩……?」
「あの日の問いかけへの答えを、今更ではありますが言わせてください」

 彼の虹彩に、私の姿が映り込む。曖昧なその輪郭がゆらゆらと揺れて見えたのは、一体どうしてだろうか。喉が引きつる感覚に呼吸が浅く止まった。
 5年に一度の花が咲いた。彼の目の前で、薄紫色に世界を色づけた。
 それは、私の知らない『いつか』のお話。
 私の知らない『未来』のお話。

「明日、世界が終わるとしたら、」

 そうしてきっと、『私のいない世界』のお話。


「──僕はもう一度だけ、貴方に逢いたい」


 ……ああ、そうか。彼の言葉に私は理解する。
 私の世界が終わる最後の日、そこに彼の姿は無いのだと。

 視界が滲んで、ほろりと涙がひと粒膝上にこぼれ落ちた。それを意識の向こうに知覚しながら、私はその指先を彼へと伸ばす。ジェイド先輩、彼の名前を呼ぶ声は酷く情けなく震えていて。
 けれどその指先は呆気なく空を掻き、雨音が微かに響く植物園に残されたのは、今はまだこの世界に息をしている私という存在ただひとつだけ。
 まるで白昼夢のように消えてしまった彼の面影に、私は呆然と立ち尽くした。
 小エビちゃん。そんな私を誰かが呼んでいる。意識とはかけ離れた場所に在る身体が、それでもゆっくりと動いてその誰かの姿を視界に映す。

「こっちにジェイド来なかったぁ? 何か闇の鏡の手違いで今のジェイドと2年後のジェイドが入れ変わっちゃったみたいでさぁ。ここが2年前だって説明した瞬間いきなり全力疾走でどっかいっちゃったんだよね〜……って、小エビちゃん? なんで泣いてんのぉ?」

 ほろりとこぼれ落ちた涙が止まることは無い。フロイド先輩の言葉に答えることも出来ぬまま、私はただ地面に力なく崩れ落ちた。ぽた、ぽたりと地面に敷き詰められた煉瓦に水跡が模様を描いていく様が、世界の遠くに巻き起こされている出来事のように思えた。

 ──いつか来る世界最後の日も、僕は貴方を愛しています。

 彼が残していったそのひと言が、ちっぽけな私の心臓に突き刺さって離れない。その傷跡から溢れ出した赤い血が、涙となってまた視界を滲ませた。

 ──ジェイド先輩、私も、貴方のことを。

 それは、逃れられないさようならの、ほんの数日前の出来事だった。



2020/7/23 ネットプリントに登録
2020/8/7  加筆修正、公開

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