君さえ


さようなら、もう会えないね(ジェイド/悲恋)


 見覚えのあるその部屋の姿は、何度瞬きを繰り返しても私の視界から消えることはなかった。床に呆然と座り込む私と、背後には世界を繋げてくれたのだろう姿見。おもむろに見渡した部屋の内装は私の記憶に残るものと全く同じで。遮光カーテンの広げられた窓の向こうからこぼれる淡い光は、世界に朝がやってきたことを優しく私に教え諭す。それはもう随分と久しぶりに迎える、この世界での朝だった。
 本当に帰ってくることが出来たのだと理解したと同時、胸にあふれたのはどうしようもないほどの哀しみと切なさ。私は自分の意思で望んでここへ帰ってきたというのに、どうしてこんな感情が生まれてしまうのだろう。

 その理由はたったひとつ。
 ──私が愛したひとりの人魚が、この世界にはいないから。

 恋を捨てて、愛を振り切って、私は元の世界を選んだ。この世界に残してきた全てを選んだ。だからこの想いは、後悔は、本当ならば抱いてはいけないもので。

 それでも、瞳からこぼれ落ちる涙を止める方法が私には分からなかった。
 ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、私は記憶の中にある彼の面影を必死に追いかけた。

 浅瀬の色を宿した髪に、ひと房の深海を携えて。高い背丈に整った容姿はまるで神様が精巧に作り上げた最高傑作のよう。左右で異なる宝石をはめ込まれた切れ長の双眸がゆるりと解ける様が、私は心臓を奪われるほどに好きだった。いいや、違う。今もなお、私はどうしようもなく好きなのだ。彼が、あの人魚が、ジェイド・リーチというひとが。
 
 ──けほり。突然喉から飛び出してきた乾いた咳が、引きずり出されるように次々と連鎖していく。肺を襲ったその苦しさは、海に沈んでしまった時のようにじわじわと私の身体を容赦なく蝕む。げほげほと繰り返す咳に生理的な涙が滲んだ、その瞬間。

 はらり、と何かが口からこぼれ落ちた。

 重力に従い床にかさりと乾いた音を立てたそれを視界に移す。涙に滲んだ世界に、それでもその薄桃色は鮮やかなほどに色づいて。
 胸にとめどなく溢れる彼への想いを糧に咲いたにしては、あんまりにも美しく可憐すぎる一輪の胡蝶蘭。非現実的すぎる出来事に思考が揺れる。けれど、けほりと咳込めばまたこぼれ落ちた薄桃色に、これが現実なのだと痛いほどに教えこまれた。

 花を吐く奇病。
 その名前を私は知っていた。
 発症条件も、それを治すための唯一の方法も。

 だからこそ私は理解した。
 この病は永遠に私を蝕み続けるのだと。

 なぜなら私の恋は、今となってはもう鏡の向こう側。
 遠い遠い世界の果てにあるのだから。

 けほり。薄桃色がまた世界を彩った。
 花びらと一緒にこの想いも胸からこぼれ落ちて、そうして消えてしまえばいいのに。そんな願いを嘲笑うように、胡蝶蘭はただただ美しく咲き誇る。私の想いを糧にして、それが枯れることは決してないのだとでも言うように。

 世界が繋がることはもう二度とない。
 これは、私の選んだ未来だった。
 私の望んだ結末だった。

 あのひとに紡いだ「さようなら」だけが、たったひとつの真実だ。

 だから私は、あのひとへの想いを抱いて、あのひとのいない世界でひとり、花びらに埋もれて生きていく。
 実を結ぶことのない愛を咲かせながら。
 あのひとの面影を辿りながら。

 それが、私の罪に世界が与えた罰だった。


  ***


「……本当に、帰ってしまわれたのですね」

 黒く塗られた鏡の前で、ひとりの男が言葉をこぼす。
 微笑むように弧を描いた唇から紡がれたその声は、今にも泣き出してしまいそうな程に震えていて。縋るように伸ばされた指先は冷たい鏡の感触をただなぞるだけ。その向こうに消えたあの人の姿を捕まえることは、もう出来ない。

「……貴方は、幸せですか?」

 世界を越えて出会ったあの人。深く深く愛してしまった唯一無二。そして、もう二度と会うことは出来ないジェイドの最愛。
 あの人の望みが叶ったならば、あの人がこれで幸せになれるなら。偽りではないはずのその想いも、込み上げる濁流のような感情に儚くもかき消されてしまう。

 鏡の向こうに消えていくあの手を掴むことが出来れば。
 たったひとこと「行かないで」と伝えることが出来れば。
 世界を捨てて自分だけを愛してくれと乞い願うことが出来れば。
 あの人は今もこの腕の中にいてくれたのだろうか。

 何度後悔したところで時計の針は戻らない。残された現実は、あの人との永遠のさようなら。ただそれだけだった。

 けほり。乾いた咳がこぼれる。
 同時に世界を彩ったのは、淡く柔い海の色。

「──僕は、貴方のことが、」

 花が咲く。誰かの想いを糧にして。
 今日も鮮やかに世界を色付ける。
 明日も、明後日も、その先も。
 枯れることはない。潰えることはない。

 あのひとへの想いがこの身とともに朽ち果てる、いつかの日まで。

 
2020/7/12

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