君さえ


青天の霹靂(ジェイド)


 青天の霹靂。空というものの下に立ち、肺呼吸をする生活を始めてまだ2年にもならないジェイド・リーチにとって、青い空に突然雷が落ちるなんて情景はいまいちピンとこないのだけれど、それでも確かに、今この瞬間にこそその言葉が使われるべきなのだろうと直感的に理解した。
 人気のない放課後の校舎は、降り注ぐ夕焼けの橙に彩られて輪郭を曖昧にさせている。そんな世界の中にある、資料室ばかりが並んで滅多に人の足など伸びては来ない廊下の片隅。ジェイドはそこで、偶然にも『それ』を見た。
 壁に背を預けてしゃがみこむ小さな身体。窓から差し込む夕焼けの影に隠れるように存在するその姿は、それでもなおジェイドの視線を惹き付けて仕方ない。だからジェイドは、静かにその存在へと歩み寄った。何故ならそれは。その人は。
 自分を見上げる大きな瞳がぱちりと見開かれている。そこに嵌め込まれている宝石は、一片の光も通さぬほどに深い漆黒を孕む、磨き抜かれた黒曜石だとばかり思っていたのだけれど、どうやら実際のところは違っていたらしい。ジェイドの姿をまるで水鏡のように映し込む虹彩が孕む色彩は、決して完全な漆黒ではなく、わずかな茶色を孕んでいた。夕焼けの影にあってもなおきらきらと輝いて見えるその姿が、どうしようもなくジェイドの心臓を焼いていった。
 身長の高いジェイドが見下ろした先で、いつも伏し目がちに逸らされていた視線。それを生み出す彼女の瞳。それがこんなにも美しいものだったのだと、もっと早く知っていれば。
 ……知っていれば、どうだというのだろうか。無意識的に自らの脳内を駆け抜けていった思考回路にひとり内心で首を傾げて、ジェイドは目の前の現実から逃げ出そうとしていたそれを慌てて捕まえる。

「──……ジェイド、せんぱ、い?」

 濡れて滲んだ声が、困惑混じりにジェイドの名前を呼ぶ。そのまあるい瞳は、未だにゆらゆらと水面のように揺れながら、そこから真珠のごとき大粒の雫を溢れさせながら、脳天に雷を落とされ固まってしまったジェイドの姿を真っ直ぐに見つめていた。
 はく、と唇が開閉する。何か言葉を吐こうと、吐かなければいけないと、そう思ったのだ。けれどその意識に反して、紡ぐべき言葉はどうしてかその姿を見せてくれなかった。言葉がなければ声にすることも出来ない。ついでに言えば、表情を普段通り穏やかに冷静に取り繕うことも、今は何故か上手く行うことが出来ないという有様。巧言令色に定評のある『ジェイド・リーチ』という男の生きてきた、これまでの十七年余りの生涯において、こんな状態に陥ったことなど、今この瞬間を除いてたったの一度もありはしない。

 だから、そう。
 つまり、『分からなかった』のだ。

 今、自らの目の前でほろほろと涙を流し続けている小さな存在、自分の後輩にあたるひとりの少女、違う世界からこぼれ落ちてきたという脆弱な異世界人を前にして、ジェイド・リーチは、自らが一体何をして、何を言い、どうやって彼女に接するべきであるのかが分からなかった。
 本来、泣いている他人に寄り添い、その心を宥めて涙を拭ってやることなんて、ジェイド・リーチにという男とっては、六以外が出ないサイコロで六を出すぐらいに簡単なことだった。ついでとばかりにその弱みを引き抜き、その後の取引や契約に利用することだって。
 何故なら、彼にとって身内以外の他者の『悲しみ』や『涙』なんてものは、ただ『利用価値のあるもの』でしかなかったのだから。
 そんなものを見て動揺したことも、慌てたことも、狼狽えたことも、今までに一度たりとてありはしなかった。だからこそさらに動揺したのだ。
 自らが今、目の前で泣いているたったひとりの人間の涙に動揺しているという事実に。

