君さえ


牛乳パック四本脚事件の加害者さん(ジェイド/現パロ)


「……あ、」

 そのサインはいつも本当に些細なもので、ともすれば見落としてしまいそうになるようなものがほとんどだった。
 例えば、使い切られた箱ティッシュの箱がそのまま残されていたり、服が裏表になったまま洗濯機の中に押し込まれていたり、もう中身が幾ばくも残されていないペットボトルがそのまま冷蔵庫にしまわれていたり、壁に掛けられた上着に少しのしわが寄っていたり。

 今日のように、牛乳パックの上部が開け口を無視して両側から押し開かれ、不格好な四本脚になってしまっていたり。

 夜勤上がりの深夜、きっともう眠っているだろう彼を起こしてしまわないようにとこそこそ帰宅し、入浴を済ませた私をふと襲ったのは、「牛乳が飲みたい」なんていう何ともあどけない欲求だった。確か一昨日買った牛乳が冷蔵庫にあったはず。そんな記憶を引きずり出しながら、まだ生乾きな髪の毛をそのままにキッチンの冷蔵庫へと向かった私を冷たい密室の中で待っていたのが、そんな哀れな牛乳パックの姿だった。
 ぱちりと目を瞬かせる間にも、冷たい空気がぞろぞろと冷蔵庫の中から抜け出して私の肌を冷やしていく。そのままにしてしまうと冷蔵庫の他の中身が駄目になってしまうと瞬発的に理解し、私はひとまず牛乳パックだけを抜き取って扉を閉めた。
 一番に考えたことは、今朝の──とはいっても、昨日今日と遅番が続いているため、実際には昼過ぎのことではあるのだけれど──出勤前の私が、寝惚け眼で牛乳パックにこんな無体を働いてしまったのだろうかということ。けれど、今朝の私が牛乳を飲んだなんて記憶はかけらも私の脳裏には残されていない。となると、残された選択肢はたったひとつ。
 コップに牛乳を注ぎ入れながら、今回は『これ』かと、牛乳パック四本脚事件の加害者である彼のことを考えて思わず唇を緩く綻ばせる。
 きっちりと折り目正しく隙のない立ち居振る舞いを日常生活にも徹底する彼は、普段ならば絶対にこんなやらかしなんてしない。先述したあれそれについても、それをして彼から小言を言われるのは基本的に私の方なのだ。
 そう考えると、この数年来になる同棲生活の8割方を彼に面倒を見てもらいながら過ごしていることにも改めて気づかされるのだけれど、それについては彼の方も楽しんでいると以前聞いたので、感謝だけは忘れずにそのままでいようと思った次第である。その代わり、こういった時にちゃんと気づくことが私の責務であると勝手な使命感を抱いているのだが、それについてはまだ一度も彼には伝えたことがない。彼と過ごす老後の時間に「あの時こんなことを考えていたんだよ」と打ち明けるために、今は大切に心の中に秘めておこうと決めているのだ。
 はてさて、ひとまずそれに気づいたはいいものの、現在時刻は日付もとっくのとうに回って数時間が経過した頃。日付的には今日となる明日も早いのだろう彼は、もう深い夢の中にいるに違いない。残り3分の1程度になった牛乳パックとコップを片付け、歯磨きを丁寧に行いながら、私はぼんやりと考える。
 こういう時は早め早めに対処した方がいいというのは、経験則からも既に理解している。だからこそ、明日の自分の背負う辛さを理解しながらも、明日の朝は彼と同じ時間に起きて彼の出勤を見送ってあげようとそう思ったのだ。
 いつも私のことを優先してばかりの彼を、こういう時ぐらいは私が優先しなければ。早起きは苦手だけれど、それが彼への愛情表現のかたちとなるのなら厭うことはしない。頑張って彼よりも先に目覚めて、ついでに寝起きの彼を堪能させてもらおう。そんな不純な想いもさり気無く抱きながら、眠る準備を終えた私は意気揚々と彼の眠る寝室へと向かうのだ。
 電気は点けないまま、暗闇を辿って彼と共有している寝室の扉へとたどり着く。出来るだけ音を立てないように扉を押して、開き切らない隙間に身体をねじ込ませた。
 ベッドサイドに灯された彼の気遣いとも呼べる橙のライトが、淡く温かな光で寝室に影を落としている。そのすぐ傍にある白いシーツの海の中で、すやすやと穏やかに眠るひとつのかたち。それはもちろん、私が世界で一番に愛した彼というひとの姿。
 フローリングに爪先を滑らせて、ゆっくりとベッドへ近寄る。扉側から見て奥側の半分を陣取った彼を起こさないよう、なるたけ静かにシーツへ上った。きし、とふたり分の体重にベッドが軋むけれど、きっとそれぐらいならばもう彼は目覚めたりしないだろう。同棲を始めた当初はそんな些細なことでもすぐに目を覚ましてしまっていた彼のことを思い出して、その変化にまた笑みがこぼれ落ちた。
 彼が空けてくれているベッドのこちら側半分に座り込んで、こちらへ背を向けている彼の姿に視線を向ける。ライトの橙を受けた彼の鮮やかなターコイズブルーが、不思議な色合いでちかちかと瞬いていた。たったそれだけのことで堪らない愛おしさに急き立てられてしまった心が、意識も置き去りにして私の身体を動かし始める。
 手のひらをそっと彼へ伸ばして、その指先を柔らかなターコイズブルーに絡める。真っ直ぐで指通りの良い彼の髪先は、まるで水のようにするすると私の手の中から逃げていってしまう。少しくすぐったさも覚えるそんな感覚もやはり愛らしくて、私は彼の眠りが少しでもよりよいものになりますようにと切に願いながら、彼の頭を撫で続けた。

