君さえ


愛は沈めて、閉じ込めて、(ジェイド/微病)


 ──とぷん、と一瞬にして身体の全てが水に飲み込まれた。
 咄嗟に空気を求め開いた口からは、大きな泡が生まれのみ。肺を満たしたのは酸素ではなく、冷たい水のかたまりだけだった。髪先に、爪先に、眼球に、内臓に、水の冷たさが染みていく。水を吸った制服は、重く、重く、重石のように私の身体を水の中に引き留めた。
 水だけしか飲みこむことの出来ない身体は、水だけに満たされた肺は、それでも息苦しさを訴えることがない。水中で呼吸が出来ているという事実が、この非現実的な出来事が間違いなく唯一の現実であることを私に知らしめた。
 水底に沈んだ体で、この場所に水と私を閉じ込めている一枚の分厚いガラスに縋り付いた。
 大きな大きな水槽を構成する、透明なガラス板。手のひらを寄せたそれは、水以上の冷たさでただひたすらに沈黙を貫いたまま。きっとこの手でそれをいくら叩きつけたところで、傷のひとつもつけられはしないのだろう。
 ガラスの向こう。揺れる水に歪んだ世界の中。この水槽を照らす照明だけが光源となっている、薄暗い部屋の中。そこに佇むその人へ、私は必死に言葉を投げた。声なんて、この世界では全てが泡と消えてしまうだけなのに。それでもただ、私は彼の名前を呼び続けた。

 ──ジェイド先輩、どうして?

 私を魔法薬で『人魚』に変えて、この水槽に閉じ込めた張本人。
 ガラスの向こうから私をただただ静かに見つめるそのひとは、一体何を考え、何を思いこんなことをしたのだろう。馬鹿な私にはその理由のひとかけらだって推測できなかった。
 浅瀬の色がじわりと滲んで見えたのは、水の所為だろうか、それとも。
 彼の手のひらが、おもむろにこちらへ伸ばされる。ガラス越しに、私と彼の手のひらが重なった。その距離はたった数センチ。こんなにも近くにいるのに、こんなにも遠い。ゼロになってはくれないその距離にこぼれた涙も、水に飲まれて消えていった。

 ジェイド先輩、

 唇で彼の名前を呼ぶ。ほろりと口端からこぼれていった泡沫が、まるで声を形にしたように浮かんで、そうして儚く弾けては消えていった。
 私のこえに気付いてくれたのだろう。彼の輪郭がゆらりと揺れて、そうして優しく微笑みを浮かべてくれた。いつもの彼だ、私の大好きな彼の笑みだ。──それなのに、どうしてだろう。その笑顔に酷く胸が締め付けられた。
 彼が形の良い唇を動かした。声は聞こえない。それでも私は、それを聞き取ろうと必死に耳を澄ませた。分厚いガラスも、冷たい水も、全て全てが酷く邪魔に感じられた。

 彼の唇が紡いだことば。私はそれに、丸く目を見開くことしかできなかった。
 水槽の前から踵を返して部屋から出ていく彼の背中を呆然と見つめながら、私は手のひらを握りしめた。ガラスに叩きつけようとした拳は水の力に邪魔されて、少しの振動も世界には与えられなかった。

 ──ジェイド先輩。

 こぽり、と泡が空へと逃げた。暗い部屋の明るい水槽の中には、私だけ。

 ──私も、あなたのことが、

  ***

 ──監督生と呼ばれる一人の少女を元の世界へ帰す方法が見つかった。

 所用で訪れた学園長室でその話を盗み聞いてしまったのは、彼、ジェイド・リーチにとって本当に偶然のことだった。
 めでたいはずのその話。文化も常識も何もかもが違う異世界へ突然飛ばされてきた少女が、元の在るべき場所へ帰ることができるのだ。それはきっと、小説ならば大団円のハッピーエンドだと謳われてしかるべきものだろう。
 ……それなのに、それを聞いたその瞬間からずっと、ジェイドの心は荒れた海のように大きく波立っていた。元の世界へ帰ることが出来ると知り喜ぶ彼女の姿を思い浮かべるだけで、嬉しそうに元の世界へと帰って行く彼女の姿を想像するだけで、どうしようもなく感情が荒れ狂った。腸が煮えくり返るような怒りと、汚物に満たされた世界を見た時のような嫌悪感が体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていった。
 どうして魔法も使えない脆弱なあの少女のことを考えるだけで、こんなにも感情が乱れるのか。
 それは、ジェイドが少なからず彼女に執着しているのだという証拠。彼女を好いて、愛して、そして永遠にこの手の中に収めていたいと願う束縛の念。まさか自分にこんなにも『人間』らしい感情があっただなんて。思わず零れた笑みは、誰にも知られぬまま夕暮れの廊下に消えて行った。

 許さない。元の世界へ帰るだなんて。
 許さない。この世界からいなくなるだなんて。
 許さない。自分のいない世界で生きるだなんて。
 許さない。この手から泡のように消えてしまうだなんて。

 許さない。自分のいない世界で幸せになるだなんて。絶対に。

 だから彼は閉じ込めた。最愛をこの世界から、この手のひらから絶対に逃さぬように、全てを水の中に沈めてしまった。
 人を愛した人魚が自ら人となりそして泡に消えたというのなら、今度は人を人魚に変えてしまえばいい。
 とぷんと世界に響いた水音。水底に沈む最愛の姿。水に揺れる髪が、波に滲んだその色彩が、揺れる瞳が、分厚いガラス越しにこちらへ縋るように伸ばされた小さな手のひらが、どうしようもなく愛おしくて、愛おしくて。やはりこれが正しく正解だったのだと、そう確信した。
 ガラス越しに人魚となった少女と手のひらを合わせ、そうして男は微笑んだ。

「──愛していますよ、」

 たとえその形が歪んでいたとしても、確かにそれは、その感情は、男にとって正しく愛だった。

 青い照明に灯された水槽に背を向け、暗い部屋の中を男は歩き去る。部屋を出て廊下を歩いていた彼の背中へ、誰かの声が投げられた。

「……ジェイド!」
「おや、リドルさん。どうされました?」
「監督生の姿を見ていないか? 夕方からずっと行方が分からないんだ」

 不安と焦燥に揺れる表情と声。この様子ならば、きっと学園中の全ての人が彼女の姿を探し求めているのだろう。彼女がどれだけこの学園の人々に好かれていたのかがよく分かる。
 ──さて、これは隠し通すのが難しそうだ。
 心の中でうっそりと微笑んで、ジェイドは目の前の赤を宿した少年に倣い不安げな表情を浮かべた。


「それは心配ですね……元の世界に帰ってしまっただけならいいのですが」


 ──こぽり、泡のこぼれる音が響いた。



2020/3/29

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