君さえ


それってつまり、そういうことですか?(ジェイド)


「──監督生さん、危ないですよ」

 左手が何かに包み込まれて、そのまま身体ごと左へと引っ張られる。身体の重心がそちらへと傾いて、右足が地面から浮き上がってしまった。とん、と左肩が何かに触れたと同時、つい一瞬前まで私がいた場所を他の生徒が歩き去って行った。それはつまり、私の身体を引いてくれた誰かの手がなければ、私は今頃、その生徒とぶつかっていたのだろうということを示唆していて。
 右手に持っていた単語帳から慌てて視線を持ち上げて、私は左隣に立つそのひとを仰ぎ見た。仰ぐ、なんてのは表現が大袈裟過ぎないかと何も知らない人には言われてしまいそうだけれど、事実仰いでいるのだから仕方ない。だってそのひとは、

「わ、ジェイド先輩!」

 190センチにも及ぶのだというその背丈は、百五十幾ばくかの身長しか持たない私にとって、最早巨人と呼んでも過言ではないぐらいに大きい。彼と出会った当初はその視線の高さの違いだけでも酷く怯えたものだけれど、今となってはもう随分と慣れてしまった。
 鮮やかな浅瀬色の髪と左耳のピアスを揺らしながら、私を衝突事故から救ってくれたジェイド先輩はにこりと穏やかな笑みを浮かべてみせる。相変わらず今日も顔がいいなぁ、なんて呑気な言葉を何とか飲み込んで、私は勢いよく彼に頭を下げるのだ。

「不注意でした、すみません! 助けてくださってありがとうございます」
「いえいえ。何とか間に合ってよかったです」

 勉強熱心なのはいいですが、学校内の廊下とはいえど危険には変わりないので歩きながら単語帳を読むのはやめましょうね。そんな正論をたおやかな笑顔で言われてしまえば、もちろん私が反論することなどできない。「はい!」と私に出来る最大限のいいお返事を返せば、まるで小学校の優しい先生のように「よろしい」と彼は左手で私の頭を撫でてくれた。
 それに気恥ずかしさを覚えながら、私はふと気づく。
 気づきのままおもむろに視線を落とせば、そこにはどうしてか未だ彼の右手に包み込まれたままの私の左手の姿。やっぱり身長が高いだけあって、彼は手のひらも大きいようだ。今にも握りつぶされてしまいそうなサイズ感にほんの少しだけ恐怖を抱いていると、頭上から「ああ、」と彼の声が降り注いできた。

「もしよければ、僕が目的地まで手を引いて差し上げましょうか? それなら、単語帳を見て歩いても危険には晒されないでしょうし。僕がちゃんと貴方を守ってみせますので」
「え、いや、……いやいや、それは流石に申し訳ないので遠慮します」
「おや、そうですか。残念です」

 残念さなんてひとかけらも感じさせない表情でそんなことを言ってのける彼は、相変わらず、言葉のどこからどこまでが本心から来ているのかもよく分からない食えないひとだ。今回の言葉は多分、いやきっとほとんど確実にただの冗談だろうけれど。
 それに、そんな提案にお願いしますと頷いてしまえば、一体どんな対価を請求されるかも分からない。今月はそんなに余裕のない日々を過ごす予定なので、そう言った面倒ごとはなるだけ避けたいものだ。
 珍しく手袋の嵌められていない彼の素手から、彼の体温が直に私へと伝えられる。微かに土の香りがすることから推測するに、きっとつい先ほどまで土いじりか何かをしていたのだろう。
 と、ふと、私はあることに気付く。

「……ジェイド先輩、意外と体温高いんですね。何となく勝手にジェイド先輩は平熱が引くいタイプのひとだと思ってたので、ちょっと驚きです」

 きゅ、と繋がれたままになっていた手のひらに力を込めれば、平均的な体温を持っている私にも、彼の温かな体温がわずかに伝わってくる。
 見た目的にも、性格的にも、実際の姿が人魚であることからも、何となく彼は平熱が低くて手のひらもひんやりとしているのだと思っていたけれど、どうやらその勝手な認識は間違っていたらしい。だって、彼の手のひらはこんなにも温かいのだから。
 見上げた先で彼の瞳がぱちりと見開かれて、そして数度の瞬きを落とす。その色彩も相まって、まるで海の中に星屑が瞬いているかのようだった。