「──お疲れ様、ジェイド」

 小さな声でそんな言葉を転がした刹那、目の前にターコイズブルー以外の色彩が踊る。咄嗟に持ち上げた手のひらが曖昧に空を掻いて、瞳が丸く見開かれた。交わった視線の先で、何とも複雑な温度を孕んだヘテロクロミアが私のことを見つめていて。どうやら彼を起こしてしまったようだと、自らの行動の浅はかさに気付かされる。
 けれど、どこか不機嫌そうにも見える彼の目付きに、それでも怒りや不快感が滲んではいないことにも私はすぐさま気付くことが出来てしまう。だからこそ、寝起きゆえか曖昧に瞳を揺らす彼へ、私は自然と酷く甘ったるい表情を浮かべてしまったのだ。
 それも仕方のないことだろう。だって、今日も今日とて、こんなにも私の恋びとが愛らしくて愛おしいのだから。

「ハグと膝枕とそれ以外ならどれがいい?」

 両手を軽く左右へ広げて、私はまだ横になったままの彼へそう問いかける。私をじっと見つめる彼の瞳が、一度、二度と瞬きを繰り返す。静かなその動きの中に揺れる彼の睫毛が生み出す、柔く微かな影の形。そんな些細な事柄ひとつを取っても大袈裟なぐらいにときめきを訴える心臓には、もう手のつけようもありはしない。病名を『恋』とするか『愛』とするかは、その時々の私の裁量次第と言ったところか。
 数秒の沈黙。その後に衣擦れの音。ゆっくりとした動作で身体を身じろがせた彼は、まるで丸太が転がるようにその頭を私の膝の上へと乗せてきた。どうやら気分は膝枕のほうだったらしい。左右に広げていた手のひらを下ろして、再び彼の頭へと伸ばす。
 そのまま、特に何も言葉を紡がずに彼の髪を優しく梳き続ける。後頭部を私の方に向けた彼の表情を覗き込みたい気分に襲われたけれど、今は何とか我慢した。彼の嫌がることは極力したくないのだ。こういう時には特に。
 されるがまま私に撫でられ続ける彼は、まるで大きな猫のようにも見えて。思わずくすりと笑みをこぼしてしまう。すると、どうやらそれがあまりお気に召さなかったらしい。彼の頭がくるりと回って、あまりにも整いすぎているかんばせが私の視線の真正面に晒された。
 そのはずみでひと房だけ長くなっている黒髪がはらりとこぼれ、私の膝上に踊る。淡いライトの光に包まれた彼の姿に、私はついに呼吸までもを忘れてしまった。左右で色を違えた瞳が、真っ直ぐに、真っ直ぐに、私を見上げている。
 彼の頭に残していた私の指先を、柔らかな感触がするりとくすぐっていった。
 私の膝を枕にして仰向けに寝転がった彼が、その右手をおもむろに持ち上げる。その指先が向かう先は、他でもない私の下。
 頬を撫でられる。触れられた部分から溶け落ちていってしまいそうなほどの熱を与えられながら、静かなその動きの向こう側に隠された感情の色を言い聞かせられながら。あまりにも優しい柔らかさを帯びた瞳に、ありったけの愛情を込めた視線を送られながら。