 彼女はオンボロ寮の監督生。どこか不思議な雰囲気を纏ってはいるけれど、どこまでも普通で普遍的な、『異世界からやって来た』という点を除けばあまりにも平凡すぎる少女。この学園には似つかわしくないほどにお人好しで、誰かのために行動が出来る人で、考えなしの無鉄砲化と思えば案外策略家なところがあって、ふわふわしているように見えて結構ちゃんと現実を見ていて、時折言葉の切れ味が鋭い。相棒だという小さなモンスターを何だかんだと可愛がっていて、クラスメイトであるハーツラビュルの問題児2人と楽しげに笑っている姿が印象的で、けれどその時々にふと伏せられる瞳がどうしようもないぐらいに儚くて、この世界ではどうしたって『孤独』であるたったひとりの異世界人。
 その涙の理由なんて、考えずともすぐに分かる。世界の悪戯なんてはた迷惑で、突然これまで生きてきた世界から引き離された哀れな人間が、他でもない彼女であるのだから。
 ジェイドがするべきは、最大限に穏やかな微笑みを浮かべて彼女の傍に寄り添い、そして彼女の悲しみを解く手助けをすることだった。自らの所属するオクタヴィネル寮の掲げる『慈悲の精神』に基づき、深海よりも深い優しさでその涙を拭ってやることだった。
 それを頭では理解していても、雷に打たれてしまった身体はやはりその指示の通りには動いてくれない。
 ぱちり。目の前で瞳が瞬く。瞼が閉ざされて、そして再び開かれるその一連の流れ。それらの全てが、どうしてかジェイドには、スローモーション映像のようにゆっくりとした緩慢な光景に見えた。
 そのせいだろうか。瞬きをしたことで新たにこぼれ落ちた雫が、するりとその頬を滑っていく様さえもがありありと、あまりにも鮮明に、まるで網膜に焼きつくように見えてしまったのは。

 ──気が付けば、ジェイドは自らのブレザーを彼女の頭から被せ、そしてそれで封をするように彼女の身体を腕の中に抱きしめていた。

 困惑する彼女のくぐもった声が、ブレザーのやや分厚い布の向こうから聞こえる。それに答えることも、今のジェイドにはできなかった。何故なら、あまりにも突飛なその行動に一番困惑しているのは、他でもない彼自身なのだから。
 ジェイドの片割れであるあのフロイドでも、機嫌が悪くなければという但し書きは付くが、確実に今のジェイドよりはもっとましな慰め方をするだろう。それだけは確かに分かった。
 けれどまあ、やってしまったことを取り消すことなんて出来はしない。もぞもぞとブレザーの中に身じろぐ小さな命を、ジェイドは困惑のままに抱きしめ続ける。暗くて狭いところにいればきっとすぐに落ち着くだろうという考えは、あくまで彼自身の『人魚』としての経験則であって、人間でしかない彼女に考えもなく適用するのは些か粗雑な対応であった。そんなことにようやく気が付いたのは、腕の中の彼女が身動ぎを止めて、落ち着いた様子を見せてからのこと。それにほっと安堵すると同時、自らの動揺具合の酷さにも自覚が及んで思わず苦笑いがこぼれた。
 ひとまず彼女に拒絶される様子はなさそうだと、ジェイドは自らのブレザーに頭からすっぽりと覆い隠された少女の背中をそっと撫でてやる。勢いのまま抱きしめてしまった身体は、やはりジェイドの身体と比較すればあまりにも小さく脆いもので。今更ながら、力加減を間違えて壊してしまうことがなくてよかったなんてことを内心にぼんやりと考えた。
 静まり返った夕暮れの廊下の片隅にふたり、行儀も作法も忘れて座り込む。制服が汚れてしまうことも、今は意識の外にあった。
 カアカアと遠く鳴くカラスの声を聞きながら、時折こぼれる彼女の嗚咽に聞こえないふりをしながら、ジェイドは自らの腕の中にある温かな体温にそっと目を細める。もっとちゃんとした慰め方をしてやることが出来ればよかったなんて、柄にもなく謙虚なことを胸中に独り言ちながら。
 瞼の裏に蘇るのは、つい今しがた目にした彼女の涙。悲しみに暮れて、切なく泣きじゃくる哀れな少女の姿。誰にも見られぬようにと、知られぬようにと、たったひとりこんな片隅で嗚咽を噛み殺していた、健気でか弱いひとつのいのち。
 他人の涙に感情なんて抱いたことはない。後悔と苦痛と憎悪に泣き喚く醜い姿を見て、なんて愚かで面白いのだろうと思ったことがある程度だ。
 だから、それはジェイド・リーチにとって初めての感情だった。

 どうか早く泣き止んで欲しい、だなんて。
 貴方の涙を見たくはない、だなんて。

(──僕は、一体どうしてしまったのでしょう)

 抱きしめる腕へわずかに力を込めて、彼女との距離をさらに詰める。頭頂部があるのだろうと思しき場所へそっと頬を寄せれば、ブレザーの向こうの温もりがほんの少しだけ身じろいだ。それでも、決してそれはこの腕の中から逃げ出そうとはしない。その事実に奇妙な感覚を覚えた心臓が、曖昧な温度を孕んだ血液を全身へと行き渡らせていく。それに不快をひとかけらも感じはしなかったという現実が、ジェイド・リーチにとっての一番の大誤算であった。


(──……貴方は一体、僕をどうしてしまったというのですか)


 自分自身の力だけでは、どうしたってその問いかけへの答えは導き出せない。まるでその苛立ちをぶつけるかのように、そしてその答えを問いただすかのように、ジェイド・リーチは再び、抱きしめた温かな体温へ縋り付くがごとく頬を寄せた。


2020/8/19

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