「……ふふ。人魚といえど、今は人間の姿を取っていますからね。人間の基準に合わせた体温になっていてもおかしくはないでしょう。僕は代謝もいい方だと思いますし」
「ああー、なるほど。そう言われると確かに」

 これもまた見た目にそぐわず大食らいな彼は、ひとの2倍や3倍の量の料理をぺろりと食べてみせるのだけれど、そんな食事風景など一切想像させないぐらいに身体が引き締まっている。もちろんその分運動をしているというのもあるだろうけれど、それにしても摂取カロリーと体型維持との比率がおかしい。
 代謝の良い人は体温が高いともよく聞くし、きっとそういうことなのだろう。
 握っちゃってすみません、と言って手をぱっと離せば、彼の手のひらもあっという間に私から離れていく。すぐ間近にあった温もりが無くなってしまうことにほんの少しの寂しさを覚えてしまうけれど、それもあっという間に意識の奥底へ消えてしまった。

「それでは、僕はこれで失礼します」
「はい! 助けてくださってありがとうございました」

 改めてぺこりと頭を下げた私に柔らかな微笑みを残して、彼は廊下の向こうへと歩いていく。
 ……そう言えば、今日助けてもらったことに対する対価を請求されていないな。ふとそんなことが思考回路にひっかかったけれど、きっと彼の機嫌が良かったために対価は不必要だと判断されたのだろうと勝手に解釈して、気にしないことに決めた。
 ジェイド先輩は案外子ども体温。
 またひとつ新たに知ることが出来た好きなひとについての情報に、私は誰にも見られぬようにこっそりと顔をにやけさせた。


  ***


「──ってことがあったんですよ〜」

 生活費目当てで始めたモストロ・ラウンジでのバイト終わり。最後の備品整理で同じ担当になったフロイド先輩に向けて、私はつい先日巻き起こされたジェイド先輩との話をつらつらと紡いでいた。ちなみに今日、ジェイド先輩はシフトに入っていなかった。どうやら副寮長としての仕事の方に向かっているらしい。相変わらず多忙なひとだなと少し心配になってしまう。
 食器を片付ける私の隣で何かの書類を挟んだバインダーに向かっているフロイド先輩は、十中八九私の話など真剣には聞いてくれていない。けれど、私はそれでも別に良かった。聞いて欲しいのではなく、ただ私が話したいだけだったから。

「子ども体温なジェイド先輩って、失礼かもしれませんけどとってもかわいいですよね……思わず我を忘れてときめいてしまうところでした……」
「……小エビちゃんさぁ」

 全てを聞き流してくれる彼の記憶に私の話など残らない。そう信じて少し気持ち悪い言葉も紡いでいたのだけれど、それを遮るように落とされたのはフロイド先輩の静かな声。
 おっと、ついにうるせぇと怒られてしまうだろうか。そんな不安と恐怖に身を固めた私だったけれど、視線を向けた先で愉快そうに細められているフロイド先輩の瞳にそれはただの杞憂だと気付かされた。
 すぐさま彼の話を聴く体勢になった私へ、フロイド先輩はまるで内緒話でもするようにこっそりとした口調で続く言葉を紡ぎあげていく。

「いーこと教えてあげんね」

 ゆるり。弧を描いた彼の右目が、まるで夜空に浮かんだ三日月のように輝いていた。

「ジェイドの手のひらってぇ、普段は氷みてーに冷たいんだよ」

 ジェイドの体温が低いっていう小エビちゃんの予想、ほんとはぜーんぶ当たってんの。
 今にもけらけらと笑い始めそうな彼の言葉を、私は必死に頭の中で理解しようと噛み砕く。
 ええと、それは、つまり?
 ショートしそうな脳みそに思わず首を大きく傾げた私に、フロイド先輩はついに耐えきれないとでも言いたげに大きくその肩を震わせた。何笑ってるんですか、と彼を非難する余裕も今の私にはない。