「……ジェイド?」
「……最近、なんだか、貴女とこうして視線を交える機会があまりなかったなと、思いまして」

 朝早くに家を出る彼と、夜遅くに家に帰ってくる私。仕事による生活時間のすれ違いが生まれたのは、一体いつからのことだっただろうか。それを理解した途端、私の胸にまでどうしようもない寂しさが込み上げてくるのだから、私たちを隔てていた時間というのはそれなりに長いものだったに違いない。多忙の中で必死に抑え込んで来ていた感情が、秘められていた分も上乗せされて次から次へとこぼれ落ちていく。

「寂しかった?」
「……貴女こそ、寂しかったのでは?」
「うん。寂しかった。すごく」
「……」

 意地悪な彼の言葉にあえて素直に頷いて見せれば、ぱちりと彼の瞳が予想外に見開かれる。その表情もやっぱり猫みたいだよなぁ、なんてぼんやりと考えていると、私を真っ直ぐに見つめていたその視線がゆらゆらゆらりとあちらこちらへ彷徨い始めた。
 おや、と思いながらそれを眺めていれば、酷く居心地の悪そうに明後日の方向へと固定された視線をそのままに、彼が少しの言い淀みを纏いながらその言葉を紡ぎあげる。

「──……僕も、寂しかった、です」

 牛乳パックの開け口を間違えるぐらいに? なんて言葉も、私は彼みたいに意地悪ではないので喉元にしっかりと飲み込んで、その代わりとばかりに笑みをくすくすと落とした。そんな優しさに溢れる反応でさえ、どこか意地っ張りなところのある彼にとっては居た堪れなさなさを助長するものでしかなかったらしい。
 むくりと勢いよく起き上がった彼が、その長く逞しい腕の中へ一瞬にして私の身体を抱き込んできた。ベッドが微かに軋む音が遠く聞こえる。突然のことに、わ、と驚きに声をこぼした時にはもう既に、私の身体は彼の身体ごとベッドに沈んでしまっていた。
 白いシーツが私と彼のふたりぶんの体温を優しく受け止めてくれる。苦しいぐらいに彼に抱きすくめられてしまっては、もう私には身じろぎも出来はしない。ぎゅうぎゅうと締め付けられるこの感覚が、それでもやっぱり、私にはどうしたって愛おしくて。
 応えるように彼の背中へ私も腕を伸ばし、精一杯の力で彼を抱きしめた。溢れ出してくる「好き」の感情を彼の心臓へ直接届けるために、その胸へと額を摺り寄せながら。
 彼の体温と私の体温とが、触れ合った部分から溶けあうように結ばれていく。どうしたってふたつでしかない私と彼が、まるでひとつになっていくようなこの感覚。それに泣きたくなるぐらいの幸せを感じながら、私は忍び寄ってきたまどろみに身を委ねる。
 ああ、そうだ。明日はちゃんと彼よりも早く起きて、そしてちゃんとあの不格好な牛乳パックの姿を見納めておかなければ。明日の彼はきっと、証拠隠滅とばかりにすぐさまそれを片付けてしまうだろうから。
 眠りに落ちていく私の意識の中に、ほろりと大好きな彼の声がこぼされる。
 どうして貴女は、いつもすぐに気づいてしまうのでしょうね。なんて。そんなの、私が貴方のことを心の底から愛しているからに決まっているじゃない。
 だから次も、その次も、ちゃんと気づいてみせるから。分かりづらい貴方からのサインを絶対に見落としはしないから。こうして貴方を甘やかす特権を、どうか私だけに許して。なんて、そんな私の精一杯の我がままも、きっと貴方には軽く笑われてしまうのだろうけれど。

 哀れで愛おしい牛乳パックに思いを馳せながら、彼の温度に酔いしれながら、今日も私は幸せな眠りの中に落ちていく。
 彼への愛に溺れていく。


2020/8/23

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