君さえ


その心臓に処方する薬はないらしい(ジェイド)


 ぱちり、と視線が交わった。まるでジグソーパズルのピース同士が合わさるように、と表現するのは些か大袈裟だろうか。けれど、それ以上に丁度いい表現の仕方なんて見当たらなかったのだから仕方がない。
 私を真っ直ぐに見据えているヘテロクロミア。向かって右側には鮮やかなレモンイエロー、左側には深いオリーブの色彩が瞬いている。数拍を置いてその双眸がゆったりと弧を描いたことに、身の危険を感じるよりも早く心臓をときめかせてしまった時点で、もう私の負けは最初から決まっているようなもの。
 この場において圧倒的に敗者でしかない私は、もちろん、その笑みを浮かべたままこちらへ歩み寄ってくる彼から逃げることなど出来はしない。まるでその場に釘づけられてしまったかのように立ち尽くして、その煌めく浅瀬の色が視界の間近に瞬くのを眺めることしか許されていないのだ。

「こんにちは、監督生さん」

 微かに身体を屈めて私と視線を合わせてくれた彼に、私は一体どんな言葉を返したのだろう。どくどくと心臓が煩すぎたせいで、そんなことさえも私の記憶には残ってくれなかった。
 彼の表情が相変わらず穏やかな笑みを浮かべていたことからすると、そう可笑しなことは言っていないと思うのだけれど。彼を前にした途端こんなにも全てのリズムを狂わされてしまう自分自身に、どうしようもない情けなさを感じた。

「丁度良かった。少しよろしいですか?」

 目の前の色彩に釘付けになった私の視界の片隅に、彼の手のひらが揺れる。するりとこちらへ差し伸べられるその肌色を見てようやく、私は彼が珍しく手袋を外していることに気が付いた。
 私の答えを待つこともなく、彼の指先が何かを捕まえる。彼のきれいな肌に並べるには些か肌理の粗すぎるその肌色は、他でもない私の手のひらのもの。視覚から理解したその事実に、人足遅れて触覚がついてくる。私の手のひらを、手の甲を、指先を撫ぜていく滑らかな感覚。それが一体何であるのかも、ここまで来てしまえば理解せずにはいられない。
 ひ、と空気のつっかえるような情けない音が喉元に響いて、身体が思わず一歩後ろへと仰け反る。けれども、彼の手のひらにしっかりと捕まえられた私の両手は逃亡を許されなかった。
 その勢いのままに彼を振り切ることが出来れば結果はまた変わっていたのだろうけれど、やはり私にそんなことは出来るはずもなく。身体と意識は逃げの一手を打ちながらも、囚われの両手だけは大人しく彼の統治下に収まってしまっていた。
 どこかしっとりとしている彼の指先が、手のひらが、まるでマッサージでもするかのように私の手のひらを柔く揉み込んでいる。身長に合わせたサイズをしているそれは、私の手のひらをすっぽりと覆い隠してなお余りがあるほどに大きくて。肌理の細かい白魚のような肌にすらりとした指を携えていながらも厚く筋張ったその姿は、やはりれっきとした『男性の手のひら』であって。その事実に、また心臓の刻むリズムが速度を上げてしまう。
 微かに鼻孔をくすぐるアクアマリンの香りでさえ、今は私に宿る温度を上昇させていく要因にしかならなくて。はく、と開閉させた唇からは呼吸にも満たない空気しかこぼれ落ちなかった。

「実は、ハンドクリームを少し塗りすぎてしまいまして。こうしてお裾分けできる方を探していたんですよ。貴方が丁度良く通りがかって下さって、本当に助かりました」

 手のひらへ落としていた視線を、その声に導かれるように上へ上へと持ち上げる。ぱちり、と再びたおやかな彼の双眸と視線が交わった。瞬間、じわりと心臓が炎に飲まれるような、そんな感覚に襲われてしまう。肺呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうなほどの熱さに、彼の手のひらの中で私の指先が切なく跳ねた。
 ゆるりと、私を見下ろすふたつの色がお月様のように欠けていく。酷く楽しげに、愉快そうに、それでいて、あんまりにも優しい温度をそこに宿して。私を照らしている。

「──ふふ、顔が赤いですね。熱でもあるのでしょうか?」

 ああ、ほら。やっぱり私は、何をどうしたって彼には勝てないのだ。
 恋は病で惚れるは弱み。自らの小さな手のひらにうつされた、彼の纏うそれと同じ爽やかなアクアマリンの香りに、私はまたどうしようもなく恋をしてしまった。


2020/8/21

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