「──おや、フロイドに監督生さん。遅くまでお疲れ様です」

 と、その時バックヤードの扉が開かれて、その向こうから話題の中心にあるジェイド先輩がひょこりと姿を現した。瞬間、フロイド先輩の笑みがさらに深まっていく。経験則からして、あまりよろしいことは考えていない表情だ。
 ジェイド先輩へと向けられた私の視線は、寮服を身に纏っている彼の、その手のひらへ。今日はしっかりと嵌められている手袋の向こうに彼が宿している体温は、一体?

「ちょーどいーじゃん! ジェイドぉ、ちょっと手袋外してみてぇ?」
「手袋、ですか?」

 ジェイド先輩にとってはあまりにも唐突なフロイド先輩の要求に、ジェイド先輩は瞳を瞬かせながらもすぐに応じる。それは彼らの間にあるある種の信頼関係の証なのだろうか。ほんの少し羨ましさを覚えた私の目の前で、手袋の向こうからジェイド先輩の素手が現れていく。
 ちなみに、私はここまで一切ひと言も発せないまま佇んでいる。何故なら、私の思考回路は未だ先ほどのフロイド先輩の言葉に埋め尽くされているから。
 彼の言葉が正しければ──私以上にジェイド先輩のことを知っているフロイド先輩の言葉を疑う余地などないのだけれど──、平熱の低いジェイド先輩の手のひらは、普段は氷のように冷たいと。それならば、あの日私の手のひらを包み込んでいたあの温かさは一体何だったのか。
 ぐるぐると回る頭の中が気持ち悪くて、今にも叫び声をあげてしまいそうだ。
 けれどもちろんそんな痴態など彼の前で晒せる訳のない私は、必死にそれを堪えて。

「──はいっ、ドーン!!」

 いたところで、突然フロイド先輩によって私の左手が連れ去られて行く。自らの身体に意識の向いていなかった私は、ろくな抵抗をすることも許されない。
 そして、フロイド先輩によって導かれた私の指先が辿り着いたのは。

 冷たい温度が指先に触れた。
 触覚だけではそれが一体何であるかを理解するには至らず、私は視線をゆっくりとそちらへ向かわせる。そうしてようやく飲み込むことが出来た現実は。

 ジェイド先輩の手のひらと私の手のひらが、フロイド先輩の仲介によって触れ合っている。

 突然のことに呆然としたまま、私は言葉もなくただただ思考を巡らせていく。
 私が触れている冷たい温度は、彼の手のひらに宿っているもの。フロイド先輩の言葉はやっぱり正しかったようだ。ジェイド先輩は、本当は平熱が低くて、手のひらが氷みたいに冷たくて、──あれ。それじゃあ、あの時のあたたかさは。あの時の彼の言葉は?
 と、私の思考回路が再び足踏みを始めた瞬間、指先から伝わってくる温度がじわりじわりと変化していく。その変化とは、言ってしまえば『上昇』であって。
 あっという間に温度を上げた彼の手のひらは、つい先日私が知った彼の温度と同じものになってしまう。私からも温かいと感じられるぐらいに、高い体温。そしてそれが生まれたのは、私と彼の手のひらが触れ合ってからのことであって。

 視線を手のひらから上へと持ち上げる。ゆっくりと、ゆっくりと。
 私の正面に立つジェイド先輩の姿が視界に映った。
 瞬間、私の手のひらに宿る温度もまた、その熱を上げてしまう。


「──ね、言った通りでしょ? 小エビちゃん」


 手のひらを重ね合わせて、お互いに視線を絡め合い、さらにはふたりして顔を赤く染めた私とジェイド先輩の間で、フロイド先輩が酷く愉快そうにそんな言葉を紡いでいた。



2020/8/15

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